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第9話「小さなずれ」

 翌朝。

 裕美はいつものように夜勤から帰宅する。

「ただいまー」

 玄関で靴を脱ぎながら、ふと視線がロッカーに向く。

 昨日、出勤前に閉めたはずの扉が、わずかにずれていた。

(……あれ?)


 手で押すと、カチャ、と音を立ててしっかり閉まった。

 気のせいかもしれない。夫か子どもたちが触ったのかもしれない。


 でも――。

 鏡で身なりを確認したとき、どこか背筋が冷えた。

 昨日よりも、部屋の空気が薄く感じる。

 ほんの少しだけ、カーテンの開き具合が違うような……。


「ママ、早くー!」

 子どもに呼ばれて、慌てて振り返る。

 笑顔を作って向かうが、心の奥に引っかかりが残ったままだった。

(……誰も入ってないよね。うちに限って、そんなはず……)



(……気づいたかもしれないな)

 昨夜、ロッカーの扉を閉めるときに、わざとほんの少しだけ隙間を残しておいた。

 触れた痕跡を“残す”のは、本当は危険だ。

 でも――その危うさが、どうしようもなく心を満たす。

(鍵の位置も、カーテンの角度も……“普段と少し違う”って、きっと気づくはずだ)


 彼女が不安げに周囲を見回す顔を思い浮かべる。

 気のせいかもしれない、と笑顔を作りながら、内心でざわめいている姿を想像する。


(……いいな。その“誰にも言えないざわめき”を与えてるのは、俺だけだ)

 自分が存在を隠したまま、彼女の生活に波紋を落としていく。

 それは“共有できない秘密”であり、“俺と彼女だけのつながり”だと、幸一は信じ込んでいた。



 その夜、子どもたちが寝静まった後。

 裕美はリビングのソファに座り、夫に声をかけた。

「ねえ……最近ちょっと変なの」

「ん? 何が?」

 言いながらスマホをいじる夫に、裕美は視線を落としたまま言葉を続ける。

「ロッカーが少し開いてたり、カーテンがちょっとずれてたり……。なんか、“誰かが触った”ような気がするのよ」


 夫はふっと笑った。

「それ、気のせいだろ? 疲れてるんだよ」

「……でも、本当に変なのよ。いつも自分で閉めてるのに」

「子どもたちじゃないの? あの子たち、触っちゃいけないとこ平気で触るし。それに、風とか掃除のときにズレたんじゃない?」

 裕美は唇を噛む。

「……そうかもしれないけど」


 夫はリモコンを取り、テレビをつけた。

「心配しすぎだよ。大丈夫、うちは鍵もかけてるし、この辺りは物騒なことなんて起きないって」

 そう言って笑う夫の横顔に、裕美は返す言葉を見つけられなかった。

 自分の感覚が正しいのか、それとも本当に思い過ごしなのか――。


(でも……“違和感”は確かにあった。間違いなく)

 胸の奥の不安を誰にも共有できないまま、裕美はただ小さくうなずいて、その夜をやり過ごした。



 夜、アパートの薄暗い部屋で、幸一はベッドに横たわっていた。

 天井を見つめながら、裕美の顔が頭に浮かぶ。

(……最近、少し疲れてるように見える)

 それは、夫や子どもに気づかれないほどの小さな陰り。

 けれど幸一には、はっきりとわかる気がしていた。


(きっと、誰にも言えないことを抱えてるんだ。でも、旦那はどうせ気づいてない。あの人には無理だ)

 そう考えると、胸の奥に温かいものが広がる。

(……大丈夫だよ。俺は気づいてるから。俺だけは、ちゃんと見てるから)


 スマホの画面に保存した写真を指先でなぞる。

 笑顔の横顔。何気ない仕草。

 それは、夫や子どもには見せない“本当の彼女”だと幸一は信じていた。


(もし誰も頼れなくて、不安で眠れない夜があっても――。俺だけは、そばにいる。気づいてる。理解してる)

 そう思うと、自分の存在が特別に思えてくる。

 彼女にとって必要な人間は、もう夫でも子どもでもない。

「――俺なんだ」

 幸一はそう確信し、目を閉じた。

 その胸の奥では、言いようのない安堵と高揚が入り混じっていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いします!

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