第7話「すれ違う影」
ある夜。
幸一はまた、住宅街の路地にいた。
原付を少し離れた公園に置き、足音を忍ばせながら野田家の裏手へ回る。
窓の向こう――灯りがもれるダイニング。
カーテンは少しだけ開いていて、中の気配が外ににじみ出ていた。
「ママ、おかわり!」
「だめだぞ、まずは野菜から食べなさい」
「えー!」
子どもの弾む声と、それをたしなめる父親の声。
裕美の笑い声が混じる。
幸一は、庭先のブロック塀に背を預け、ただじっと耳を澄ませた。
(……これが、裕美さんの“本当の生活”)
食器の触れ合う音。
テレビのバラエティ番組の笑い声。
そして、彼女の「おいしい?」という優しい声。
胸の奥に、焼けつくような熱が広がる。
(俺は……ここにいない)
(でも、彼女の声をこうして聞いている)
ひとりで立ち尽くしながら、彼は頬を強ばらせて笑った。
(家族なんて、ただの背景だ……。本当に裕美さんを理解してるのは、俺だけなんだ)
その瞬間――室内で裕美がふと窓の方を見た。
幸一はとっさに屈み、闇に身を潜める。
「……どうしたの?」
と夫の声。
「……なんでもない」
裕美は小さく首を振り、また食卓へ戻った。
幸一は胸を押さえながら、息を殺して笑みを浮かべる。
(気づかれそうになった。でも、それでいい。俺の存在を、少しずつ感じてもらえれば……)
彼は満足そうに、暗い路地を後にした。
その夜。
裕美は玄関の鍵を閉める手に、いつも以上に力を込めていた。
チェーンをかけ、窓の施錠を確かめ、ベランダにはセンサーライトを取り付ける。
「……ちょっと気になって。最近、洗濯物がなくなった気がして」
「えー……気のせいじゃない? 防犯はちゃんとしてるし」
夫は苦笑しながらそう言ったが、裕美の目は真剣だった。
寝室に入る前、彼女はもう一度玄関を振り返る。
鍵は閉まっている。
センサーライトは点いている。
それでも――心の奥に冷たいざわめきが残っていた。
(……誰かに、見られている気がする)
夜、幸一の自室。
机の上には勤務表のコピー。
裕美のシフトに赤ペンで印がつけられている。
「……木曜は遅番。旦那はたしか火曜日が残業で、帰りが遅い」
「上の子は鼓笛隊の練習で帰りが遅くなるって言ってた」
「下の子は保育園……迎えは裕美さん。だから、その時間帯は空っぽになる」
幸一は小声でつぶやきながら、スマホのカレンダーに予定を打ち込む。
まるで仕事の段取りを組むように、淡々と。
(……その隙を狙えば、家の中を“確かめる”ことができるかもしれない)
翌日。
幸一は仕事帰りに原付を走らせ、野田家の住宅街へ。
遠回りを装い、夕暮れの路地を歩く。
白い門柱。表札。
庭にはセンサーライトが新しく設置されていた。
玄関のドアには、チェーンロックの影が見える。
窓もすべて閉められ、カーテンがきっちりと引かれている。
(……やっぱり、前より警戒してる)
裕美の仕草を思い返す。
鍵を確認する回数が増えたこと。
帰り際に周囲を見回していたこと。
(気づいてるんだな……俺の気配に)
だが、それはむしろ――幸一にとっては「歓迎すべき兆候」に思えた。
(俺の存在を意識してる。だったらもう、ただの同僚じゃない)
(彼女は、俺を“特別に”感じてる証拠だ)
静まり返った住宅街の角。
幸一は、裕美の家を見つめながら小さく笑った。
「今日は……下見だけ」
ポケットの中で、手が汗ばんでいた。
すぐにでも門を開け、玄関の取っ手に触れたくなる衝動を、なんとか抑える。
代わりにスマホを取り出し、周囲の風景を写真に収めた。
帰り道の電柱の位置、公園の死角、街灯の明るさ。
すべて、記録されていく。
「準備はできてる。……次は、タイミングだけだ」
原付にまたがると、幸一は背筋に走る寒気を楽しむように深く息を吐いた。
その夜。
食器を洗い終え、子どもたちを寝室に送り出したあと、裕美は居間のカーテンへ手を伸ばした。
――ふと、外の気配が気になった。
住宅街の夜は静かで、虫の声と遠くの車の音しか聞こえない。
けれど、背中に誰かの視線が突き刺さるような錯覚があった。
(……まただ)
カーテンを閉めるだけなのに、手が小さく震えている。
窓の外に映る自分の顔が、どこかこわばって見えた。
以前は気にも留めなかった。
けれど最近――帰り道に足音が近づいた気がしたり、玄関の影に誰かが立っていた気がしたり。
思い過ごしだと自分に言い聞かせながらも、不安は消えなかった。
裕美は、カーテンを一気に引き閉め、鍵を確かめる。
玄関のチェーンロックも確認し、センサーライトのスイッチを押す。
「……はぁ」
小さく息を吐き、ソファに腰を下ろす。
隣の部屋からは、夫のいびきと、子どもの寝息が聞こえていた。
その穏やかな音が、ほんの少しの安心をくれる。
けれど――窓の外の暗闇が、カーテンの向こうでじっとこちらを覗いているような気がしてならなかった。
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