第2話 かすかな記憶
次に風花と会ったのは、それから一週間ほど経った昼休みだった。
大学の中庭にあるベンチに腰かけて、買ってきたパンをひと口かじったとき、不意に声がした。
「やっぱり、駿じゃん」
顔を上げると、風花が立っていた。春色のシャツに、薄いベージュのカーディガン。少し光を受けてきらめく髪が風に揺れている。
「……よくわかったな」
「うん。背中でわかった」
「それはちょっと怖い」
ふたりして小さく笑って、風花が隣に腰を下ろした。
「ここ、好きだったんだよね。中庭の木陰。中学のときも、よく桜の下でしゃがんでたじゃん、駿」
「……しゃがんで、地面のアリ見てただけだろ」
「ふふ。そんな駿が好きだったんだよ、私」
冗談めいた言い方。でも、妙に静かな声で、俺は少しだけ肩をすくめた。
「好きだった、って。過去形なのか?」
「うーん、どうかな」
風花は曖昧に笑ったあと、空を見上げるように言った。
「桜、もうすぐ咲くね」
そうだ。今年は少し遅めの開花になると天気予報が言っていた。
でも、桜の季節が来ると、俺たちはいつも思い出す。
それは、中学三年の春だった。
卒業式の前日、まだ少し寒い夕暮れ。帰り道の途中、風花が突然言った。
「卒業式のあと、桜見に行かない?」
「え?」
「川沿いのとこ、ほら。並木道になってるじゃん。毎年見逃してたでしょ? あそこ、きっと綺麗だから」
「……まだ咲いてないだろ?」
「うん、たぶん。でも、咲く前でもいいんだよ。駿と歩きたいから」
その時の風花の横顔が、今でもはっきり浮かぶ。
少し寒そうに肩をすくめながら、けれどまっすぐにこちらを見た瞳。
俺は、うなずいた。
「……いいよ」
それが、ふたりの「約束」になった。
けれど、卒業式の当日。風花は姿を現さなかった。
終礼が終わって、校門を出て、あの川沿いの道まで行った俺は、風の中でずっと立ち尽くしていた。
そのときは何も知らなかった。
翌日、風花がもう引っ越したことを、別の友達から聞いた。
転勤の都合で卒業式のあとすぐに引っ越すと、風花は誰にも言わずに消えた。
残されたのは、咲きかけの桜と、すこし肌寒い春の空気だけだった。
「……桜のこと、まだ気にしてたの?」
風花の問いに、俺は答えなかった。
答えられなかった。
気にしてなかったはずなのに、風花に再会したその日から、ずっと心の奥が揺れている。
風花は、手に持っていたペットボトルのキャップを外しながら言った。
「私ね、あの日、行こうとしたんだよ。本当は」
「……でも、来なかった」
「うん。……引っ越しの準備がバタバタで、時間がなくなって。しかも、親にも止められた。“あんた泣くでしょ”って。……それ、当たってたけど」
風花の声は、少し震えていた。
でも、泣いてはいなかった。静かに過去を振り返る、そんな目をしていた。
「駿はさ、怒ってる?」
「……うーん」
俺は空を見上げた。春の雲が、うすく流れていく。
「怒ってないよ。ただ、……あの桜、咲くの見たら、たぶん思い出すんだろうなって」
風花はふっと笑って、俺の方を見た。
「じゃあ、今年は一緒に見ようよ」
「え?」
「咲く前でも、咲いてからでもいいから。今度こそ、ちゃんと一緒に見ようよ」
約束。
また、それを聞いた気がした。
「……いいのか?」
「うん。駿となら、見たい。あの日の続きじゃなくて、今の、春を」
風花がそう言ったとき、少しだけ、胸が痛んだ。
あのとき、彼女を責めきれなかった自分も、なにも言えなかった自分も――ちゃんとここにいる。
けれど、今の風花が言った「今の春」は、どこか救いのようだった。
きっと、過去を帳消しにはできない。
でも、もう一度、桜の下で隣に立てるなら。
「……今年は、ちゃんと行こう」
そう言うと、風花はやわらかく微笑んだ。
春風が、ふたりの間をすり抜けた。
少しだけ甘くて、あたたかかった。