6 震える手を握って
それからしばらく経って。
「大丈夫ですか?」
そう尋ねると、マコトは気落ちした様子で何度かうなずいた。
「大丈夫。ごめんな、見苦しいもの見せちまって」
「いえ。……そんなに美味しかったですか?」
「うまかった。チョコレートを食べたのなんて、記憶にある限りだと六歳の誕生日以来だったから。その、懐かしくて。いろいろと思い出しちまった」
「……そうだったんですか」
「二〇〇〇年以降、アルバトロスの出現によって外国から食べ物を輸入できなくなった日本が食糧不足に陥ったのは、小春も知ってるだろ?」
「はい」
もちろん知らなかった。
もしかすると現代社会に対する僕の知識は、二〇〇〇年を境に途切れてしまっているのかもしれない。
けれど自分は記憶喪失なのだと説明するために、わざわざ話の腰を折るわけにもいかず、黙ってマコトの言葉に耳を傾けるのだった。
「まあ俺は、二〇〇五年生まれの十八歳で、生まれた時から日本は食糧不足だったから、あんまり深刻に考えていなかったんだけどな。食べ物をえり好みしなければ餓える心配はなかったし、誕生日とかの特別な日に、小さなチョコレートケーキを買うくらいの余裕は、当時はまだあったんだ」
「…………」
「ただそれも二〇一二年を境に一変した。沖縄を飲み込み、九州地方に上陸したアルバトロスが日本本土を蹂躙してからは、地獄のような毎日だった」
マコトは淡々とした口調で当時を語る。
けれど、彼女の両手はなにかを耐えるように強く握り締められていた。
「だから、そのアルバトロスを倒してくれた人類統合軍、特に賽原基地所属の軍人さんには、本当に心から感謝しているんだ」
「……アルバトロスを倒した部隊が、賽原基地の所属だったからですか?」
アリス様との会話を思い出しながらそう答えると、マコトは小さくうなずく。
「ああそうさ。戦略機動部隊、あの偉大な〝ハミングバード〟が世界で初めてアルバトロスの完全撃破に成功した日のことは、今でもよく覚えてる。辛気臭いスラムの空気なんて全部吹き飛んで、誰もがみんな目を輝かせて喜びを分かち合っていた。もちろん、俺もな」
マコトはぼんやりと遠くを眺めていた。きっと過去の情景を思い浮かべているのだろう。
「部隊がアルバトロスを撃破する度に、スラムは上を下への大騒ぎで、いつもは爪に火を灯すような切り詰めた生活をしていた奴まで、明るい顔で子供みたいにはしゃぎ回っていたんだ。だから第六次討伐作戦が失敗して、部隊が全滅したって聞いた時は、それはもうショックだった。最後の作戦が成功していれば、人類は復興に全力を注ぐことができたからな」
「…………」
「それでも、俺たちは彼らに感謝しているんだ。アルバトロスが撃破されるごとに、統合軍は少しずつ難民支援に力を注ぐようになって、ゆっくりとだけど生活が楽になっていったんだ。彼らは間違いなく、本物の英雄だった。軍事機密の関係で、所属隊員の氏名が伏せられたままなのが残念でならない」
「……英雄」
「なあ、小春。お前のご主人様は、統合軍の高級将校なんだろ?」
マコトはとても真剣な面持ちで、僕に詰め寄った。
「ええ、そうみたいですけど……」
「名前は? その人の名前はなんて言うんだ?」
一瞬、正直に答えてしまっていいのだろうかと悩んだが、仮にここで言いつくろったところで、それは簡単に見破られてしまうだろう。彼女の琥珀色の瞳に見つめられていると、そんな気がしてならなかった。
「来栖野有栖様です」
「来栖野?」
だから僕は正直にアリス様の本名を伝えたのだけど、その直後から、マコトは明らかに気を動転させていた。
「それってまさか来栖野博士のことか!?」
「来栖野博士……? マコトはアリス様のことを知っているのですか?」
「知ってるもなにも、来栖野博士は天才科学者だ! 戦略機動部隊〝ハミングバード〟を発足させた立役者で、現在普及しているサイボーグ技術を、たった一人で確立させた人類史上最高の天才だぞ!?」
……え? アリス様が天才科学者?
「その呆けた顔を見る限り、なにも知らなかったみたいだな。……はぁー、まったく。今日はなんて日だ」
マコトは深いため息を吐きながらズルズルと近くの壁に寄りかかった。
まもなくなにかを決心した彼女は、両ひざを叩いて姿勢を正し、こちらに歩み寄って僕の手を握る。彼女の手は震えていた。
「……小春、ここから逃げるぞ」
「どうしたんですか、急に」
「どんな理由があるにせよ、お前が来栖野博士にとって大切な存在なのは間違いない。でなきゃ、このご時世にお前みたいな世間知らずを使用人にしておく理由が俺には思いつかない」
マコトの手は震えていたが、決してこの手を離しはしないという強い決意がひしひしと伝わってくる。確かにこのまま倉庫で大人しくしていても、僕らを待ち受けているのは、目を覆いたくなるほど悲惨な結末に違いない。
「だから逃げるぞ! お前はこんなところに居ちゃいけない人間だ!」
「……マコト」
こういうのは早く決断するほうが良いに決まっている。
僕は、その震える手を強く握り返した。
「わかりました。逃げましょう」
即答すると、マコトは心底驚いた様子で、こちらの顔をまじまじと見つめてくる。
おそらく僕が怖気づくと踏んでいたのかもしれない。
「それで、どうやってここから脱出するのですか?」
それはきっと最善の選択ではないのだろう。脱出が無事に成功する確証なんて微塵もありはしない。でもこのまま、ここでじっとしていても廃工場を根城にしている連中は僕らをなぶり殺しにするに決まっている。
だから腹をくくるしかない。不思議なもので、一度決意してしまうと心の奥底で渦巻いていた不安と恐怖がスッと消えていく。脳内はクリアで、思考が冴えわたり、微かな緊張によって気分が高揚する。
驚いた。意外にも、僕は本番に強いタイプなのかもしれない。
「小春って、意外と度胸あるよな」
「かもしれません」
「ははっ。じゃあ早速、肝心の作戦についてだが」
「作戦があるのですか?」
「ある。じつはな、周囲の見張りは一定時間で交代するんだが、それには規則性あって」
僕らが身を寄せ合って、小声で脱出作戦について話し合おうとしていると――。
ガラガラと音を立て、誰かが倉庫の扉を押し開いた。
まさか、このタイミングでっ!?




