第4話 玻璃の瞳、ヴィリロス
「ごきげんよう」
いつもの通り、クラスに挨拶をしながら自分の席へと向かう。朗らかに挨拶を返す者、ヴィオレッタの美貌にため息を漏らす者、その反応は各々異なっていたが、誰もがヴィオレッタに対し好意的な感情を抱いているという事だけは伝わってくる。
「……」
ヴィオレッタを見つめるアクアマリンの瞳がふたつ。さらりとした絹糸のような白髪の少年は、手にしていた本を静かに机の上に置くと小声で話しかけてきた。
「おはよう、ヴィオレッタ」
「ヴィリロス……」
ヴィリロス・ユートゥルナ。本来ならばひとつ下の学年に在籍するはずの年齢だが、本来受験すべき年齢より一年早くこの学園を受けて、学園始まって以来の好成績を叩きだした彼は、特例でこのクラスにいる。
(ガラス……)
初めて出会ったときから、ヴィオレッタの彼に対するイメージは変わっていない。玻璃のような、薄氷のような、澄んでいて、繊細な気を纏っている。彼は水の精霊に強く適合し、その力と深く干渉しあっているおかげで、他人の気を感じやすい。空気が読めすぎる、とでも言おうか。ヴィオレッタの先刻の痛みにも、もう気づいてしまっているのだろう。
「おはよう」
笑顔を作ったヴィオレッタに、ヴィリロスは眉を寄せた。
「……なにか、あったの?」
ああ、彼には隠せない。
観念し、ヴィオレッタは登校中に何があったかを簡潔に伝えた。ヴィリロスは、隣のクラスがなにやら騒がしかった理由をそれで悟る。
「ソール様が……そう……」
今までのヴィオレッタなら、ここできっと反省して「あんなことを言うべきではなかったわ」と言っただろう。これからはもう少しあの子に優しくしなくちゃ、と。――そうすることで、破滅を回避するのだから。けれど、今は……。
「まったく、ソール様ったらどうかしていますわ。わたくしという婚約者がありながら、庶民の娘の手を握ろうとするなんて! また、そのエステルという子も、高貴なソール様に触れようなんて!」
ヴィリロスまで敵に回す必要はないと言えば、ない。しかし、万一のことを考えた。他の攻略対象が、もしエステルを好きにならなかったら?
ヴィリロスも攻略難易度で言えば下の方だ。他人に共感しやすく、誰にでも優しい、人の痛みがよくわかるヴィリロスだからこそ、こうしてエステルに同情させる方向にもっていけばきっとエステルの助けになってくれる。そして、晴れてヴィオレッタは悪役令嬢の肩書を得ることが出来る。ソールと結ばれるために、ステータスを十分に上げておくことはもちろんだが、エステルが全攻略対象から嫌われていないことも重要なエンディング条件として挙げられる。
早い段階ですべての攻略対象男子の好感度をエステル側に振っておくこと――すべての男子の心を、エステルに傾けておくことも必要だろう。“すみれ”はそう考察した。
けれど、ヴィリロスはヴィオレッタを批難するような目はしなかった。
「……辛かったよね」
その言葉は、どこまで知っている言葉なのだろう。ヴィオレッタはハッとする。
「ヴィリロ……」
名を呼びかけたヴィオレッタを遮るようにヴィリロスは口を開く。
「君がそこまで言うってことは、相当傷ついたってことだよね。僕は、君のことを一年前からしか見てないけど、でも君が血筋についてそんな高慢なことを言うのは初めてだと思う。ほんとは庶民とかどうでもいいんでしょ?」
気遣うような声色ではあるが、えぐる様に指摘するヴィリロスにヴィオレッタは言葉を詰まらせた。そう、身分なんてどうだっていい。なんなら、ソールがエステルに触れたことだって、別に構わない。
“すみれ”としては。
心が引きちぎられるほどに悲しんだのは“ヴィオレッタ”の魂なのだから。
ややこしいものだ。すみれの記憶を持ったまま、ヴィオレッタの魂も持っている。理性では“すみれ”がエステル――恵子を幸せにしてやれと言っているのに、本能の方は“ヴィオレッタ”が泣いているのだ。
“すみれ”がこの体の中にいることまではわからないだろうが、相手の感情を深く読み取ることに長けているヴィリロスがヴィオレッタの叫びに気づいているのは不思議なことではなかった。
――彼は、騙しきれないかもしれない。
朝の教室の喧騒の中、ヴィオレッタはヴィリロスから視線を逸らせずにいた。根負けしたようにヴィリロスは小さくため息をつく。
「……ごめんね。隠そうとしていることなんだね」
そこまで、読み切っている。
ヴィオレッタは小さく首を横に振った。
「わたくしは、あなたが思っているほど善良な人間ではなくてよ」
「そう、……そういうことにしといてあげる」
ヴィリロスは淡く微笑むと自分の席に戻り、読みかけの本を開いた。
(……急に演じても、バレる人にはバレてしまう……)
ヴィオレッタは懸念が現実になりかけて、考え込む。
どうすれば、普通の「良い子」だったヴィオレッタがエステルにのみ意地悪な存在になれるのか。普通にいじめたり嫌がらせをするのでは、すぐに化けの皮が剥がれてしまう。もう、この作戦しかない。
――あなたのためなのよ!
そう、これだ。
適度な『あなたのため』ならば、それは相手の学びになる。優しく教え諭すというスタンスを崩さなかった場合は、それは感謝される要因になるはず。しかし、度を過ぎた『あなたのため』は、おせっかい以外の何物でもなくなる。
そして、そのおせっかいが更に度を越して、高圧的なものになれば? どれだけ相手の事を思っていたとしても、それはパワハラになるのだ。その構図を使えば、ヴィオレッタは一見エステルの事を思って指導をしているようにみえるが、実際は自己肯定感を満たすため、哀れな世間知らずの娘を厳しくしつけることで、上位の存在となろうとしているのだと思わせることが出来る。
(あれよ、仕事ができて皆に慕われていたはずのバリキャリが、何もできない新人の女子にイラついてイジメて、それで嫌われ者になっていくみたいな構図、前世ではよく見てきたじゃない……)
自分はされたことも、したこともなかったが、ドラマや漫画などではよく見る展開だった。大体ハラスメントを受ける女子の方も仕事のできない、男に媚びた性格の嫌な奴だったので自業自得だと思うこともあったが、今回は違う。エステルには非はないのだ。ただただ世間知らずなだけ。そんな彼女を、もっと学習なさいと高貴な身分のわたくしが窘めて差し上げる。これで行こう。
今朝咄嗟に思い付いた計画に、少しずつ肉付けしていこう。すみれはそう決意して、一時間目の授業の準備を始めた。




