7 苦いコーヒー
「ようこそ、小春」
生活感のない空間だった。天井の照明が室内を青白く照らし、分厚いファイルがぎっちりと詰め込まれたガラス戸付きの金属製キャビネットが、壁の一面を覆い尽している。
ここは執務室か、もしくは応接室だろうか? 部屋の奥にはモニターと卓上マイクが置かれた大きな仕事机、アリス様基準では座高の高い黒革の椅子があり、カーペットの敷かれた部屋の中央では一組のソファが脚の短いテーブルをはさんで向かい合わせになっていた。
「あのー、アリス様。ここは、いったい……」
「人類統合軍・賽原基地。軍人や、研究者などの軍属職員を合わせ、およそ三万人が所属する極東地域最大の軍事拠点。二〇〇八年から建設が開始され、二〇一二年に完成した。ここはその地下に設けられた私の執務室」
「……はぁ、人類統合軍?」
困惑する僕をよそに、アリス様は淡々と説明を始めた。
「人類統合軍は、一九七四年に米ソ核戦争の機運が最大限に高まったことを受け、最終戦争を回避するべく世界各国の軍事的組織を統合して結成された」
「……核戦争?」
「その成り立ちから〝力のある国連〟や〝真の多国籍軍〟と言われ、一九八〇年には日本も含めた百以上の国と地域が加盟し、当時のアメリカとソ連に対して冷戦の即時終結と、全核兵器の破棄を絶対条件に、場合によっては統合軍全軍による武力行使も辞さないという断固とした態度で和平交渉を迫り、一九八五年にこれを実現させている」
「…………」
「冷戦終結から六年が経過した一九九一年には、全世界において、核兵器の完全廃絶が達成され、人類統合軍は全人類の悲願であった核なき世界を実現した。ただし勘違いしてはならないのは、核の廃絶を達成した後も、人類は様々な理由から世界各地で絶えず争い続けることになる。恒久的な世界平和の実現は、全人類の大多数が協賛した統合軍という強大な組織の力を持ってしても不可能。――そう結論付けられた」
「…………」
「ここまでで、なにか質問は?」
アリス様はとても真剣な面持ちだった。
どうやら壮大なジョークというわけではないらしい。
「えーと、今のお話は一般常識なのでしょうか?」
「一般常識。小春が望むなら、軍令規則・第三百十七条の成立過程を交えつつ、もう一度最初から解説してもいい。きっと将来、必要となる知識だろうから」
「は? いえ、あの。今は、遠慮しておきます」
「わかった」
年号、固有名詞、なに一つとして聞きなじみがない。
大学の歴史講義を受ける未就学児の気分だった。だとするなら僕の記憶は、想像していたよりもずっと欠落が多いのだろう。正直、かなりショックだった。
「現在の生活に支障がないから気づいていないかもしれないが、あなたは自分自身に関連する記憶だけでなく、本当に多くの物事を忘れてしまっている。現代社会についてなにも知らないのは当然のこと」
「…………」
「大丈夫?」
「……平気です」
気落ちする僕を見かねたのか、アリス様は壁際の戸棚に向かうと、そこで小さなガラス容器を手に取った。それは遮光性の高い青色の小瓶だった。
「小春、コーヒー飲む?」
「すみません、いただきます」
「インスタントしかないけど」
「かまいません」
「そう、よかった。そこのソファに座って待っていて」
「……はい。失礼します」
普段ならばなんと言われようと、来栖野家のメイドとして意地でも立ち続けて、自ら進んでコーヒーを淹れるところだけど、朝から緊張や驚愕の連続だった影響もあってか、だいぶ精神的な疲労が強かった。僕は大人しく手近のソファに腰を下ろすと、カチャカチャと音を立てながらコーヒーを淹れているアリス様の背中をぼんやりと眺めた。
次第に芳ばしい香りが漂ってくる。
「どうぞ。ブラックでよかった?」
「はい、ありがとうございます」
手渡された鳥柄のマグカップには、褐色の液体が注がれていた。
あれ? 香りはインスタントにしては上等だけど、コーヒー自体の色合いが、薄い?
そんなことをぽつぽつと考えながら、僕はアリス様が淹れてくださったコーヒーをほんの少し口にふくんだ。
「――んッ!?」
その瞬間、強烈な苦みが舌の上にべったりと広がり、その奥底から湧き出す妙な土臭さが鼻を抜けていく。
マズイ。それも恐ろしくマズイ。コーヒーそっくりの、しかし味は似ても似つかない液体に対する感想はそれだけで十分だった。アリス様の見ている前で、口の中のものを吐き出すわけにもいかず。僕は気合いで口にふくんだそれを飲み下した。
「味はどう?」
「ごほ、ごほっ、ううぅ、おいしくないです。これはいったいなんですか……?」
「コーヒー」
「絶対ウソですよね!?」
「正確には、代用コーヒー」
「代用?」
代用……代用食品? それってカニカマとか、マーガリンとか、そういう物の類かな?
だけど、コーヒーの代用品なんて聞いたこともない。
そもそも一部のブランドを除き、それほど高価でもないコーヒーの、しかも恐ろしくマズイ代用品をどうして作ろうと思ったのか、僕には理解できなかった。
「コーヒーがお飲みになりたいのでしたら、今すぐお淹れいたしますけど」
「いい。ここにはもう、代用コーヒーしかないから」
そう呟きながら、アリス様はためらいなく自分のカップに口をつけ、それをごくりと飲んでしまった。
「そんなもの飲んではダメですよ! 体に悪いですって!」
「体に悪い成分は入っていないから大丈夫。むしろ、カフェインが入っていないから、通常のコーヒーよりも安全な飲み物」
よほど飲み慣れているのか、彼女の端整な顔は無表情のまま変化しなかった。一応、安全な飲み物らしいので勇気を出してもう一口飲んでみたけれど、これから先もこの味に慣れるなんてことは絶対にありえないだろう。
「無理に飲まなくてもいい」
「すみません。そうさせてもらいます。……あの、ところでアリス様」
「ん?」
僕はテーブルの上にマグカップを置くと、さきほどの会話の中で気になっていた事柄について尋ねた。
「さっき、ここにはもう、代用コーヒーしかないって言っていましたけど、それってどういう意味ですか? 普通のコーヒー程度なら、自販機でも買えますし、それこそどこにでもあると思いますけど」
「言葉通り、そのままの意味」
「……?」
「小春の言う普通のコーヒーは、今現在、入手がとても困難な状況にある。日本国内には、もう常用できるほど残されてはいない。だから、代用コーヒーという飲料が存在している」
「言っている意味が、その、……よくわからないのですけど」
「これを見てほしい」
室内を足早に横断したアリス様は、マグカップを仕事机の上に置くと、流れるような動作で椅子に飛び乗って卓上のキーボードを操作した。
すると天井の一部が動き、レンズを備えた大型の装置がせり出してくる。
どうやら、天井から出てきたのはプロジェクターであるらしい。室内が明るいままであるにも関わらず、部屋の白い壁をスクリーンにして、装置は鮮明な画像を投影していた。
「世界地図ですか?」
「そう。これは西暦二〇〇〇年に制作された世界地図」
それは本初子午線を地図の中央に置く、欧米においては一般的な世界地図だった。
ぱっと見た限りでは、おかしなところは見受けられない。それでもあえて気になる点を挙げるとするならば、その地図はとてもシンプルにデザインされていて、国境線や国名が地図上に記されていないことだろうか。
「次は、これ」
マウスをクリックするカチっという音が響いた直後、プロジェクターの投影する画像が切り替わった。
「……?」
画像は十分に鮮明なものだったけれど、それがなにを表した画像なのか理解するまでには、しばらくの時間が必要だった。
「……んんっ?」
結論から言うと、それは世界地図だった。
なぜその程度のことを理解するために、これほど長い時間が必要だったのか。それは僕が知っている世界地図と、壁に投影されている世界地図とがあまりにもかけ離れていたからだ。
「アリス様……」
「なに?」
「これって世界地図、ですか?」
「その通り。これは西暦二〇二三年、つまり今年作成された最新の世界地図」
「冗談ですよね?」
「冗談を言っているつもりはない。これはまぎれもなく、今現在の世界を表した地図」
アリス様は淡々とした様子で、手元の機器を操作する。
すると、二〇〇〇年の世界地図と、二〇二三年の世界地図が同時に表示された。
「こうして比較するとよくわかるが、二〇〇〇年から二〇二三年までに、地球の陸地のおよそ八割が消滅している」




