3 善意
「来栖野、有栖」
「……ん」
その名を呼ぶと、かすかな反応があった。やはり死んでいるわけではない。
衣服から覗く白い肌と艶やかな長い黒髪、ゆっくりと浅く上下する胸元、目につく外見上のすべてが、彼女の身に宿る健やかな生命の息吹であった。
万金を積み上げても決して贖えない人類救済の好機を一秒ごとに台無しにしながらも、理解が及ばず硬直するしかない僕の前で、彼女がゆっくりと目を覚ます。
「…………」
丁寧に切りそろえられた濡れ羽色の髪の奥に浮かぶ、大粒の瑠璃色の瞳がどこか不機嫌そうにこちらを見上げていた。彼女は無言のまま玉座から立ち上がろうとするが、なぜかカクンと途中で動きを止める。
「はぁ」
眉間のしわをさらに深めてため息を一つ。
玉座のひじ掛けに両手を突いて、やや前傾姿勢になりながら立ち上がる。
ズルリと異質な音が響いた。
玉座の背もたれにぽっかりと開いた複数の穴、そこから伸びるケーブルが、彼女の後頭部と背骨に設けられた有線接続口に深々と挿入されていたのである。
「…………」
仏頂面のまま、自身に突き刺さったケーブルを一本ずつ強引に毟り取っていく。
その都度、白くて細い指先を震わせていた。
力の必要な作業なのだろう。
日常的にケーブルを接続する必要があるためなのか、彼女の着用する群青色のワンピースはやや背中の開いたデザインであった。そこから露出する首筋は、白磁を思わせるほどに美しかったが、頸椎から胸椎にかけての背骨のラインに沿って、金属で被覆された接続口がいくつも並んでいた。
乱雑に毟っては投げ捨てられ、乾燥中の腸詰のように垂れ下がっていくケーブル類。
その先端は鋭く尖った形状で、透明な粘液を絶えず滴らせていた。
座面や床を濡らすそれらには目も向けず、彼女は後ろ髪を豪快にかき上げると、後頭部に突き刺さった接続端子の根元を逆手で掴んだ。
軽く捻り、圧縮空気の抜ける音と共に露わになった端子の先端は、中指一本分の長さと太さであった。
後頭部から抜いたばかりのケーブルも早々に投げ捨てられ、玉座の座面の上で飛び跳ねて、甲高い金属音が木霊する。
まもなく足元が騒がしくなった。
「!」
眼下には驚くべき光景が広がっていた。
モニュメントを幾重にも包囲し、ネスト最深部を埋め尽くしていたキメラの集団が、一斉に崩れ落ち始めたのである。それまで機敏に動かしていた節足を力なく四方八方に投げ出して、あの砲弾や溶解液をまき散らす口部すらも半開きになっている。
あれらは魂の抜けた屍だ。
索敵可能なエリア内において、敵対反応は完全に消滅していた。
天井を這っていた数百ものキメラまでもが、晩夏のセミの如く、その三対六脚の節足を弛緩させて落下し、地上で力尽きた同胞の群れを自前の甲殻で押し潰していく。
しばらくするとそれも落ち着いて、重苦しい静寂が場を支配する。
視線を正面に向き直すと、瑠璃色の眼光が僕を射抜いていた。
「…………」
緊張の糸が極限まで張り詰めて、このまま殺されるのではないかという予感が脳裏で鎌首をもたげている。
体感時間は十倍から二十倍に引き延ばされていたが、意外なことにこの永遠に続くかに思われた静寂を打ち破ったのは、僕を不機嫌そうに睨む正面の彼女であった。
「はじめまして。私は来栖野有栖。あなたの世界の人類統合軍が特殊個体〝オメガ〟と呼称する存在」
「…………」
「そしてあなたは、雪風小春」
「はい」
「小春、これから一緒に来てほしい場所がある。いろいろと聞きたいことも多いだろうけど、それは少し待ってほしい」
そう言って来栖野有栖と名乗る女性は、至近距離でこちらを見上げながら、右手をゆっくりと差し出した。
「この手をとって、小春」
見なれた顔立ち、聞きなれた声。
目測が正しければ、その身長は百三十八センチだ。
外見上のなにもかもが、僕の愛した人と相違ない。
「触れるだけでいいから」
選択肢は最初からなかった。
震えの止まらない手を伸ばし、差し出されたアリスの指先にそっと触れた。
暗転する。
視界が闇に包まれ、それから柔らかな光が差し込む。
正味一秒にも満たない時間で、ポリゴン状のドーム、金属の床に繁茂する極太のケーブル、円錐形のモニュメント、厳めしい玉座、おびただしいキメラの骸、それらの一切が消え去っていた。
見覚えのない長い廊下、その隅っこに、僕らはいつの間にか立っていた。
暖色寄りの白い壁紙、等間隔に照明が設置された白い天井、磨き上げられた白いリノリウムの床がどこまでも続く。
正面にはステンレス製の自動ドアが二つ並んでいる。
おそらくは昇降機、エレベーターだ。それもストレッチャーやキャスター付きベッドなどが容易に出し入れできる大型のものである。
人が居ないので気づくのに遅れたが、どうやらここは病院なのかもしれない。
本来機体の移動に追従して自動更新されるはずのデジタルマップは、奇妙なエラーコードを吐いたきりフリーズしていた。どんな魔法を使ったのか想像もできないが、ネスト最深部からマップデータ上にも存在しない謎の空間へと瞬間的に移動したのは確かだった。
「ちょっと手を離して」
「…………」
言われて手を離す。
指先から伝わる温もりが離れていくのが、なんだか無性に悲しかった。
壁に埋め込まれた昇降用の矢印ボタンに触れてから、トコトコと彼女が戻ってくる。
「ただいま」
アリスは表情筋を一ミリも動かさずに呟くと、僕の真横に密着して昇降機の到着を無言で待っていた。けれど、もう一度手を繋いではくれなかった。
「乗って」
到着した無人の昇降機に乗り込むと、アリスは僕に背を向けてパネルを操作する。
滑らかに上昇を開始した室内は、医療用ベッドが横並びに二台搬入できるほどに広々としていたが、彼女は操作パネルの前に張りついて離れない。
後方に立つ僕から離れるように右隣の壁に密着し、その小さな両肩を丸めている。
「本当は、目的地へ瞬間的に移動したかった」
必要十分とは言えない妙に薄暗い照明が密閉された昇降機内を照らす。
背中の開いた群青色のワンピース。そこから覗く乳白色の素肌。彼女の脊椎にそって隆起する無骨な機械部品は、頭頂部から流れ落ちる黒髪の急流が縦一文字に塗り潰していた。
「でも今は疲れていてそれが難しい。だからさっきの中間地点から、これに乗って移動する。到着するまで、まだまだ長いけど我慢して」
彼女は操作パネルの前で微動だにせず、その撫で肩をより一層丸めて、小声でぼそぼそと呟く。なぜだろう。僕にはそれらの姿勢が、敗残の将が己の首級を差し出しているかのように映った。
「…………」
室内は静かだった。わずかなモーターの駆動音以外には何も聞こえない。
この静けさに僕は耐えられなかった。
「質問していいですか?」
「なに?」
「ここはどこなのですか?」
「……その質問は少し曖昧すぎる」
「すみません」
「別にいい。あなたが、状況の変化に混乱しているのはよく理解している」
アリスは相変わらず壁を凝視していたが、僕との会話そのものを拒んでいるわけではなさそうだった。こちらが投げかけた質問に対して、どこまでも真面目に応じてくれる。
「異界、別世界、特異点の向こう側、ネスト。あなた達が名付けたこちら側の呼称は数多くあるけれど、端的に言ってしまえば、ここは並行世界」
これは想定内の回答だった。
かねてより、特異点の向こう側には、異なる歴史を歩んだもう一つの世界、並行世界が存在していると予測されてきた。なぜならば並行世界そのものは、もう随分と前から、存在自体は確実視されていたからだ。
並行世界から、無尽蔵の電気エネルギーを捻出する来栖野式特二十型装甲義体の主動力炉、ムクドリ型永久発電機構がその証拠である。
「つまりここは、異なる時空間に存在する地球?」
「そう」
「…………」
次の質問を口にしようとして言葉に詰まる。
だが、いまさら一人で思い悩んだところで事態が好転することはない。
「キメラの正体は、元人間なのですよね?」
「そのとおり」
勇気を振り絞って投げかけたその質問に対しても、アリスはそれまでの平淡な態度を崩さなかった。感情の乏しい抑揚のない声で淡々と言葉を紡ぐ。
「あれらはすべて人間を素体にしている。体表面上に在中する数兆個のナノマシンが、周囲の岩石や土砂を原子レベルで分解し、繭を形成する。芋虫が成虫へと変態するようにナノマシンを介した原子レベルでの分解と再構築が繭の内部で行われ、人間がキメラへと変身する。一度肉体を造り替えられた彼らは、以降は自由自在に変身を繰り返すことができる」
「…………」
「それらの特性を生かして、キメラは対象へと接近し捕食する。獲得した遺伝子と記憶情報をもとに新たなキメラが生産され、その中のごく一部が、工作要員として元の世界へと送り返される。六基のアルバトロスが実戦投入されたのは、小春の世界における西暦二〇〇〇年だが、人類社会へのキメラの浸透は、その遥か以前から、継続的かつ秘密裏に行われてきた」
「……ッ」
言葉の節々から湧き上がる強烈な嫌悪感と共に、脳裏にこれまで経験したキメラとの壮絶な戦いの記憶が一斉に蘇る。震える握りこぶしをゆっくりと開くと、長く息を吐き、高ぶる感情を強引に抑制した。
両腕を脱力する。
むろん、無様な隙を晒すためではない。刃を振るうためである。
「ネストの最深部でキメラ全軍を統括する特殊個体、オメガ。それがあなたのことを指し示すのなら教えてください。キメラが優先的に人間を捕食するのは、あなたの命令によるものですか?」
「たしかに私はキメラを統括する立場にあるが、無差別な捕食を強制しているわけではない。民間人をいくら捕食したところで、それが軍の首脳部や政府高官の親類でもない限り、戦略上の意味合いは薄い。基本的に人間を捕食するという行為は、キメラに成り代わった人々の純粋な善意によるもの」
「……ぜん、い。ぜんい、……ぜんい?」
耳を疑った。




