5 板チョコレート
それから六時間ほどが経過した。
外はもう日が落ちている。
夜空には、うららかな白い月が輝いていた。
僕とマコトの二人は、ぼんやりとした明かりに照らされた倉庫の中で、腰ほどの高さがある大きな木箱を真ん中に置いて向かい合っていた。ようするに木箱はテーブルの代わりであり、僕らはこれから夕食を食べようとしていたのだけど……。
「言い忘れていたが、飲料水が少ない。この二リットルのペットボトルが最後の一本だ。俺たちを監禁している連中が補充しない限り物資は得られないから、切り詰めるしかない。だから大切に飲んでくれ」
「…………」
「どうした、早く食べろよ」
「……?」
木箱の上には飲料水の入った未開封のペットボトル一本と、共用の薄汚れた紙コップ。
そして、マコトが倉庫の奥から持ってきた本日の夕食が、それぞれの手元に置かれてあるのだが、そのビニール袋に包装された油性粘土そっくりの物体を前にして、僕の表情筋は九割ほど硬直していた。
「……なにこれ?」
手に持ってみると粘土そっくりのそれはズシリと重く、内容量は三百グラムあった。
「なにって、ただの〝乙型配給食〟だろ?」
いやだから、それはなに? ……というか配給食って、この粘土って食べ物なの!?
「おいおい小春。乙型は口に合わないから、甲型配給食を出せなんて言うなよ? 例の鶺鴒館とかいうお屋敷で、お前がどんな贅沢をしていたのかは知らないが。本来、甲型配給食なんかは統合軍の軍人とか、軍属の優秀な技術者しか食べられないものなんだからな?」
「そ、そうなんですか?」
うーん、困った。どうやらマコトは、鶺鴒館における僕の食事が、甲型配給食だったのだと勘違いしているらしい。けれどそれは間違いで、僕はこれまでずっと白いご飯や柔らかいパンを主食にして、お肉や野菜、果物なんかをお腹が一杯になるまで普通に食べてきた。
つまり現状において、甲型乙型含めて配給食全般を食べた経験が一切ないのである。
ただこれは、マコトには伏せておいたほうが賢明かもしれない。
食べ物の怨みは恐ろしいと言うし。
「小春も食べてみろよ。慣れれば意外といけるから」
「じゃあ、遠慮なく頂きます……」
急かされながらビニールの包装を破って、内容物を素手で一口サイズに引きちぎってみた。
感触はとても柔らかい。引きちぎった断面といい、触れた指に油分が付着することといい、本当に油性粘土みたいだ。ただ、粘土特有の匂いはしない。かすかに焼きたてのパンみたいな芳ばしい香りがする。
この不愛想な見た目に驚いてしまったけど、一応ちゃんとした食べ物ではあるようだ。
肝心かなめの味はまだわからないけど、さすがに食べられないほどマズイなんてことがあるわけがない。
勇気を出して乙型配給食を口に入れ、何度か噛みしめてみた。
すると。
「――うぇぇぇ」
僕は嘔吐した。
「小春!? おい、大丈夫か」
マコトは慌てた様子で僕に駆け寄ると、嫌な顔一つせずに背中をさすってくれた。彼女の気づかいが身に染みる。ああ、マコトは優しいなあ。
「平気か?」
「だいぶ、落ち着きました。まだ気持ち悪いですけど」
ありえない。正気を疑う。これは人の食べるべき物じゃない。
香りが普通だったから油断していたのである。
驚くべきことに、乙型配給食は外見だけでなく、味までも油性粘土と酷似していたのだ。
とにかく朝からなにも食べていなかったのが幸いだった。
僕はただえずくばかりで、口の中のもの以外はなにも吐かずに済んだのである。
「ほら、始末は俺がしておくから少し休んでろ」
「すみません。……ありがとうございます」
「気にするな。小春は筋金入りの箱入り娘だったみたいだしな、こうなるのも無理はないさ。しかし困ったな。乙型配給食がダメとなると、食べる物がなにもないぞ」
「…………」
マコトは困った困ったと呟きながら、僕が汚してしまったテーブル代わりの木箱を倉庫の奥へと引きずっていく。
「あっ、そういえば」
彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めていた僕は、急にあることを思い出す。
メイド服のエプロンのポケットには、たしか……。
「あった。チョコレートだ」
生産国不明、メーカー不明。カカオの風味が乏しく、砂糖の塊かと疑うほどに甘ったるく、そして異様なほどに溶けにくい謎の板チョコレート。けれど代用品でも、粘土みたいな配給食でもない、カカオと砂糖とミルクで作られた本物の板チョコレートである。
「小春、それは?」
片づけを終えたマコトが倉庫の奥から戻ってきた。
彼女は僕が手に持っている銀紙の包みを眺めながら疑問符を浮かべている。
「チョコレートですよ。ポケットに入れていたのを忘れていました」
「チョコ……まさか本物かっ!?」
変化は劇的だった。マコトはチョコレートの銀紙を凝視したまま、凄まじい剣幕でこちらに駆け寄ってくる。そのまま僕の両肩を力の限り掴んで、何度も前後に揺さぶった。
「本物のチョコレートだなんて、そんなものどこで手に入れたんだよ!」
彼女の慌てぶりからすると、やっぱりチョコレートは貴重な代物だったようだ。
「僕が使用人として働いていた鶺鴒館のキッチンにありました。小腹が空いた時のオヤツにしようと思って、ご主人様に無断で一枚貰ったんです」
「無断って……。お前、バレたら殺されかねないぞ」
「そんな大げさな。まあ、ちょっとは怒られるかもしれませんけど、チョコレートは同じものが大量にありましたから、一枚くらい平気だと思いますよ」
「冗談だろ!? そのチョコレートにどれだけの価値が――って、そんなの世間知らずなお前に理解できるわけないか」
マコトはなにかを諦めるように、大きなため息を吐く。
「いったい、小春のご主人様は何者なんだよ。どっかの王侯貴族かなにかか?」
「身分的には普通の日本人ですよ、たぶん」
「じゃあ、職業は? 普段どんな仕事をしてるんだ?」
「詳しくはわかりませんけど、人類統合軍の軍人で、かなり偉い人だと思います。賽原基地に勤務しているみたいですね」
賽原基地で、人々から敬われるアリス様の姿を思い出しながらそう答えると、マコトはどこか納得した様子で何度か頷いた。
「なるほど、軍のお偉いさんね。それも賽原基地に所属する高級将校となると、有名な技術者の可能性もあるか。――なあ小春、他にはなにか持ってないのか? たとえば、希少な医薬品とかさ」
「他に、ですか?」
鶺鴒館から持ってきたのはチョコレートと、あとは……。
二つ折りにして、ポケットに押し込んであった茶色の封筒を僕はそっと取り出した。それを見た途端、マコトの表情が明るくなる。
「かなり厚みがあるけど、まさか統合軍の軍票か? それとも甲型配給食と交換できる引換券だったりするのか!?」
「いえ、これはお金です」
「お金? もしかして日本円?」
「そうです。日本円です。ここに僕のお給料二か月分が――」
「あのなあ、小春」
「はい?」
どうしたのだろう。マコトの纏う雰囲気が、ついさっきまでとはまるで異なっている。
彼女はどこか憐れむような面持ちで、僕の肩に優しく手を置いた。
「日本の紙幣なんて、トイレットペーパー以下だぞ」
「どういうこと?」
「そのままの意味だ。世界がめちゃくちゃで、日本だってこの有様なのに。こんな紙切れなんかに価値があるわけないだろ? 今時一万円札なんて焚火の火つけに使うのが精々で、実用性で言えばトイレットペーパー以下だ」
「……ええぇ」
どうやら冗談で言っているわけではないみたいだ。
たしかに、マコトの言っていることは正しかった。
少し冷静に考えてみればわかるが、滅亡寸前の国のお金に、価値なんてあるわけがない。
国が滅亡したら文字通り、その国の紙幣はただの紙切れになってしまうのだ。
「小春のご主人様が、どうしてそんなもので給料を支払っていたのか知らないけど、変な話だな。統合軍の高級将校だったら、物資には困っていないだろうから、もっと価値のあるものを給料にしてやればいいのに」
マコトはそう言うけれど、自分にはアリス様の真意が手に取るように理解できた。
すべて僕のためだ。この日本円のお給料は、世界が荒廃している事実を隠し、平和な日常を演出するための小道具の一種だったのだろう。
アリス様……。
「……っ」
突然、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
僕はマコトに気付かれる前に涙を拭うと、小さく鼻を鳴らした。
アリス様のことを思い出すと、なぜだか泣きそうになってしまう。はぁ、今頃あの人はどうしているのかな。心配だ。ちゃんとご飯を食べているだろうか。
「ところで、さ」
僕がアリス様に思いを馳せていると、マコトはバツが悪そうに下を向きながら、震える指先で銀紙の包みを指差した。
「そのチョコレート、まさかここで食べるのか?」
「あっ、マコトも食べますか?」
「へ?」
「ちょっと待ってくださいね。今、半分にしますから」
うっかりしていた。こちらとしても、武装した犯罪者集団に拉致監禁されたこの状況下で、栄養価の高い貴重な食料を独り占めするのは気が引ける。
僕は均等に分けられるよう注意しながら、板チョコレートをパキっと二つに折った。
明らかに記憶の中の市販品とは異なる肉厚な外観の板チョコレートは、半分にしてもかなりの量がある。
やはりと言うべきか、チョコレートは一切溶けていなかった。
乾燥させた昆布みたいに、表面に白い粉が付着しているけど、まあ、この程度は気にしても仕方がない。きっと砂糖が析出したのだろう。チョコレートが腐るだなんて聞いたこともないし、たぶん害はないはず。たぶん。
「はい、どうぞ」
「ほ、本当にいいの?」
「もちろん」
どういうわけか、マコトの言葉遣いが急に女の子っぽくなっていた。どうしたのだろうか?
「た、食べた後で返せって言われても、絶対に返さないからな!」
「言いませんよ、そんなこと。というか、食べてしまったものをどうやって返すんですか?」
「そりゃ、いろいろ方法はあるだろ……」
「そんな方法があるのですか!?」
マジですか。食べてしまったものを返す方法が複数あるだなんて、かなり衝撃的です。
もしかしてその方法は、普段から誰もが行っているものなのでしょうか? だとするなら、これも記憶喪失の弊害で僕個人が知らないだけで実は誰もが――。
「あーっ! もーっ!」
マコトは奇声を発しながら、両手で自分の髪の毛をグチャグチャにすると、僕が差し出していた半分のチョコレートを強引に掴み取った。
「小春には俺の常識が一切通用しないってのが、ほんとーにっ、よくわかった。お前の非常識な行動を警戒して、あれこれ勘ぐるのはもうやめるっ! 頭がどうにかなりそうだっ!」
「え、警戒?」
「気づいてなかったのかよ!?」
「まったく気づきませんでした」
「こいつは本当に……。今時どうしてここまで無邪気でいられるんだ……。こっちの気も知らずに……。打算であれこれ優しくしてた俺がバカ丸出しじゃねえか」
そうぶつぶつと呟きながら、マコトはいじけた様子で頬を膨らませてうつむいてしまう。
というか、さっきまで僕に優しかったのは打算だったんだ……。
「……本物だ」
マコトはうつむきながら呟くと、表面の溝にそってチョコレートを慎重に砕き、その小さな欠片を震える指先で口へと運んだ。
「どうですか?」
「……おいしい」
よかった。その一言を聞いてほっとした僕は、自分の分を口に入れると、舌の上でアメ玉みたいに転がした。そうしないと、なかなか溶けてくれないのである。
むむむむ。乙型配給食よりは断然美味しいけど、相変わらずこのチョコは甘すぎる。それにカカオの風味もほとんどしない。ここは熱くて渋い緑茶が飲みたいところだけど、残念ながらそんな贅沢品はここにはなかった。
仕方がないので、地面に置かれていたペットボトルの飲料水を一つしかない共用の紙コップへと注ぎ、それを一息に飲み干して舌に広がる強烈な甘みを押し流した。
「マコトも飲みますか?」
「…………」
「あの、お注ぎしますね」
「……っ」
「マコト?」
どういうわけか反応がない。
僕は水を注いだ紙コップを差し出しながら、マコトの様子を静かにうかがった。
「……うっ……うぅ……」
彼女は泣いていた。
泣きながら、嗚咽を必死になって押し留めている。けれどこぼれ落ちる大粒の涙はどうしようもなく。いくら拭おうと、とめどなく両頬を伝い落ちていく。
「うぅ……。すごくうまい……。チョコレートを食べたのなんて、何年ぶりだろう」
マコトは震える声でそう言うと、あとはひたすら泣きながら、むさぼるようにそれを食べ進める。
「うっ、うぅ……ぐっ……ひっぐ……」
僕は泣きながらチョコレートを食べるマコトの姿に圧倒されてしまって、指一つ動かせないまま、彼女が落ち着くのを黙って待ち続けるのだった。




