5 繭
その光景を僕は一生忘れられないだろう。
それは人間がキメラへと変化した、としか表現しようのない現象であった。
彼の体と接しているアルバトロスの内壁が液体化して、体表面上を遡上し、次第に彼を包み込む金属質な繭となった。
芋虫が糸を吐いてサナギとなり、内部で体をドロドロに溶かして成虫へと生まれ変わるように、繭の中で肉体が原子レベルで変容し、まったく別の生物へと造り替えられていく。
「あぁ、ああ」
ものの数十秒で、かつてジョージ・ライアンと呼ばれていた存在は、人類の敵であるキメラへと生まれ変わった。
金属の繭を脚部の先端で突き破り、粘液にまみれた鉛色の甲殻が姿を現す。
危険極まりないキメラの口部は、すでに僕の顔面へと向けられていた。
「ひっ」
呆けている場合ではなかった。
新たに誕生したキメラが、口部から溶解液や徹甲弾を吐き出す前に、僕は相州鬼正の刀身を眼前の脅威に対して深く突き刺した。頭部を刺し貫くとキメラはかすかに痙攣したが、数秒もすると胴体から生えた六本の脚は弛緩して、次第に動かなくなる。
「はぁ、はぁ……」
ジョージさんは最期に笑いながら、自分はキメラに捕食されて死んだのだと言った。
そこから導き出される答えはただ一つ。
キメラは人間だったのだ。
これまで人類が決死の覚悟で戦ってきたキメラとは、他のキメラによって捕食された人間がアルバトロスの体内で造り替えられた存在だったのである。
「ありえない……こんなのありえないよ」
すべての容器に満たされていた青い液体が、大きな水音を立てて次々と外部へと排水されていく。液体は流れ出た先から地面に吸収されていった。
水が引いて地面の上に残されたのは、キメラに一度捕食されてから、アルバトロスの内部で肉体を再構築され、精神構造が変容して、ヒトとしての自我を失った大勢の人間であった。
容姿や衣服、装備品までも一人ひとり再現しているらしい。重火器を持った統合軍の軍人、スラムの住人と思しきボロを着た人々、中には二〇〇〇年代初頭の日本からタイムスリップしてきたような学生服姿の少年少女なども見受けられる。
人種や性別はもとより、出身国や生きた時代すらも異なる彼ら彼女らは、おぼつかない足取りでふらふらと歩いてから再度地面に倒れ伏し、そのまま金属の繭に包まれて、あっと言う間にキメラへと変容してしまった。
「……っ」
こみ上げる吐き気を必死になって抑え込み、このキメラに埋め尽くされつつある空間から、一刻も早く脱出するべく脇目もふらずに駆け出した。
その最中、僕は自問する。
これまでに自分は何体のキメラを斬り殺してきたのだろうか。
百や二百ではないのは確かだ。
数百、もしかすると一千以上に達しているかもしれない。
それらすべてが元は民間人であり、アルバトロスの体内でキメラに造り替えられた犠牲者なのだと理解した瞬間、自然と手足が震え始めて、万力で締め上げられたような、強烈な精神的苦痛に苛まれた。
それでも涙が一滴も流れないのは、僕が冷たい人間だからだろうか。
それともすでに心が壊死してしまったからだろうか。
「――――」
《アルバトロスの体内には、キメラを生産する工場のような器官が存在すると主張する学者もいるが、未だにそれらしいものは発見できておらず仮説の域を出ない。なぜ物理的な栄養補給を必要としないキメラが我々人類を優先的に捕食するのか、詳しい生態は今もそのほとんどが謎に包まれている》
ああ、懐かしいな。
ありし日の一幕が、なんの前触れもなく脳内で鮮明に描き出された。
これもまた走馬燈の一種なのかもしれない。
「アリス様、アリス様ぁっ!」
すがるように彼女の名を口にしても、この絶望的な状況が好転することは決してない。
味方はいない。頼れる上官も、同じ隊の仲間もいない。僕はひとりだった。
「――あぐッ」
逃走の最中、突然強い衝撃が腹部を襲う。
体がくの字に折れ曲がり、地面をバウンドしながら転がって壁に叩きつけられた。
おそらく被弾したのだ。
焼けるような激しい痛みが腹部をかき混ぜていた。
割れた装甲から冷却剤の疑似血液が流れ出ていたが、なりふり構わず不安定な推進装置に最大推力を発揮させて飛び起きると、迫りくる執拗な追撃を紙一重で回避する。
「邪魔を、するなぁッ」
死の恐怖に直面した時、人道に対するありとあらゆる葛藤は無意味だった。
たとえ相手が元人間であり、キメラに生きたまま食い殺された犠牲者だとしても、敵意を持って襲いかかってくるのなら関係ない。あれは倒すべき敵だ、人間らしい感情など欠片も残されていない冷徹な殺戮装置だと、ひたすら自分自身に言い聞かせる。
人類社会の守護という崇高な目的のために造り出されたはずの相州鬼正の刃が、無数に蠢くキメラを、なんの咎もないはずの犠牲者たちを一刀のもとに斬り裂いた。
その度に噴出する真っ赤な返り血を全身に浴びながら、直視すれば即座に発狂してしまいそうな現実から身を守るために、僕は思考を手放した。
「うぅぅ――あああああぁぁッ!」
心が折れて生還を諦めそうになる度に叫び声を上げながら、眼前に立ち塞がるキメラを片端から斬り捨てていく。
恐ろしいことに、人間とは何事にも慣れる生物だ。
時間の経過と共に刃は鋭さを取り戻し、太刀筋は冴えわたる。
摩耗する精神を代償に、元人間の犠牲者を斬り殺す行為にもだんだんと慣れていった。
磨滅する感情に残された最後の良心が、悲鳴を上げて泣いている。
けれど、ここで手を止めれば今度は僕が奴らに食い殺されるだろう。
それだけは絶対に許されなかった。
ただひたすら第七次討伐作戦の成功を信じ、戦場に散っていった数十万もの人類統合軍将兵の挺身に報いるために、そして最愛のアリス様が待っている鶺鴒館に帰還するためにも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
だから僕は――。
「……あぁ」
気づけば思考が途切れていた。
足元でキメラの残骸が山となっている。
見たところ、数は二百有余。
「先へ、進まないと」
視界内に敵影はなく、物音さえも聞こえてこない。
それでも警戒だけは解くことなく、一本道の空洞を進んだ。
最後の武装である相州鬼正の刀身は、幸運にも折れてはいなかった。
だが、ここまでの度重なる戦闘によって右目は潰れ、砲弾の破片が脳核を傷つけ、左前腕と腹部に大穴が開き、肩部の推進ユニットは片側が破損し、さらにレーダーと通信手段を喪失している。
武装が尽きかけても補給はできず、現在地の把握すらままならず。
体内を循環する疑似血液が動作のたびに頬を伝い、赤い雫となって流れ落ちる。
姿勢制御機能にも異常が発生しているのか、地面が妙にふわふわしているように感じられて非常に歩きづらい。
それでもどうにか、僕の体は動いてくれていた。
「……!」
しばらくすると、周囲がやけに明るくなっていることに気づいた。
全身に圧し掛かる倦怠感から、地面ばかりに向けられていた視線を持ち上げてみると、空洞の先から陽光に似た強い光が差し込んでいた。
僕は確信した。あれはまぎれもなくコアの輝きだ。
本来アルバトロスにはコアが一つしかなく、それを破壊してしまえば体内のキメラも含めてその個体群は死滅する。
ところが前回の第六次討伐作戦で、生前の雪風小春が仕留めそこなったこいつは、旧北米の大地で沈黙していた三年の間に、深手を癒し、さらにはキメラの生産設備と新たなコアを体内に増設したのかもしれない。
となれば、あと少しだ。あれさえ破壊してしまえば、今度こそ地球上のアルバトロスとキメラは死滅し、人類の滅亡を回避することができる。
僕は最後の気力を振り絞って、前方から差し込む眩い光の中へと飛び込んだ。




