第2話「スクリーンの中の彼女」
翌日、幸一は妙に落ち着かなかった。
裕美と目が合うたび、声をかけられるたび、自分が“期待している”のを自覚する。
ほんの一言、ほんの笑顔ひとつを、特別な証拠のように受け取ってしまう。
「成吉くん、ここお願いできる?」
裕美の穏やかな笑顔に、心臓が大げさに跳ねる。
(やっぱり俺を特別に……?)
だがその直後、別の女性職員が駆け寄った。
「ありがとー!裕美さん、昨日のシフトの件も助かったぁ!あとでお礼するね!」
その言葉に、裕美は同じような笑顔で「うんうん」と頷いていた。
(……俺だけじゃ、なかった)
胸の奥に鈍い痛みが走る。
それでも――惹かれてしまう気持ちは消えなかった。
その夜、幸一は夢を見た。
――暗い施設の中。
ナースステーションに灯りがあり、そこに裕美がいた。
「こんな時間に、どうしたの……?」
微笑む彼女に手を伸ばす。触れた感触があまりにも現実的で、思わず抱きしめた。
「……ダメよ」
そう囁いた声は拒絶の冷たさではなく、どこか切なさを帯びていた。
目が覚めると、額には汗がにじみ、息は荒かった。
(夢でよかったのか、悪かったのか……)
布団の中で、また自分の欲と向き合わされる。
翌朝、休憩室の掲示板に貼られた出勤表の前で、幸一はしばらく立ち尽くしていた。
「……あった」
自分と同じ日に並ぶ“野田裕美”の名前を指先でなぞる。
シフトの枠に黒々と記された文字を何度も見返し、胸の奥に安堵が広がる。
しかし、そのすぐ横に記された“休み”の二文字を見つけた瞬間、胸が妙にざわめいた。
――その日、彼女は家族と過ごすのだろう。
そう思うだけで、無意識に爪が紙を押しつけていた。
数日後。
休憩中、ふと耳に入った裕美の会話に、幸一は立ち止まった。
「昨日、上の子が熱出しちゃって。旦那が帰るの遅くて大変だったのよ」
「えー大変! 保育園もまだ手がかかるんじゃ?」
「そうなの。仕事との両立はほんとにキツいわ~」
笑いながら話す裕美。
その姿に、幸一は胸を強く引き戻される。
(そうだ……裕美さんには“家庭”がある)
分かっているのに――
(それでも、あの時の笑顔だけは忘れられない)
それは、勤務を終えて帰宅した夜だった。
いつものように、コンビニで買った冷凍のパスタをレンジに放り込み、スマホを片手にソファへ倒れ込む。
頭の中をよぎるのは、野田裕美の姿ばかり。
白い制服、さりげない笑顔。肩に置かれた手の温もり。
「……どうしちまったんだよ、俺」
たった数日働いただけの相手に、ここまで心を乱されるなんて。
しかも既婚者で、子どももいる。
理性では理解している。けれど、感情はもう止められなかった。
耳の奥では、あの声が何度も響いていた。
――「頼りにしてるわ」
その言葉を思い出すたび、まるで自分だけに許されたもののように思えてしまう。
気づけば、スマートフォンを手にしていた。
検索窓に「野田裕美」と打ち込み、さらに「勤務先」「市名」「年齢」といったキーワードを加える。
ほどなくして、あるFacebookのプロフィール写真が表示された。
控えめな笑顔。ミディアムボブ。
(……間違いない)
ページを開くと、胸の奥がざわついた。
子どもと並ぶ写真。「長男が小学校に入学しました」
夫とのツーショット。「結婚記念日でした」
そこには“家庭のある裕美”がいた。
(ああ、本当に“いる”んだ……)
胸の奥が痛む。だが同時に、言いようのない悔しさが込み上げた。
「でも……仕事中は、俺にあんな目を……」
指は勝手に動き、過去の投稿を遡っていた。
習い事の様子。小学校の学区。
「この辺でカフェランチ☕️」と書かれた投稿には、見覚えのある通りの写真。
(あの駅の近くだ……)
指先が止まらない。
気づけば「保存」のボタンを押していた。
アルバムには、子どもと笑う裕美、夫と肩を並べる裕美――。
その写真が無機質なスマホのフォルダに並んだ瞬間、胸に妙な安堵が広がる。
(これで……いつでも見られる)
一度保存してしまえば、削除する理由はどこにもなかった。
幸一の頭の中で地図が描かれていく。
駅、学区、住宅地――裕美の生活圏が、線となってつながっていった。
ふいに、レンジの「チン」という音が鳴る。
遠くから聞こえるように感じられ、幸一は画面を見つめたまま動けなかった。
スマホの中には、裕美の私生活があった。
そしてそれを覗いている自分がいた。
(……俺、何やってんだ)
首筋を冷たい汗が伝う。
誰かに見られている錯覚。
(別に……悪いことをしてるわけじゃ……ない、よな?)
スマホを伏せ、ソファに突っ伏す。
浮かんでくるのは、裕美の笑顔と、夫の肩に置かれた手の映像。
その夜、幸一は眠れなかった。
冷えたパスタは、レンジの中に置き去りのままだった。
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