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第壱夜

【鵺】ぬえ

一:鳥のトラツグミの異称

二:源頼政が射取ったという伝説上の怪物。

  頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に、声はトラツグミに似ていたという。

  声を聞くと災いが訪れると恐れられていた。

三:いろいろな動物が混じっていることから、正体不明の人物やあいまいな態度に  いう。

 秋の夜更け、虫すらも眠りにつき静寂につつまれた深い闇のなか、細い細いなきごえのようなものがかすかに聞こえた。


「ばぁや、あの声はなんじゃ?」


 夜は肌寒くなったせいか手水に眼を覚ました五つのトワ子は、厠のかえりみちに廊下をふりかえった。

そこにはトワ子の足元を照らすために行灯を持ったばあやの、いかにも嫌なものを聞いたとしかめた顔があった。


「…お嬢様、お気のせいでは…」

「ばぁや、その顔はお前も聞こえているのだろう? あの声はなんじゃ?」


 トワ子が重ねて問うと、ばぁやはしかめていたシワだらけの顔をさらにゆがませて忌々しそうに答えた。

「……あれは、…(ぬえ)の鳴き声にございます」

「ヌエ?」

「鵺の鳴き声を聞いた者には災いが訪れると申します。さぁ、はようお布団に戻って寝てしまいましょう」



 ばぁやはトワ子を急かすようにその小さな背を軽く押した。

トワ子も暗くて不気味な廊下にいつまでもいるのは心細く、促されるままに歩く。

しかし細い細い声は途切れながらも、いまだに続いているように聞こえる。


「わしもお前も鵺の鳴き声をきいた。災いがくるのか?」

行灯の灯りに照らされた二人の影が、トワ子の目の前でゆらゆらと頼りなく揺れた。

「鵺の声を聞いたこと、誰にも言わずばぁやとお嬢様だけの秘密にいたしますれば、なにも起きますまい」


 長い廊下を渡ってトワ子の部屋に戻り、トワ子は布団にもぐりこんだ。

枕元を見上げると、行灯の灯りに照らされ顔のしわが影で強調された不気味なばぁやの姿があった。

(このばぁやだって妖怪に負けとらん…)

トワ子はそっと思った。


「お嬢様、明日に目覚めたときには、全てを忘れていましょうぞ。忌まわしいことは、このばぁやが全て引き受けますゆえ…」

その声を最後に行灯の灯りは消され、全ては闇にのまれていった。


 目を閉じたトワ子の耳の奥で、胸をかきむしるような細い細いなきごえがいつまでも、いつまでも鳴り響いていた。






「お嬢様、お目覚めの時間でございます。起きてください」


 うら若い女の声にトワ子は目を覚ました。

「……ばぁや、…えらい若作りした声じゃな…」


 トワ子は額に手を当てながら声の主を探した。

いかなる術をつかえば、あのしわくちゃのばばぁが先ほどのような瑞々しい乙女の声を出せるというのか。

…やはりあのばばぁは妖怪であったか。


 明るい日の光りとともにトワ子の目に飛び込んできたのは、しわくちゃの老婆とは似ても似つかぬ麗しい乙女の顔だった。


「…ミワ…」


 それは、トワ子が九つのときに世話係としてトワ子についた女中のミワであった。


「うふふ…、お嬢様、お目が覚めましたか?」

トワ子ゆっくりと身を起こしながら、艶のある笑みを自分に向けるミワを見た。

ミワは齢14を迎えたトワ子と同い年くらいだが、頭ひとつぶん背が大きい。

だが決して大柄というわけではなく、線が細くてどことなくか弱い印象を受ける。

実際に並ぶまでトワ子はミワが自分よりも一回り小さいと思っていたくらいだ。



 ミワはとにかく美しいとトワ子は思う。

他の女中と同じように結い上げただけの髪はこれぞ鴉の濡れ羽色といわんばかりに艶があり、肌は抜けるように白く、また唇はやや薄めだが朝露に濡れる薄紅の花のように艶やかだった。


 そしてその瞳。

まだ少女といっても差し支えない年頃にもかかわらずどこかしら憂いを秘めており、ある者には庇護欲を、ある者には嗜虐欲を抱かせる魔性のような瞳だった。



 トワ子はミワが屋敷に着たときのことを今でも鮮明に覚えている。

初めての奉公先におどおどとしているミワを見た瞬間、この少女を自分が守らなければいけないと強く感じた。

この少女は女も男も狂わせる。

自分が守らないと何もかもが破滅してしまう、と九つのトワ子はなぜだかわからないが強く思った。


 ミワは女中見習いとして屋敷に奉公にきたが、トワ子は屋敷の主である父にミワを自分つきの世話係にしてくれるように一生懸命頼み込んだ。

トワ子が生まれてからばぁやが世話係としてついていたが、6歳になる前に老衰でこの世を去ってからは決まった世話係がいなかった。

今まで何かをねだることのなかった娘の訴えに、父はしばし悩んだものの許しを出した。




 そして今に至る。


 トワ子はミワに手伝わせながら寝巻きから着物に着替えた。

「いつ見ても、お嬢様は美しい…」

ミワは、ことあるごとにうっとりとしながらトワ子を褒める。

美しいミワに褒められるとトワ子も悪い気はしない。

だがトワ子は口を尖らせた。


「ミワ、わしと二人きりのときは名前を呼べと言っているだろう?」

眉をしかめながらミワを軽くにらむと、ミワは頬を赤く染めてうつむいた。

「…ト、トワ子さま…」


 ミワの可憐な唇が自分の名の形に動くのをしっかりと見届け、トワ子は満足げに微笑んだ。





 トワ子はとある村の何代も続く権力者の娘である。

何代前かの先祖が立てた屋敷は、ただでさえ辺境にある村のさらに高台の森のなかに建てられている。

権力の象徴とでもいうように村を見渡せる位置にあったが、おかげで村人と交流するには険しい坂道を上り下りせねばならず、おかげでトワ子は生まれてからミワに会うまで一度も同じ歳の子供と接したことがなかった。


 また、トワ子は物心ついたときから両親が二人でそろっているのを見たことがなかった。

もともとトワ子の父は分家でそれほど大した生活はしておらず、この屋敷は本家である父の兄のものであった。

だがトワ子が生まれる前に兄夫婦とまだ赤子であった息子が事故で不慮の死をとげたため、トワ子の父が後をついだ。


 トワ子の父は勤勉な兄に比べて出来が悪く、またあきれるくらいの女好きだった。

赤子のころから女にデレデレと触れ、12のときには親の権力をかさに若い女中に手を出したとして悪名をとどろかせた。

悪行を繰り返した結果、ほどほどの家と嫁を用意されて勘当同然に家を追い出された。


 それが本家に入り権力を手に入れてからは、娘のトワ子の耳にも入るぐらいに常に女の影が絶えなかった。

そんなわけで両親の仲は冷え切っており、また二人のトワ子に対する関心も低かった。

トワ子もそれは同じであり、ほとんど接するのはばぁやのみであったためにおかしな口調の子供になってしまった。


 トワ子はミワのことを美しいと褒めるが、トワ子もそれは整った姿をしていた。

前髪をそろえ肩の下まで伸ばした黒髪は絹糸のようにサラサラとながれ、一日を館の中のみで過ごすために肌は青白いといってもいいくらいに白かった。

そしてトワ子は何事にも関心が薄いため、黒曜石のような瞳は無機質な光を宿し表情にとぼしく、良くも悪くも精巧で美しい日本人形のようだと人々はささやきあっていた。




 自室でミワとともに朝餉をとった。

主の娘であるトワ子と、使用人であるミワがともに食事を取ることなど本来はありえない。

しかし何事にも関心の薄かったトワ子が、ミワに関しては執着といってすらいいほどの興味をもったことにより、なかば放置気味に父から好きにしていいと許しが出ていた。


 ミワが二人分の食器を厨房に片付けにいくと、トワ子は行李の中から大量の絵紙を取り出した。




「あら、新しい絵が入ったんですか?」

厨房から戻ってきたミワが、にこにこしながら畳に広げられた絵を覗き込んだ。



 何事にも関心が薄く主張もほとんどしないトワ子に今まで決まった世話係がつかなかったのは、この趣味が原因のひとつにあった。

トワ子は、薄気味悪い妖怪の絵を集めて眺める時間をことのほか好んだ。


 日のあまり差さない部屋の中、日本人形のような少女が微笑みながら時間があれば妖怪の絵を広げて眺めるのだ。

歳若い女の使用人たちは気味悪がってトワ子に近づこうとしなかった。


 しかしミワだけは妖怪の絵に囲まれて微笑むトワ子を優しく見守り、あるときは主とともに絵を眺めて話に花を咲かせることもあった。



「あぁ、なかなか良い鵺の絵が手に入ったんじゃ」

トワ子は一枚の絵を手に取り、自慢げにミワに見せた。


「トワ子様は、本当に鵺がお好きなんですねぇ」

ミワは絵をながめ、しみじみとトワ子を慈しむように言った。


「何でじゃろうな。とくに理由はないんじゃが、何かこう惹かれるものがある。実は正体が『トラツグミ』という鳥であったと知った時にはがっかりしたものだが、それでもこう得体の知れないものという意味においては底知れぬ闇を感じるというか、こう何か掻き立てられるものがあるのう…」

トワ子はおどろおどろしく描かれている鵺を眺めて答えた。




 トワ子は、幼いときに鵺の鳴き声を聞いたことをしっかりと覚えていた。

忘れられなかったというより、あの細いなき声が耳に鮮明に残って消えなかったのだ。

あの夜から数日して、世話係だったばぁやは息を引き取った。

原因は老衰であったが、トワ子は鵺の災いのせいだと思った。

ばぁやは己の言葉どおりに、トワ子の分の災いまで引き受けて死んでしまったのだと。

その後、トワ子に災いといえるようなことは何も起きなかったが、トワ子はあの夜のことを誰にも、親しいミワにも話さなかった。

いや、親しいからこそ災いがいかないように固く胸にしまっていた。


 ただ、その抑えた思いは違う形であらわれ、トワ子は妖怪にのめりこむようになっていた。



「失礼したします」

廊下から、障子をはさんで女中の声がかけられた。

「入れ」


 トワ子の一声のあと、妙齢の女中が障子を開いて顔をのぞかせた。

この女も、いや、この屋敷のほとんどの女が父のお手つきである。



 女中は畳に広げられた絵を一瞥し、薄気味悪そうに眉をしかめたあととりつくろってトワ子に顔を向けた。

「旦那様がお呼びにございます」

「わかった、今すぐ行こう。ミワ、ここはそのままにしておいてくれ」


 トワ子は立ち上がりミワに声をかけると、女中について部屋を出た。




トワ子は父の前に座った。

父はせわしなく扇子であおいでいる。

漂う小物感に、トワ子は父を哀れに思えるときがある。

己の力とは釣り合わない家を背負ったがために、父はいつも血走った目をぎょろぎょろと落ち着きなく動かし、いつも何かにおびえているように見えた。



「トワ子、お前の縁談が決まった」

「はい」

父と娘の会話は、何の感情もはさまれぬまま淡々と交わされる。


「隣の村の大店の次男だ。3日後に挨拶に来るそうだから、お前が相手をするように」

「はい」


そのまま父は押し黙り、反応を確かめるようにトワ子を見つめた。

トワ子も、ほかに用事があるのかと黙って父を見つめ返した。

視線があっても、そこに通じ合うものは皆無だった。



先に目を放したのは父だった。


「用はそれだけだ」

「それでは、失礼したします」


 トワ子は父に頭をさげると静かに部屋をあとにした。

トワ子の背中に、ほっとしたような父のため息がかすかに届いた。

父がおびえずにすむ相手はいるのだろうかとトワ子は少し考え、すぐに興味をなくしてミワの待つ自室に戻った。







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