6 駄菓子屋
しばらく歩いて、三笠川という一級河川に架けられた鉄骨の橋を渡ると、景色はその色合いを急激に変化させていった。灰色の人工物の割合が極端に減って、深緑の山々に抱かれた農地が現れる。
爽やかな風景であった。吹き抜ける横風に青い稲穂が騒めき、湿った土が匂い立つ。風に吹かれて波打つ青々とした田園が、轍の刻まれたあぜ道の左右にどこまでも続いていく。
カタバミ、ツユクサ、ドクダミなど野草が道端に花を咲かせ、ミツバチが飛び、蟻の隊列が道を横切り、バッタが飛び跳ね草花を揺らす。
あぜを彩る多種多様な生命の息吹がそこにはあった。
先頭をのんびりと歩くアリスは、あぜ道の路肩に生い茂る貧乏草を茎ごと毟りとっては飽きるまで振り回し、根本が腐って今にも倒潰しそうな木製の電柱に投げつけるという意味不明な遊びをしている。
「ふんふーん、ふふんふんっ、ふふんふんっ、ふんっふーふーふんっ」
どこまでも上機嫌な彼女は、次第に鼻歌まで歌い始めた。
曲名、喜びの島。たしかクロード・ドビュッシー作曲のピアノ独奏曲だっただろうか。
楽曲の終盤のフレーズを異様に正確な音程で何度も繰り返し口ずさんでいる。
「小春、次はあそこ」
アリスが指差す先には、晴天に輝く太陽の下、田園に四方を囲まれて、新緑の水面に浮かぶように佇む一軒の木造家屋があった。
家屋は二階建てで、軒先に色褪せたビニール製のひさしが広げられ、隣接する塗装の剥げた鉄柱には賽原商店と記された看板が掲げられていた。
近寄ってみると、見知らぬ清涼飲料水が五種類だけ陳列された異様に縦長の自動販売機と、上部がガラス張りになっている白い冷凍ボックスが、色褪せたひさしの中で窮屈そうに身を寄せ合っていた。
唸りを上げて振動する冷凍ボックスの中を覗き込んでみると、水色のアイスキャンディー、カップタイプの練乳入りの氷菓子、イチゴ味のラクトアイスなどが一緒くたに押し込まれている。
どれも一個九十円で買えるらしい。
開けっ放しの引き戸から薄暗い店内に入ると、ところ狭しと並べられた多種多様な駄菓子が視界一杯に陳列されていた。原色が多用されたチープな包装紙と、七色の合成着色料が散りばめられたまさに極彩色の世界である。
「食べたいものはある?」
「ここって、駄菓子屋ですよね?」
店内を広く見渡せる位置に、レジと木製のカウンターが備えつけられてあったが、どういうわけか店番がいない。カウンターの後ろには暖簾で隠された暗い廊下が続いていて、使い古されたサンダルがその手前に置かれていた。
きっとあちら側が住居なのだろう。
「うん、駄菓子屋。商店だから日用雑貨も取り扱ってるみたいだけど駄菓子がメイン。近所に住んでる人はみんな駄菓子屋って呼んでるし」
そう言いながら、いつの間にかアリスは、太い竹串に突き刺さった真っ黒な塊をもそもそと齧っていた。
包装すらされていないむき出しの状態で、彼女が食べているのと同じものが、陳列棚の上で山積みになっている。
「お金払う前に食べちゃっていいんですか、それ」
「大丈夫。今払うから」
アリスは食べかけの駄菓子を片手に店内を横断すると、カウンターの上に五十円玉を置いて戻ってきた。
「ほら、払ってきた」
「…………」
「小春も食べてみる? それなりにおいしい」
その一連の行動に対して、じっとりとした視線を向けていると、アリスは自分が齧っていた黒い塊をヌッと僕の口元へと近づけてきた。物欲しそうにしていると勘違いしたのかもしれない。
乾燥した表面に、いくつもの小さな歯形があった。
とりあえず鼻を利かせてみる。
匂いは乏しいが、ほんのり甘い香りがする。
そもそも、これはいったい何なのだろうか。
その粗雑な外観といい、商品ラベルがどこにも見当たらないことといい。
縁日の出店で売られている粉もの料理以上に怪しさ満載である。
「……ん」
勇気を出して一口食べてみる。
想像以上に硬かったが、どうにか食べられる。
前歯を使って削り取った破片をおっかなびっくり舌の上で転がしていると、自分の眉間に深い縦しわが刻まれていくのを実感した。
「これはすごく、甘い、ですね」
予想通りというか、やはりこの真っ黒な物体はチョコレートの塊だった。
「わかる。それにチョコレートなのにカカオの風味がしない。しかも硬い」
「口に入れた触感も、ジャリジャリしてて」
《すごくうまい……。チョコレートを食べたのなんて、本当に何年ぶりだろう》
「うん。砂糖の結晶みたいなのが残ってる」
「でも、なんだかそれが癖になるというか」
《二〇〇〇年以降、アルバトロスの出現によって外国から食べ物を輸入できなくなった日本が深刻な食糧不足に陥ったのは、小春も知ってるだろ?》
「アリス。もう一口、いいですか?」
「いいよ、はい」
「んっ」
《沖縄を飲み込み、九州地方に上陸したアルバトロスが日本本土を蹂躙してからは、地獄のような毎日だった》
「…………」
言い知れぬ息苦しさを感じた。慌てて口の中のそれを飲み込もうとしたが、溶けだした油分がコールタールのように口腔内にへばりつく。ちょっとずつ飲み下していくほかに選択肢がなかった。
苦しまぎれに視線を店内の隅々にまで向けていると、壁に掲げられた日めくりカレンダーが目に留まる。レトロな見慣れないフォントで印刷された簡素なカレンダーには、今日が何年の何月何日であるのか克明に記されていた。
「アリス、あのカレンダーについてなのですが」
本日は日曜日。日付が赤く印刷されている。
「ん?」
口いっぱいにチョコレートの駄菓子を頬張ったアリスは、ゆっくりと僕が指差す方向に目を向けた。彼女はしばらくもごもごと唸っていたが、結局噛み砕くのを諦めたのか、歯形だけを残して口から離す。
「あれって変じゃないですか?」
「別に変じゃない」
「いやでも、年号が」
「書いてある日付に間違いはない。今日は一四〇八六年の八月三日、日曜日」
視線を正面のカレンダーから下ろして、隣に佇むアリスへと向けると、無機質な群青色の瞳が僕をまっすぐ射抜いていた。
「ややこしく考える必要はない。この世界で、私たちは気の遠くなるほどの長い時間を生きてきた。それだけのこと」
「アリス、あなたの生まれは……」
「私は一九九五年、四月十九日の生まれ。私は生まれつき病弱で、当時の主治医たちからは、長くは生きられないと宣告されていた。けど、私は生きた。全身を切り刻み、いくつもの穴を開けて管を通し、ただ死にたくないと願いながら、無様にあがき続けた」
「…………」
「私は、肉を削ぎ落しながら知恵を身につけ、科学を編み、新しい技術を織り上げた。病魔に犯された肉体から脳髄を抜き取り、造り上げた新しい機械の体へと脳髄を移植し、純粋な人間であることを捨て、私はひとり、生きてきた」
混乱する僕を置いてきぼりにして、アリスは言葉を紡いでいく。
「私は、一万二千年間生きてきた。ひたすらに生きて、様々な研究をひたすらに続けてきた。並行世界へのアルバトロスの輸送、惑星規模の地下構造物の建造、人間をキメラに変えるナノマシン技術。そのどれもこれもが、私が独自に研究し、開発し、実現した技術に他ならない」




