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4 箱入り娘

 


 銃口は雄弁であった。


 貪欲で、自己中心的で、どこまでも罪深い。


 これこそが人間の本性なのだと、僕は身をもって理解させられた。日本人なんだから無条件で優しいだなんて、そんな甘ったれた考えは通用するはずがなかったんだ。


 まして今は平時ではない。

 全人類が滅亡の瀬戸際に立たされた戦時下だ。


 二〇一二年。巨大生物アルバトロスの侵略によって、日本は国土の大半を失い、何千万もの避難民が全国から関東地方へと押し寄せた。そんな絶体絶命の関東地方で、わずかな食料や医薬品を求めて他者を容赦なく蹴落とし、自分が生き残るためだったらどこまでも残酷になれた人々こそ、二〇二三年現在も生き残っている日本人の正体なんだ。


 それに気づいた時、僕はなんだか無性に悲しくなって、銃口を向けられながらも、この絶望の時代を生き抜く人々に対して涙を流さずにはいられなかった。


 市街地から遠く離れ、視界の左右に荒地が広がる一本道を銃口で突かれながら延々と歩かされること一時間。僕が連れてこられたのは、赤さびだらけの廃工場だった。


 敷地内には、風雨を凌げそうな建物が密集している。


 おそらくここが彼らの拠点なのだろう。


「入れ。しばらくここで大人しくしていろ」


 軽薄そうな男性は廃工場の一角にある大きな倉庫へと、僕を手荒く押し込めた。


「うっ」


 倉庫内部の空気は酷く淀んでいた。なにかが腐敗した臭いと、お酢を薄めたような酸っぱい臭いが充満していて、たまらず鼻を押さえた。


「見張りが常に監視している。逃げ出そうとは思わないことだ」

「じゃあねー」


 それだけ言うと、彼らは倉庫から離れていった。


 口では脅していたが、僕がここから逃げ出すことはないと判断しているに違いない。


 ……まったくもって、その通りである。図星だった。


 なにせ彼らは銃器で武装しているのである。


 きっと廃工場の見晴らしのいい場所には、常にスナイパーが配置されていて、望遠鏡のような巨大なスコープを覗き込んで周囲を警戒しているに違いない。彼らはただ引き金を引くだけで、数百メートル離れた場所から人を殺せる兵器で武装しているのだ。


 見張りだって巡回しているだろうし、隙をみてここから逃げ出すのも難しいだろう。


「はぁー」

 これからどうしよう。


 いつのまにか倉庫内の臭いは慣れてしまっていた。ついさっきまで吐きそうになっていたのに、人体とは摩訶不思議である。


 それにしても、この臭いの原因はなんなのだろう。まさか野犬かなにかを多頭飼育しているのだろうか? せめて綺麗な水の出る蛇口と、バケツと洗剤と雑巾があれば、最低限の掃除ができるのだけど……。


「――おい、新入り」


「きゃあああ!?」


 びっくりしたっ! すごくびっくりしたっ!


 倉庫の暗がりから急に声をかけられ、おもわずその場で飛び跳ねた。


「ったく、うるせーな。もう少し静かにしろよ」


 それは少年的で、ざらざらとした響きのある、しゃがれた声だった。


「す、すみません。驚いちゃって……」


 ああ、とっさにここまで甲高い悲鳴が出てしまうなんて、思えば僕もずいぶんと女の子らしくなってしまったものだ。


「…………」

「うるさいと思ったら、急にだまりやがって。忙しいヤツだな」


 急激にテンションが落ちて塞ぎ込んでいると、誰かが倉庫の奥からふらふらと歩いてくる。


 十代後半から二十代前半くらいの女性、いや、もしかして男性だろうか?


 その人は、一目では性別が判断できないほど中世的な容姿をしていた。


 脂ぎったぼさぼさの黒髪、汚れた肌、意思の強そうなこげ茶色の瞳。


 背丈は僕よりも少し高くて百六十五センチくらいはあるが、かなり痩せていて体格は細く、栄養失調なのは明らかだった。


 この倉庫に閉じ込められて長いのか、体や衣服がとても汚れていて、何年も洗っていない犬のようなむっとした臭いが鼻を突く。


「お前、名前は?」


 口元には青あざがあり、水気のないカサカサの唇は血が滲んでいて、見ているだけで痛々しかった。きっと誰かから暴行を加えられたのだろう。


「雪風小春です」


「日本人? その見た目で? 綺麗な服も着てるし、もしかして愛玩用?」


「ぼく、人間ですっ」


「へー。じゃあ、サイボーグってこと?」


 僕は、賽原基地の地下室でアリス様から教えられたあれこれを思い出す。


「……そうですね。きっと、サイボーグなんだと思います」


「なんか訳ありっぽいな。まっ、どうでもいいか」


 その人はカラッとした笑顔で、こちらへと右手を差し出した。その手は爪がひび割れ、指先は至るところが擦りむけてボロボロになっていた。


「俺の名前は、マコト。有坂真(ありさかまこと)


「よろしくお願いします」


 よかった、普通の自己紹介だ。

 なんだかとても安心する。


 容姿に続き名前すらも中性的で、いまだに性別の判断がつかないけれど、とにかくいい人そうだ。


 銃口を突きつけて服従を強いるようなものが、荒廃した日本おいて一般的な自己紹介の方法であっていたなら、僕はこの世界そのものに絶望していたかもしれない。


 そういう意味でなら、僕は有坂さんに助けられたことになる。


 いずれ恩返しができればいいのだけれど、悲しいかな、今は捕らわれの身だ。


 自分のことで手一杯なのに、他人を助ける精神的な余裕などありはしなかった。


「あのー、有坂さんは……」


「よかったら名前で呼んでくれ。俺もお前のことは小春って呼ぶから」


「わかりました。それじゃあ、えーと、マコトくんは――」


 僕がそう呼んだ直後、マコト……さんの表情が怒りに染まった。自分はこういうところで運が悪い。二分の一の確率で、ハズレを引いてしまったようだ。


「俺は、女だ! 男っぽくって悪かったなっ!」


「ご、ごめんなさい!」


「はあ。……まあ、小春に悪気がないのはわかってる。俺だって、自分が男みたいだって自覚あるし、名前からして中性的だからな」


 自覚はあったんだ。となると、いくつか疑問が出てくる。


「えーと、マコトはどうして、その……」


「どうして男みたいな格好をして、男みたいな口調で喋っているのかって?」


「はい、そうです」


「自衛のためだ。今のご時世、女が可愛らしい格好でその辺をうろうろしてたら、エサを抱えて猛獣に近づくようなものだからな。しないよりはマシという程度だが、これまでは一応効果があったんだ。今はこうして捕まっちまったから、説得力ないけどな」


 なるほど、自衛のためか。僕は感心してしまって頻りに頷いた。その様子がおかしかったのか、マコトは苦笑しながら自分の話を続けるのだった。


「俺はもともと横須賀で暮らしていたんだ。横須賀にも基地があって、その周りには大規模なスラムが広がってる。今の日本じゃスラムなんて珍しくもないが、あそこは賽原基地とは違って、今でも食料が配給されているからな。相変わらず配給量は少ないが、なんだかんだ人が集まってくる」


「……スラム」


 それは発展途上国で見られるような、トタンや木材の切れ端とかで造られた掘っ建て小屋が密集する貧民街だったはずだ。関東一帯が、廃墟となった賽原市と同等の被害を受けているのだとすれば、スラムの一つや二つあっても不思議ではない。


 そう頭では理解していても、当事者であるマコトから現代日本の一般的な生活水準を聞かされると、言葉では表しがたいショックがあった。


「…………」


 それと同時に、これまでの二カ月間、僕が現代日本においてどれほど豊かで、どれほど贅沢な生活を送ってきたのかを理解して戦慄する。


 電気ガス水道が使い放題で、食料だって生鮮食品こそ不足していたけれど、アルバトロスが出現する以前の生活水準が、ほぼ完全に保たれていたのである。


 それがどれほど困難なことなのか、知識が乏しくとも想像に難くない。


 アリス様……。


 理由はわからないけど、僕はそれほど大切に守られていたのである。


 心の中でその事実を噛みしめながら、これまで自分を守ってきてくださったご主人様に対して、ただただ深く感謝するしかなかった。


「マコト、質問です。横須賀には、どれくらいの人々が暮らしているのですか?」


「だいたい二十万人くらいだったかな? 詳しくはわからない」


「二十万人……」


 日本の総人口の二割ってところか。二十万人で総人口の二割、少ないなぁ……。


「話を戻すが、横須賀では食料が配給されるから、餓死する心配はない。ただ医薬品や日用品は慢性的に不足していて、こればかりは横須賀を出て、横浜とか鎌倉とかの旧市街地を探索して物資を持ち帰ってくるしかないんだ」


「……なるほど」


「そうやって生計を立てている人を横須賀では〝スカベンジャー〟って呼んでる。ちなみに、俺もスカベンジャーだ。他のスラムだと、この職業がなんて呼ばれているのかは知らないけどな」


 スカベンジャー、和訳すると廃品回収業者か。


「マコトは、どうして賽原まで来たのですか? 横須賀からだと、それなりに距離がありますよね?」

「近場の横浜や鎌倉は、目ぼしい物資を粗方取り尽してしまって、なにも残っていないんだ。だからスラムもなくて、たんまりと物資が残っていそうな賽原まで出てきたってわけ」


「ひとりで、ですか?」


「まさか。横須賀を出発する時は、大勢の仲間と一緒だったさ。全員で大きな台車を何台も押しながら、瓦礫だらけの道をずっと歩いてきたんだ。何日もかけてな」


「マコトの仲間は」


 仲間は今どこにいるのか。その質問を最後まで言い終えることが、僕にはできなかった。


 彼女の痛々しい表情が、すべてを物語っていた。


「……この廃工場を根城にしている連中に全員殺された」


「……!」


「奴らは小銃だけじゃなくて、対戦車ロケットとか手榴弾、粗悪品だが高出力のレーザー兵器なんかでガチガチに武装してやがった。俺たちも銃火器でそれなりに武装していたんだが、手も足も出なかった」


 世界は荒廃し、銃火器で武装した犯罪者たちが幅を利かせ、巨大スラムが乱立する。


 まさに世紀末だ。


「マコトは、……その、よく無事でしたね」


「俺は歳が若くて、女だったからな。……だから、その、命だけは助かったんだ」


 マコトの様子は、僕の目から見ても冷静だった。


 世の中に絶望して、なにもかもを諦めているわけではなく、どこか達観しているのである。


 戦闘に巻き込まれ、目の前で大勢の仲間が殺され、それでも彼女は感情を乱すことなく冷静さを保ち続けている。……そうか、今まで話してくれたことは、彼女にとって日常の一部でしかないんだ。


 誰もが自分の死を覚悟し、明日死ぬかもしれないと明確に自覚した上で、日常生活を送っている。巨大生物アルバトロスが出現する以前の紛争中の国々と同等か、それ以上に劣悪な治安情勢。現代日本は、こちらの想像を遥かに超えて非情であった。


「…………」

 重度の記憶喪失で、正確な記憶が直近二カ月分しかない自分は、あまりにも無知だ。


 どれだけ慎重に言葉を選ぼうと、今の僕では、マコトを慰めることはできないだろう。


 それどころか逆に、彼女をより深く傷つけてしまうかもしれない。一度でもそう考えてしまうと、マコトに掛けるべき次の言葉がどうしても見当たらず、口を閉ざして視線を泳がせるしかなかった。


「ところで、小春はなんで奴らに捕まったんだ?」


「え?」


 そんなちっぽけな僕の逡巡を知ってか知らずか、マコトは朗らかに笑っていた。


「いやだから、小春って名家のお嬢様かなにかだろ? それがどうしてこんな廃墟なんかにいるんだよ」


「いえ、僕はお嬢様ではありません」


「違うのか?」


「違います、使用人です。旧町方面の、えーっとここからだと、だいたい北西方向の山間部に鶺鴒館というお屋敷があるのですけど、そこでメイドとして働いていました」


「へー、メイドかー。本物のメイドなんて初めて見た。それで、まさか雇い主と喧嘩でもしてお屋敷を飛び出して来ちゃったのか? ……いやすまん、小春がそんなマヌケなことするわけないか」


 図星だった。言葉が刃となって、予期せぬタイミングで僕の心を深く抉った。


「え? マジで? 冗談のつもりだったんだけど……」


 自分が特大の地雷を踏み抜いてしまったことに気づいたのか、マコトは口を開けて呆然としている。


「事情はもっと複雑ですけど、おおむねそんな感じです。ある事情で大喧嘩して、ご主人様の制止も振り切って、安全な場所から飛び出して来ちゃいました。それで賽原市の市街地を歩いていたら、急に二人組の男性に声をかけられたんです。彼らは銃を持っていましたけど外で人と会うのは初めてだったので、挨拶しようと思って……」


「つまり小春は、銃で武装したいかにも怪しい連中と遭遇したのに、逃げも隠れもせずに自分からノコノコと近づいたわけだ。完全にカモだな。俺なら罠を疑うレベルだ」


「……はい」

 しゅん。


「はぁー。ほんと、呆れてすぎて怒る気にもなれない」


「すみません」

 おっしゃる通りです。


「箱入り娘って本当にいるんだな。ある意味で感動する」


「だから、自分はただのメイドで……」

 そもそも僕は男だし……。


「あのなぁ、俺からすると――」


 くわわっと目を見開き、マコトは僕を指差しながら叫んだ。


「お前は立派な、世間知らずの箱入り娘だっ!」

「そんなー」



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