5 小鳥たちの祝宴
五月二十七日、土曜日。
空が茜色に染まりつつある夕刻。
マコトが鶺鴒館に到着したのは、こちらが指定した時刻の十五分前だった。
「お、お邪魔します」
彼女は前日に受け取った招待状を両手で大切に持ちながら、それこそ借りてきたネコみたいに緊張している様子だった。
「いらっしゃい、マコト」
「……いらっしゃい」
マコトは、パーティの主催者であるアリス様が軍服嫌いなのを知っていたらしく、今は私服を着ている。サイハラベースと横文字で書かれたキャップ、大きめの灰色のパーカーに、丈がひざ上までのジーンズ、そして歩きやすそうなスニーカーというカジュアルな服装である。
それらの装いは良い意味で、ボーイッシュなマコトによく似合っていた。
だけど僕は、彼女があまり自分の服装に頓着しない性格なのを知っている。
たぶん今日の服装も狙ってコーディネートしたわけではなく、いろいろとアメリカンサイズな賽原基地のPXで、小柄な自分の背丈にあったものを大急ぎで買い集めたのだろう。
「話では聞いていたけど凄いところだな、ここは」
「そういえば、鶺鴒館に来るのは初めてでしたっけ?」
口をポカンと開けながら、マコトは室内のあちらこちらを物珍し気に眺めていた。
「ああ、単純に来る用事もなかったから」
彼女の持つハスキーな声が、ひび割れながらも艶のある響きとなって、エントランスホールによく反響する。たしかに、貴重な木材や石材を贅沢に使用した鶺鴒館のアンティークな内装は、荒廃した現代を生き抜いた彼女の目には、珍しく、そして異質に映るのだろう。
「いやー、マジで凄いわ。別世界って感じ。じつは俺、こういう森の中の洋館で暮らすのが、子供のころの夢だったりするんだよね」
「それなら、しばらく滞在すればいい」
「ええ!?」
アリス様は無表情のまま呟いて、あっさりとマコトの滞在を了承した。
そのせいか、昔の夢を語りながら、恥ずかしそうに微笑んでいたマコトが顔色を一変させるまでに少し間があった。あまりにも唐突すぎて理解が追いついていない様子である。
「マジですか、自分としてもこんな素敵な場所で寝泊まりできるなんて夢みたいって言うか、本当に俺なんかが泊まってもいいんですか?」
「大丈夫。小春、あとで部屋を用意してあげて」
「かしこまりました」
僕は来栖野家に仕える忠実なメイドとして振る舞うべく、その急な指示に対してもすまし顔を貫いたまま優雅にお辞儀した。それと並行して、部屋の用意を何時までに済ませておけばよいのか、頭の中で予定を整理する。
――うん、大丈夫。二日前に空き部屋を掃除しておいたから、それほど手間を掛けずに宿泊の用意ができそうだ。
「おお、小春が本物のメイドさんみたいだ」
「本物もなにも、僕はこれでも来栖野家に仕えるメイドなのですが」
「…………」
急に視線を感じて振り向くと、アリス様が怪訝そうに、こちらをじっと見上げていた。
えっと。僕、おかしなこと言いましたか?
「それであの、来栖野上級――」
「マコト、私のことも呼び捨てで構わない」
「えっ、でもそれは……」
「問題ない。たしかに軍隊という組織の中では階級は絶対のものとして存在している。でも、ここは私の屋敷。仕事とプライベートはきっちり分けておきたい。だから今は、名前で呼んでほしい」
「……?」
どうしたのだろう。
なにかと人見知りする傾向のあるアリス様が、今日はやけに饒舌で、非常に楽しげだ。
これが良い兆候なのは間違いないし、それだけパーティが楽しみなのだと思うけど、僕にはその表情と仕草がどうにも引っかかる。
「……!」
ああ、思い出した。そう言えばアリス様はマッチョな男性が苦手だったはずだ。言い換えれば女性が好きなのである。つまりマコトが鶺鴒館に来たこと自体が、アリス様的には嬉しくて仕方がないのだろう。
もしやこれは浮気だろうか?
僕は自分のご主人様兼恋人を訝しんだ。
「わかった。……それじゃあ、ここではアリスって呼ぶからよろしくな」
「よろしく、マコト」
「ああ! よろしく! ……遅ればせながら、今日は俺をパーティに招待してくれてありがとう。昨日から楽しみで仕方がなかったんだ。このご時世に、明日が楽しみすぎて眠れなくなる日が来るとは思わなかった」
「眠い?」
「まあ午前中は眠かったけど、仮眠を取ったからもう大丈夫。それよりも小春の手料理を一杯食べるために昼食を抜いてきたから、そっちのほうがつらい」
お腹をさすりながらマコトが苦笑する。
「だったら、まだちょっと早いですけど、もう食べ始めちゃいましょうか?」
「俺としてもそのほうが嬉しいけどさ……」
「マコト、リビングはこっち」
「わかった。……なあ小春、急かしちまったみたいで申し訳ないんだけど、準備は大丈夫なのか?」
暖色の照明と、窓辺の夕闇に彩られた廊下を歩きながら、マコトは僕の耳元で囁いた。
「はい、大丈夫です。ひと通り料理も完成していますし」
「あ、そう言われれば、廊下の奥からいい匂いがする」
「あははっ、やっぱり匂いでわかっちゃいますよね。マコトの要望通り、ニンニクをふんだんに使いましたから」
「もしかして、から揚げ?」
「から揚げですよ。お肉は冷凍されていたものですけど、天然の鶏肉のから揚げです」
「んんーっ! 小春愛してるぞーっ!」
「きゃっ、もう歩きづらいですって」
感極まったマコトに抱き着かれながらリビングの扉を押し広げると、芳ばしい料理の香りが室内からあふれ出す。
「これは、すごい光景だな」
マコトはふらふらとした足取りで、料理がところ狭しと並べられたダイニングテーブルへと吸い寄せられていく。ここまで喜んでもらえると、僕も大変喜ばしい。頑張って作った甲斐があったというものだ。
「小春たちはいつもこんな豪勢な料理を食べてるのか……」
「まさか、今日が特別な日だからですよ」
「でも日常的に食べる料理だって、やっぱり天然の食材を使ったものなんだろ? 配給食は食べないんだよな?」
「ええと、まあ、そうですね」
「いいなー」
僕らが会話を弾ませる一方で、アリス様は我関せずと椅子に座って、自分のコップにウーロン茶を並々と注いでいた。けれど決して口にはつけず、こちらが席につくのをじっと待ち続けている。
「じゃあ適当に座ってください」
「はいよ」
僕がアリス様の右隣に腰を下ろすと、それを最初から予想していたのか、マコトは苦笑しながら僕らの対面に座った。
「うわ、懐かしい。瓶詰めのコーラなんて何年ぶりだろ」
「マコトはコーラですか。アリス様はウーロン茶。それなら僕はオレンジジュースにしようかな?」
テーブルの中央にまとめて十数本と置いてある色とりどりの飲み物の中から、僕らは好きなものを選び取ると、瓶の王冠を栓抜きで開けたり、ペットボトルのキャップを捻ったりして開封する。
「せっかくですし、乾杯とかやっておきますか?」
各自の手元に飲み物があるのを確認してから、僕は二人に提案した。
「お、いいね。乾杯の音頭は俺に任せてくれ、聞いた話によると、こういうのはその場で階級が一番低いやつの役目らしいからな」
真っ先に名乗り出たのは、やっぱりマコトだった。泡立つコーラが満たされたあの特徴的な瓶を片手に持ちながら起立すると、いかにもそれらしく咳払いする。
「えー、本日はお日柄も――」
「手短に」
「了解であります! では、第七次討伐作戦の成功を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
「乾杯」
ガラスの涼やかな音色が室内に幾度か響いた。
「んっ、んっ、んっ、ぷはぁー。ああーっ、うまい!」
僕とアリス様がちびちびとマイペースに飲み進める一方で、マコトはコーラひと瓶をたちまち飲み干し、感極まった様子で雄叫びを上げた。
「あー最高、生きててよかった」
「そんな大げさな」
「大げさなもんか、俺にとってこの味は――げふっ、げぇぇ。……ごめん」
「もう、汚いですよ」
「げっぷは誰でも出るものだから許して」
そう言いつつもマコトの頬は緩みっぱなしだった。彼女は心の底から嬉しそうに笑いながら小皿によそった料理を思いっきり頬張っている。
「ああー、夢にまで見た本物のから揚げの味だぁ」
「お口に合いましたか?」
「うんっ、すごくおいしいっ! ありがとう、小春!」
「はい、どういたしまして」
よかった。あのから揚げにはそれはもうふんだんに、自分としても入れすぎたかと心配になるくらいニンニクが練り込まれているのだ。
ニンニクは糖質が多く、高温の油で揚げるとすぐに焦げて真っ黒になってしまう。
だから、ちゃんとしたキツネ色に仕上げるために揚げかたを一工夫するのはもちろん、油の温度調節などが想像以上に難しくて大変だった。
本日の料理の中では、あれが二番目に手間のかかっている料理かもしれない。
なお断トツの一位は、デミグラスソースである。マコトにはぜひハンバーグと一緒に食べてほしい。あのほろ苦くて、深いコクのあるソースは、作るのが本当に大変なのだ。労力と時間と貴重な食材が無限に要求される底なし沼のごとき一品である。
「いっぱい食べてくださいね。たくさん作りましたから。それでももし足りないようなら追加で揚げることもできますので遠慮なく言ってください」
「はーい」
そう元気よく返事をすると、マコトは満面の笑みで次々とから揚げを口の中に詰め込んでいった。リスかハムスターみたいに左右の頬っぺたをぷっくりと膨らませて、幸せそうにもぐもぐと味わっている。
「…………」
ふと衝動的に、彼女の丸い頬を思いっきり突きたくて堪らなくなった。だが頬袋に限界以上の種子を詰め込んだげっ歯類に対して、同じようなイタズラを仕掛けたらどうなるだろうかと想像し、欲望を理性でねじ伏せる。
その丸い頬を突いたら最後、想像通りの光景が目の前で展開されることになる。彼女の口内から大放出されたそれらの後片づけを行うのが自分自身である以上、ここは我慢だ。
がまん……。
「アリス、食べてるか」
「食べてる。マコトは?」
「食べまくってる。さっきから口しか動かしてない」
僕がひとりで百面相している間、マコトはアリス様と朗らかに談笑していた。誰とでもすぐに打ち解けて仲良くなれる、そんな明るくて社交的なマコトの性格が本当に羨ましい。そういったコミュニケーション能力というものは、どうやれば鍛えられるのだろうか。
「アリスはどの料理が好きなんだ?」
「今日の料理の中だと、このハンバーグ。小春特製のデミグラスソースが絶品」
「おお、それも美味しそう。あとで絶対食べよう……」
「小春は第七次討伐作戦の最中に、絶対に生還して、デミグラスソースのハンバーグを作ると私に約束してくれた。……その約束の料理が、これ」
「うわぁ、凄まじく愛されてるな。というか、毎日そんな美味しい料理ばっかり食べてると、もう配給食なんて口に合わなくならないか?」
「たしかに、小春の料理の味に慣れてしまった今となっては、とても代用ソイレントを主原料とした配給食を食べる気にはなれない。私も昔は甲型配給食ばかり食べていたけど、不思議となんとも思わなかった。当時の私にとって、食事とは栄養補給の手段でしかなかったから」
「やっぱり、これは舌が肥えちゃうよな。……ところで話は変わるけどさ」
マコトは急に食事の手を止めると、アリス様をまっすぐ凝視した。
「なに?」
「前々から気になっていたんだけど、例の代用ソイレントってなにを原材料にして製造されているんだ?」
「機密レベルが高いから教えられない」
「あっ、えっと、はい」
「ただ一つ言えるのは、代用ソイレントの栄養価は非常に優れている、ということ。生身の人間はあれを適量食べるだけで最低限健康に生きていける。民間人に配給されている乙型であっても、味が悪いだけで人体には無害なものだから、そこだけは安心していい」
「そうか、安全ではあるのか。だったら別に気にする必要もないか」
一連のアリス様の説明は、機密情報を回避するために随分とぼかされていたけれど。マコトとしては十分に納得できる内容だったらしく、彼女は再び食器を手に取って、何事もなかったかのように食事を再開するのだった。
「それにしてもアリスの言った通りだ。凄まじいな、このハンバーグ。ご飯にもバゲットにもよく合うし、いくらでも食べられる」
「そんなに急いで食べなくても料理はまだいっぱいありますよ?」
「小春の言う通りではあるんだけどさ。体が素直に従ってくれないんだ。ほら、外だと誰かに奪われるかもしれないだろ?」
「…………」
「はぁ、本当においしい。誰もが自由に、こんなおいしい食事を楽しめる時代が早く来ないかな……」
「きっと来ますよ。そうですよね、アリス様」
「どんなに遅くても今後三年以内には、天然食品の安定供給が実現できる。ただし牛肉を筆頭とした肉類については、市場への供給までに最低五年の期間を要すると思う」
「あ、やっぱり牛肉は難しいのですね」
僕がそう言うと、アリス様は口の周りを拭いてから、静かにコクリと頷いた。
「アルバトロスの侵略によって世界中の穀倉地帯が根こそぎ消滅した影響が大きい。畜産は、常に膨大な穀物を必要とする。牛肉は特に効率が悪い。一キロの牛肉を得るためには飼料としておよそ十一キロの穀物を消費する。当面は、代用ソイレントを使用した新型の合成肉のみが市場に流通し、天然肉は高級品として扱われることになる」
「ちなみに、その合成肉の味はどうなんだ?」
マコトは新しいコーラの瓶を開けながら尋ねた。
「濃い調味料で味つけをしてから、焦げ目がつくまでしっかり焼いてしまえば食用肉の代替として食べられる。乙型配給食のような臭みもない」
「十分すぎるな。臭くない飯が食えるだけでも贅沢なことなのに、あと数年で、ちゃんとした飯が食べられるようになるなんて知ったら、きっと横須賀のスラムに住んでる奴らは大喜びするぞ」
嬉しそうに口角を上げて、マコトはしきりに頷いている。
「前から気になっていたんですけど、横須賀のスラムってどんな場所なんですか?」
「小春がスラムって言葉を聞いて、どんな悲惨な光景を想像しているのかは知らないけど、あそこは風雨を凌げるし、電気と水道だって一応あるから、比較的恵まれた場所なんだ」
「そうなんですか」
「ライフラインは全部、横須賀の統合軍基地から供給されている。端的に言えば、人間が生きていくために必要なものが最低限そろった場所ってところだな。ただ前にも言ったと思うけど医薬品とか日用品が常に不足しているから、そういったものを近隣の街から回収するスカベンジャーっていう集団がいる」
「マコトは、その集団の一員だったんですよね?」
「そうだ」
僕は会話を続けながら、マコトとの出会いについて思い返していた。
滅亡の瀬戸際にある世界を知り、武装集団に襲われ、錆びだらけの廃工場に押し込められた日から、そろそろ三週間ほどが経つだろうか。
あの時、その中性的な容姿から、性別すらも言い当てられなかった彼女と、こうして一緒に食事を楽しむまでに良好な関係を築けたことは、一種の奇跡と言っても過言ではないはずだ。
「マコトと廃工場で出会ってから、いろいろありましたよね」
「そうだな。本当にいろいろあった。まさか自分が軍人になって、あのハミングバードに所属するなんてな。人生、なにが起こるか想像もできない」
僕らは笑い合い、そしてそれからも食事会は続く。
誰もがよく食べて、よく飲んだ。心地のよい、楽しいひと時だった。
ふとした拍子に窓の外に目を向ければ、ほんの少し前まで茜色に染まっていたはずの空は、満天の星空へと様変わりしていた。
夜空からは淡い月の光が降り注いでいたが、その光量はあまりにも乏しく、鶺鴒館から漏れ出た照明の明かりだけが周囲の暗い森林を煌々と照らしている。
「ちょっとお仕事を片付けてきますね」
僕は折を見て一旦宴席から離れると、今夜マコトが寝泊まりするための寝室の用意に取りかかった。その寝室は二階の片隅にある客室で、本来は二人部屋なんだけど、まあ広い分には問題ないだろう。
室内の掃除はひと通り終わっているので、清潔な布団や枕、洗い立てのシーツなどを用意してベッドメイキングさえ済ませてしまえば一応形にはなる。
室内には家具や装飾品が最低限しかなく、ガランとしていて寂しい印象が拭えないけれど、マコトがそんな些細なことを気にするとは思えない。
僕は最後に室内を見渡し、不備がないことを確認してから寝室を出るのだった。
「小春、おかえり。はい、これ」
「え、なんですかこれ?」
リビングに戻ると、マコトから妙に小ぶりなワイングラスのようなものを手渡された。
グラスには、淡い琥珀色の液体が少量注がれていて、そこからスモークチーズに似た燻煙の香りとアルコールの刺激臭、そしてわずかな磯臭さが混然一体となって匂い立っている。
「ささ、ぐいっと」
「さてはお酒ですね」
テーブルの上に目を向けてみると、見慣れないガラスのボトルが置いてあった。その外光を遮断する深緑色の肉厚なボトルには、黒いラベルが貼りつけられ、特徴的な英字のフォントでアードベッグと記されてあった。
どうやらスコットランドのアイラ島という場所で蒸留された、十年物のウィスキーであるらしい。
「どうしたんですか、これ」
「せっかくのお祝いだからってことで、ついさっきアリスが秘蔵の一本を持ってきてくれたんだ。アルバトロスの侵略でスコットランドが消滅して以降、製造不可能になってしまった貴重なウィスキーなんだとよ」
「小春、飲んで」
映らないテレビの前に置かれた革張りの椅子に深く腰かけながら、同じ形のグラスを手にしたアリス様が、期待に満ちた眼差しをこちらに向けている。
「……わかりました」
そこまでの貴重品を勧められたとあっては、僕としても飲まざるを得ない。
だがはたして、これは本当に飲料に適した液体なのだろうか?
この特徴的な匂いと色合いから想像するに、これはどう考えても、僕が害虫駆除のために庭先の花壇によく散布する希釈した木酢液に思えてならなかった。
「マコトは飲みましたか?」
「俺は飲んだ」
まずは味の感想を尋ねようとしたのだけど、すでに試飲しているはずの彼女は瞬時にうつむいて、決して目を合わせようとはしなかった。
「味はどうでした?」
「悪くはなかったぞ。人によって好みは違うだろうけど」
幾重もの分厚いオブラートに包んでいるせいで、言葉の原型が行方不明になってしまっている。でもそれって、実質的にマズいって言っているようなものじゃないか。なぜこれほどまでに日本語とは奥ゆかしいのだろうか。
「…………」
なんだか悪質なイタズラみたいで不信感が増すばかりだ。
でも、このままグラスを持ちながら途方に暮れていてもらちが明かない。
ここは男らしく一気に飲み干してしまうべきだろう。
ええい、ままよ!
「あ、飲んだ」
「おお……」
アードベッグ十年を口に含んだ直後、ほんのりとした甘みが顔を出す。
それと並行して磯臭いスモークチーズに似た風味が現れ、少し遅れて強烈なアルコール臭と燻煙の香りが呼吸と共にあふれ出て、鼻の奥を大きな塊となって通り抜けていく。
「……?」
そして気がつけば、僕はアードベッグを飲み終えていた。酔いが回ってくる気配はない。
前記した様々な力強い芳香と共に、焦がした樹木をそのまま噛みしめたような後味が舌の上にべったりと広がっている。けれどその味わいは複雑で、単純に苦いわけではなかった。
さて、一応飲んでみたものの。
これはマズいと表現するべきなのだろうか?
それともおいしいと表現するべきなのだろうか?
自分でもよくわからず、しばらく無言で、燻煙の残り香を纏った空のグラスを覗き込む。
「飲み終えましたけど。アリス様は、このお酒がお好きなんですか?」
「好き」
迷いのない返事だった。
こちらを真っ直ぐ見つめる瑠璃色の瞳が、ほんのりと狂気を宿しながら鈍く輝いている。
「えっと、どんなところが?」
「泥炭を焚いた強烈な煤煙の香り。ほのかな塩気と磯臭さがたまらない」
「な、なるほど?」
僕の知らない世界だ。
今まで気づかなかったけど、もしかしてアリス様は、けっこうお飲みになるのだろうか?
「でもアリス様は、これまで晩酌とかは全然していませんでしたよね?」
「以前はよく飲んでいた。でも小春が目覚めてからは一度もボトルを開けていない。だから、これが四カ月ぶりの飲酒」
アリス様はぼそぼそと話しながら椅子から立ち上がった。室内を横断してテーブルの上のボトルを掴み取ると、自分のグラスにアードベッグを注いでいく。そしてグラスを何度も回して香りを楽しんでから、水も氷も加えないまま、ストレートで口に含んだ。
「ん、おいしい」
「まじかよ」
信じられないと言わんばかりに目を見開いているマコトの様子が、やけに印象的だった。
たぶん彼女には、あのお酒の味が絶望的に合わなかったのだろう。
ちなみに僕は、飲めなくはないけど自分から進んで飲もうとは思わない、というのが正直な感想だった。もしアードベッグとジュースを同時に手渡されたなら、僕は迷わずにジュースを飲むだろう。




