4 あなたのために
五月中旬。
その日、僕はひさしぶりに来栖野家のメイド服をクローゼットから取り出した。
このクラシカルな紺色のロングドレスと純白のエプロンの組み合わせはまさに王道だ。
ハンガーに吊るして遠くから眺めるだけでも可愛いし、よく纏まったステキなデザインだと素直に思う。
だけど、実際にこれを着てみるとなると話はまったく別である。
なにせ、僕は男なのだ。
第六次討伐作戦の末に戦死し、複製された脳核しか持たない全身義体化のサイボーグだとしても、僕は男性の心を宿す正真正銘の人間なのである。
今日だって本当は、ここ最近の普段着になりつつある軍服を着て家事を行おうとしたのだけど、アリス様の強い反対によって着用を断念しなければならなかった。
僕を男だと知っていてもなお、どうしてメイド服を着させたがるのか理解できなかったし、正直言って勘弁してほしかったのだけど、ご主人様の熱心なご要望とあっては致し方なしである。僕は羞恥心に抗い、内心で悶絶しながら、どうにかこうにか来栖野家のメイド服に袖を通していく。
各種下着類、純白のストッキングやガーターベルトなども含め、着慣れた衣類の着用には、もはやそれほど時間を必要とはしなかった。僕はひとり静かに泣いた。
そんな壮絶な葛藤の末にやってきた、おだやかな午後の昼下がり。
「うん、よく乾いている」
溜まっていた洗濯物をひと通り洗い終えた僕は、お日様の香りがする真っ白なシーツを抱えてお屋敷一階の廊下をぽてぽてと歩いていた。
昨日訓練中に過労で倒れたばかりだから、本当は安静にしていなければいけないのだけど、自室でなにもせずにひとりでぼーっとしていると、あれこれ余計なことを延々と考えてしまって逆に気が休まらなかった。
変な話だけど、こうして来栖野家のメイドとして無心で働くことこそが、今の自分にとっては効果的な休養となるのだろう。
さあ、午後も張り切って行こう!
あっ、そうだ。シーツを片づけたら、早いとこ水回りの掃除を終わらせてしまおう。
長いこと鶺鴒館を留守にしていたせいで、水回りの汚れが特にひどいんだ。
僕がお屋敷に居ない間は、アリス様も賽原基地で寝泊まりしていたみたいだけど、使わなくても汚れていくのが水回りというものであるからして――。
「小春」
「――わっ!?」
その時、なぜか廊下の物陰に潜んでいたアリス様が、背後から抱き着いてきた。驚きのあまりシーツを落としそうになる。後ろから回された両手が、なぜか僕のお腹をつまんでいた。
「ふー」
「あの、アリス様?」
「なに? 小春」
背中に顔を押しつけているのか、彼女はくぐもった声で返事をする。
「その、どうしたのですか?」
「べつに、とくに理由はない」
しばらく背中に張りついていたアリス様は、エプロン越しにつまんでいたお腹から手を離すと、無表情ながらどこか満足そうな様子で離れていった。
「小春、お茶にしよう」
「あ、その、すみません。もう少し待っていただけませんか? 早めに浴室を掃除してしまわないと……」
「…………」
すると、のそのそと歩いて僕の真正面に立ちふさがったアリス様は、なにをするでもなく、こちらをじーっと見つめて無言の抗議を開始した。
丁寧に切りそろえられた黒髪の奥で、深い青――瑠璃色の瞳が怪しく輝いている。
ああ、ダメだ。やっぱり断れない。
「……もう、わかりました。これからお茶にします。でも、このシーツだけは仕舞わせてください」
「わーい」
ぬぼーっとした表情のまま両腕を上にあげて、彼女は最大級の喜びを表現していた。
そんな仕草の一つひとつが、たまらなく愛おしい。
なんというか、僕はアリス様のお願いにとことん弱い。
これまであまり真剣に考えて来なかったけど、やっぱり僕は、純粋にアリス様のことが好きなんだと思う。もし今、彼女から愛の告白を受けたなら、きっと二つ返事でそれを受け入れてしまうに違いない。これが惚れた弱みというやつなのだろう。
ひとまず家事を中断して抱えていたシーツを片づけると、愛しのご主人様のご要望を叶えて差し上げるべく、急いで鶺鴒館一階のリビングへと向かうのだった。
どこか遠くでカッコウが鳴いていた。
西日に彩られた山間部。庭先のロータリーを一望できるリビングにて、僕とアリス様は自然と向かい合う形でやわらかなソファに腰を下ろし、今のご時世では極めて高級な嗜好品になってしまった本物の紅茶を飲みつつ寛いでいた。
彼女は背中を小さく丸めて、木のみを齧るリスみたいな仕草でカップのふちを両手で持ち、紅茶を冷ましながらちびちびと飲んでいる。
「ところで、アリス様はどうして僕にメイド服を着させたがるのですか?」
「…………」
穏やかな時間が流れてゆき、そろそろ二杯目の紅茶も飲み終わろうかという頃合いを見計らって、僕は対面に座るご主人様に、これまで聞けなかったいくつかの事柄を思い切って尋ねてみることにした。
「今朝も僕が統合軍の制服を着ていたら、今すぐメイド服に着替えるべきだって、言ってましたよね?」
「言った」
仏頂面のアリス様は、かすかに首を縦に振って肯定の意志を示す。
「あの、僕はこれでも男ですよ?」
「性別はあまり関係ない。男性がメイド服を着ようが、女性が燕尾服を着ようが、私はどっちでもいい。似合っているか、似合っていないか、それが重要」
カップを受け皿に戻し、アリス様はいつになく力説していた。
「はぁ、なるほど?」
「小春は、メイド服を着るのがイヤ?」
「もちろん嫌ですよ。何度も言いますけど、僕はこれでも男ですから」
「……似合ってるのに」
まあ不本意ながら、僕は現代風にアレンジされた等身大の西洋人形みたいな容姿をしているわけだし、そりゃあ似合っていると思う。自己が認識できないほど重度の記憶喪失になってしまった影響もあるけれど、鏡に映ったメイド服姿の自分は、それはもう花が咲き乱れんばかりに可愛らしい。
でも、だからこそ声を大にして言いたい――。
「どれだけメイド服が似合っていたとしても、僕はれっきとした男なんです!」
「むー」
話は平行線のまま時間だけが過ぎていった。
すっかり冷めてしまった紅茶をちびちびと飲んでいると、アリス様はどこか思いつめた様子で手元のカップに視線を落とした。
「小春……」
少し間を置いてからのっそりと顔を上げる。
澄んだ瑠璃色の瞳が、こちらを不安そうに見つめていた。
「なんですか?」
「……。あなたはレズビアンについて、どう思う?」
「ほえっ!?」
ついさっきまで、もしかして紅茶によく合う甘いものでも食べたくなったのかな? なんて呑気に考えていたものだから、突如として投げかけられた質問があまりにも予想外すぎて変な声が出てしまった。
かーっと顔や耳が赤くなり、体温が急上昇するのを自覚する。
「あ、あう……」
れ、れずびあん? それって、女性が好きな女性ってことだね? 動揺して手がぷるぷると震えている。紅茶のカップを落とさずに受け皿へと戻した自分を褒めてあげたいくらいだ。
「軽蔑する?」
「い、いえ! 軽蔑しません! 趣味や嗜好は個人の自由ですから……!」
「そう」
と、とにかく冷静にならないと、落ち着けー、落ち着けー。
「えーっと、つまりアリス様は、ご自身がレズビアンだとおっしゃりたいわけですか?」
「うん」
「その、冗談とかではなく?」
「……うん」
「も、もう一度確認しておきたいのですけど、アリス様は本当に女の子が好きなんですか?」
「女の子が好きというよりも、男性が極度に苦手と言ったほうが適切ではある」
「男性が、苦手……」
じゃあつまり、僕のことも苦手……?
「筋肉質で、強面で、私よりも遥かに背の高い人。そういう男性が私はとても苦手。賽原基地には私の苦手な男性が多いけど、彼らは非常に優秀な人達だからある程度は大丈夫。ただし、恋愛対象には絶対にならない」
「だから、僕にメイド服を着させようと?」
「…………」
アリス様は再び紅茶のカップに視線を落とした。
「私が男性を苦手としているから、結果として、現在のあなたにメイド服の着用を強制させてしまっていることは否定しない。ただ……」
「ただ?」
「最初にメイド服を着始めたのは、あなた自身。当初私は、一切強制しなかった」
「……はい?」
脳内が疑問符で埋め尽くされていく。自分からメイド服を着始めた?
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ! 女装なんて僕は絶対に――」
「今の小春は覚えていないかもしれない。けれどあなたは確かに、自分からメイド服を着始めた」
「記憶を失う前の僕は、自主的にメイド服を着用していたんですか!?」
「そう。小春は昔から可愛くて、可憐で、驚くほどメイド服が似合う男性だった。あなたは真の意味で、私がこれまでに出会ってきたすべての存在の中で、一番美しいと思う」
「――――」
ショックだった。ただただショックだった。
ショックすぎて、途中からアリス様の言葉が頭に入ってこなかった。
記憶を失う以前の、自分自身に対する理想像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
人類統合軍の兵士として数々の戦場を渡り歩き、戦略機動部隊〝ハミングバード〟を率いて五度もアルバトロスの完全撃破に成功した人類の英雄。
武勇に優れ、仲間思いで、自らの死も恐れない正統派の軍人。
けれどそんなのは想像の産物で、現実はただの女装野郎。
やむを得ない事情もなく、誰かに強制されたわけでもなく、自ら進んでメイド服に袖を通して女装するなんて、それじゃまるでただの変態じゃないか!
もしかすると、長い軍隊生活のせいでいろいろと抑圧されて、ストレスが溜まっていたのかもしれない……。
「ど、どうして以前の僕は女装していたのでしょうか?」
「全部、私のため、だと思う」
震える声で尋ねると、アリス様はいつも以上にか細い声でぼそぼそと呟く。
心なしか彼女の耳が赤くなっていた。
「二〇一九年、今から四年前。……あなたは私に対して好意を抱いていると、告白している」
――!?




