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1 セキレイの招待状

 



 鶺鴒館(せきれいかん)という名の古風な洋館が、鬱蒼とした雑木林に覆われた小高い山の中腹に、時の流れから取り残されたようにひっそりと佇んでいた。


 山間から差し込む眩い朝日が、朝露に濡れた庭木と花壇、枯れ葉ひとつ落ちていない玄関前のロータリーを照らすのと時を同じくして、鶺鴒館の一階、住み込みの使用人に貸し与えられる一室で、僕こと雪風小春(ゆきかぜこはる)は今日も目を覚ます。


 今朝の目覚めはひかえめに言っても最高のものだった。

 体は軽く、心は一点の曇りもなく澄み渡っていた。


 清涼な風が新緑の丘陵を吹き抜けるような、晴れ晴れとした気持ちで起床することができたのである。


「今日は、これにしよう」

 昨夜のうちにクローゼットから取り出して、丁寧にアイロン掛けしておいたメイド服を着用すると、少しハデかもとしれないと心配しつつも、明るい色調の眼帯で右目を覆い隠す。


 上質な布地に草花の輪郭が単色で描かれたそれは、数ある眼帯の中でも僕が特に気に入っているものの一つだった。


「よし、完璧」

 鏡の前で身だしなみの確認を入念に行ってから、自室を出て、長い廊下を足早に進む。


 気分よく胸を張り、肩で風を切って歩いていると、腰まで届く後ろ髪が静かに波打ち、朝日を浴びて淡い金色に光り輝いた。


 目じりにかかった数本の金糸を指先で耳の後ろへと押し戻しながら、僕は今日という平穏な一日が始まることの喜びを噛みしめ、ひとり微笑む。


 窓から差し込む朝日に目を細めつつ、心の中で、ただひたすらに祈った。


 ああ、どうか。

 これからも世界が平和でありますように――。




 二〇二三年・五月二十六日、金曜日。

 神奈川県賽原(さいはら)市。


 太陽は輝き、快晴の青空を元気よく駆け上った。数時間かけて地上を燦々と照らしてから、のんびりと淡い雲の合間を縫って、西の空を下っていく。


 そんな穏やかな昼下がり。


 夕立の気配もなく、時刻は午後の三時を過ぎようとしていた。


 暑くもなく、かといって寒くもない。どこまでも快適な気候も相まって、しばらく目を閉じていれば、すぐにでもうたた寝をしてしまいそうだった。


 僕は鶺鴒館のリビングで柔らかなソファに腰を下ろしながら、表面がカリカリに焼き上がった香ばしいカヌレをお茶うけにして、アリス様と一緒にアフタヌーンティーをゆったりと楽しんでいた。


「小春、新しい紅茶を淹れて」

「はい、ただいま」


 来栖野家の現当主であり、僕が所属する軍隊――人類統合軍おける直属の上官であり、そして恋人でもある来栖野有栖(くるすのありす)様。彼女にお願いされたとあっては是非もない。どれだけこの足腰がソファから離れたくないと訴えかけていたとしても、僕は軽やかに立ち上がることができるだろう。


「あの、アリス様?」

「なに?」


 けれど今は、そうやすやすと立ち上がるわけにはいかなかった。

 僕の膝の上にアリス様の頭が乗っているからである。


「そこをどいてくれませんと身動きがとれません」

「やだ」


 アリス様はむずがるようにゴロンと寝返ると、メイド服のエプロンをぎゅっと握り締めて、ちょうど僕のおへその下に顔をぐりぐりと押しつける。すると彼女の艶やかな黒髪が乱れて、隠れていた白い耳がひょっこりと現れた。


 ああ、いけません。

 お洋服もそうですけど、せっかくの綺麗な髪に癖がついてしまいます。


「やっぱり紅茶はいらないから、あと少し、このままで」

「……はい」


 どうやら当分、立ち上がれそうになかった。


 もちろん、このくらいで足腰が痺れてしまうほどやわではなかったし、ついつい紅茶を飲みすぎてしまったせいで、さっきまでトイレに行きたくて仕方がなかったのだとしても、脳以外の全身が高度に機械化されたサイボーグである自分は、その気になればいかなる生理現象をも無効化できる。何も問題はない。そう、なにも。


「…………」

 膝の上でひどく乱れてしまったアリス様の黒髪を丁寧に集めつつ、それを指で軽くすきながら優しく整えていく。一切絡まることなく、指の隙間をさらさらとこぼれ落ちていく感触がたまらなく心地いい。


 夢中になってそれを何度も繰り返していると、墨汁の吸った毛筆を走らせ、一筆で描いたような漆黒の小川が手元にできあがっていた。


「小春から甘い匂いがする」

 光輪のかかった黒髪がわずかに揺れ動き、かすかな呼吸音が聞こえてくる。


「きっと、オーブンでカヌレを焼いていた時の匂いですね。バターやお砂糖、バニラビーンズやラム酒なんかをふんだんに使いましたから」

「そう」


「カヌレは、お口に合いましたか?」

「とても、おいしかった」


「よかった。初めて作ったので焼き加減に苦労したんですよ。何度か真っ黒に焦がしてしまって、作り直したんです。この表面はサクサク、内側はもちもちとした食感を出すのが、思いのほか難しくて。かなり、もったいないことをしてしまいました」


「最後に成功したのなら食材が無駄になったわけではない。だから気にしなくていい。おいしかったから、また作って」

「はい」

 アリス様はエプロンに顔を押し付けたまま喋っているので、声が少しくぐもっている。

 発声の振動がお腹に伝わってきてこそばゆかった。


「…………」

 正直に告白しよう。この時僕は、それはもう思う存分に、アリス様を抱きしめてしまいたい衝動に駆られていた。赤の他人にそれをやったら問答無用で犯罪だし、訴えられたって文句は言えない。


 でも曲がりなりにも僕らは恋人同士なんだ。


 いったいなにを遠慮する必要があるのだろう。……いや、でも、しかし――。


 そうやってあれこれ思い悩んでいるうちに、ご主人様は再び膝の上で体勢を変えてきた。


 こてんっと仰向けに寝転ぶと、その表情筋を少しも動かすことなく、無感情な瑠璃色の双眸でぼんやりと虚空を見上げている。


 現代風にアレンジされた等身大の日本人形。人によっては、その端麗すぎる顔立ちに冷たい印象を受けるかもしれないが、彼女は決して冷淡な人間ではない。


 平時は口数が少なく、それこそ人に不慣れな黒猫みたいに気難しいところはあっても、それは冷めているからではなく、他者に対する要求のレベルが高いのだ。


 他者に厳しく、それよりもずっと自分に厳しい軍人であり研究者。


 僕の敬愛する来栖野有栖という人間は、自らが定めた目標を達成するためならば、いかなる努力も惜しむことをしないだろう。


 彼女はそんな鋼の意思を胸の内に秘めた、孤高の情熱家なのである。


「小春、起こして」

「はい」


 ぴくりとも表情を動かさずに、アリス様は仰向けの状態のまま小さな白い両手をせいいっぱい上へと伸ばしてきた。


 何事に対しても厳しいアリス様の性格をよく知っているからこそ、たまにこうやって甘えられてしまうと、僕は堪らなく嬉しくなってしまうのである。


「よいしょっと」

「…………」

 わきの下と腰に腕を回して、体を密着させながら抱きかかえると、彼女の両足が床についているのを確認してから上体を起こしていく。そうして立ち上がったアリス様は、背伸びをしながらトコトコと歩くと、ソファからやや離れた位置で振り返った。


「小春。あなたは明日の夕方、なにか予定はある?」


「明日も丸一日、これといった予定はありません。あるとすれば、今日と同じく掃除とお洗濯くらいですけど。……あの、突然どうしたのですか?」


「明日、第七次討伐作戦の成功を祝したパーティを開きたい」

 この時のアリス様の表情は、いつもの仏頂面だったけれど、僕の目は誤魔化せない。


 ほんのりと上気した頬と、わずかに上がった口角。薄っすらとにじんだ不安の色と、たしかな期待と恐怖。どうやら彼女は本気で戦勝パーティを開きたいらしい。


「本当に突然ですね」

「だめ?」


「ダメじゃありませんけど日程が。いろいろと準備も必要ですし、せめて一週間後とかにしませんか? パーティ会場の予約とかも必要だと思いますよ?」


「そういうのはいらない。今回私が想定しているのは、ドレスコードのないカジュアルな食事会。だから必要以上に大掛かりな事前準備は不要。会場も鶺鴒館を使う。参加者は私と小春とマコトの三人だけで部外者は誰も呼ばないから安心してほしい」


 三人だけ。なるほど。となると身内だけで行うホームパーティみたいなものかな?


 近くに美味しいお店があればそこで飲んだり食べたりできるのだけど、残念ながら今の世界にそんな都合のいい飲食店は存在しない。賽原基地の食堂で私的な食事会なんかできるわけもないし、となれば鶺鴒館での開催が無難なのだろう。


「まあ、そういうことなら。……僕としても、やるからには気合いを入れて作りますけど過度な期待はしないでくださいね? 見栄えのいいパーティ料理とかは、まったく作れませんからね?」


「小春にまかせる」


「……まかされました」

 ずるいですよ、アリス様。


 そんな期待に満ちた瞳で見つめられたら、こっちは頷くしかないじゃないですか。

 でもまあ、パーティに大掛かりな準備が必要ないのは安心した。


 友人を自宅に招いて手料理を振る舞うような食事会であれば、日程が明日の夕方でもどうにかなるかもしれない。いや、してみせる。来栖野家の使用人の名にかけて! うおーっ!


「小春、これをマコトに渡してきて。無線で済ませるのも味気ないし、こういうのは直接渡すものだから」


 そう言って手渡された瑠璃色の招待状には、ドレスコードなしの小規模なパーティを開く旨と、鶺鴒館の住所や開催日時などが、綺麗な手書きの文体で簡潔に記されていた。


「わかりました。……今の時間帯だと、マコトは訓練中ですかね?」

「…………」


 何気なくそう尋ねると、アリス様は突如としてこちらの顔を凝視した。

 異様なまでに重苦しい数秒間の沈黙が僕らの間に横たわる。


「あの、どうされました?」


「戦略機動部隊〝ハミングバード〟の隊員の体、つまり特二十型装甲義体〝アマツバメ〟は、単独でも統合軍一個軍集団を圧倒する強大な戦闘能力を備えている」


「?」

「だから司令官である私の許可なく、あなた達は賽原市から離れることはできないし、所在は常に把握されている。ようするにマコトは今、基地の内部にいる」


「つまり、僕らは監視されていて、基本的にプライバシーはないってことですか?」

「そう受け取ってもらって構わない。これはつい先日まで最高度の機密情報だった。もちろんマコトも知らない。記憶を失う前のあなたも知らなかった情報」


「そう、ですか……」

 アリス様は淡々と説明し、真正面から僕を凝視し続けている。


 彼女が時おり見せる、その対象の反応をつぶさに探る神経質な学者特有の仕草が、僕が今月の上旬から中旬にかけて経験した、あの壮絶な体験を色鮮やかに想起させた。


 ああ……。まただ……。また思い出してしまう……。


 第七次討伐作戦での陰惨な記憶が脳裏にあふれ出す。

 巨大な空洞の内部にひしめく凶悪なキメラの群れ。

 キメラに造り替えられた犠牲者たちが浮かぶ水槽の列。

 かつての戦友を両手に握り締めた刃で何度も刺突した感触。


「――――」

 一瞬にして全身から血の気が引き、キメラの節足が奏でる硬質な異音までもが、どこか遠くで聞こえた気がした。けれども、そういったフラシュバックに襲われようと、僕が取り乱すことはなかった。


 戦いはすべて終わったんだ。


 これから平和な時代がやってくる。


 どれだけ時間が掛かろうとも人類は必ず復興を遂げる。


 心の中で自分に何度もそう言い聞かせ、僕はゆっくりと意識を現実へと引き戻す。


 急激に狭まっていた視野が広がり、視界の明度が上がったのを自覚すると共に、いつの間にか幻聴も治まっていた。


「…………」

 そうやってトラウマを対処している間も、アリス様は口を横一文字につぐんだまま身じろぎひとつせずに佇んでいた。


 不用意になにかを尋ねたり、なにかを察して励ましたりもせず、彼女はただ静かに寄り添ってくれる。それが今の僕にはとっては無性にありがたかった。


「もう大丈夫です」

「そう」


「さっそく届けてきますね」

「行ってらっしゃい。気をつけて」





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