第6話「越境 ~消えた一枚~」
――夕暮れ。
幸一はまた住宅街を歩いていた。
門の前を通り過ぎ、裏手へ回ると、小さな庭が目に入った。
プランター、三輪車、サッカーボール。
物干し台には、子どものシャツや旦那のワイシャツ。
そして――柔らかな色合いの女性もの。カーディガン。
そして白いシンプルな下着。
風に揺れるそれを見た瞬間、幸一の呼吸は止まった。
(……裕美さんの……下着……)
塀の隙間に手を伸ばす。
指先に、布の感触。
――次の瞬間、ポケットに滑り込ませていた。
心臓は早鐘を打ち、背中に汗が伝う。
振り返ると、夕陽に照らされた家が赤く染まっている。
(怒るだろうな。泣くだろう。絶望するかもしれない)
(でも――今は知らない。俺だけが知っている)
幸一は小さく笑った。
「……おやすみなさい」
そう呟き、暗くなる前に路地を去った。
その少し後、裕美が洗濯物を取り込む。
「……あれ?」
干したはずの下着が一枚足りないような気がする。
気のせいかと思いつつも胸に不安が残る。
その晩、幸一の部屋。
机の引き出しには密閉袋がいくつも並んでいた。
ヘアゴム、折り紙、使いかけのハンドクリーム。
そして――今日、新たに加わった“彼女の下着”。
手に取った下着を前に、幸一の呼吸は荒くなっていた。
(本当は洗濯前のが欲しかったけど……これが、一番だ)
声も、笑顔も、写真も。
どれも彼女を思い出させてくれるけれど――。
直接身につけていたものだけは、他の何にも代えられない。
(こうしてさらに……裕美さんを“感じられる”んだ)
指で布の端をなぞる。
その瞬間、胸に甘美な震えと同時に、鋭い恐怖が走った。
(もう戻れない。これで……本当に“犯罪者”になった)
それでも手は震えながら下着を撫でる。
喜びと恐怖がせめぎ合い、やがて奇妙な充足感に変わっていった。
「……仕方ないだろ。ここまで来たら」
誰に言うでもないその言葉が、部屋の闇に吸い込まれていった。
薄暗い部屋で、幸一は袋を並べては位置を微妙に変え、まるでコレクションを鑑賞するように眺めた。
指先で袋をなぞりながら、ひとつひとつに彼女との思い出を語りかける。
「これは……俺にだけ微笑んでくれた日の……」
「これは……あの優しい声が残ってたやつ……」
声は次第に熱を帯び、やがて彼自身さえ酔うように微笑む。
(俺が持っているから、消えない。俺が守ってやるから――)
その頃。
裕美はリビングで洗濯物を畳んでいた。
ふと、視線を泳がせる。
(……やっぱりおかしい。干したはずのが、1枚ない)
その感覚を胸に、隣の夫に小さく呟いた。
「ねえ……私の下着、干したやつ……一枚足りない気がするの」
夫は新聞をめくりながら、顔も上げずに答える。
「風で飛んだんじゃないか? ここの庭、よく煽られるし。今朝から風が強かったろ?」
「それか、ゴミと一緒に捨てちゃったとかさ」
「……そう、かな」
裕美は笑ってみせたが、胸の奥ではざらついた違和感が消えなかった。
(でも……風で飛んだなら、庭のどこかにあるはず。ゴミと一緒なら袋を開けた時に気づくはず……)
その夜、布団に入りながらも視線は天井に固定されていた。
(気のせいだと思いたい……でも、本当に?)
――眠れない夜が、静かに始まっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いします!




