第2話 王太子殿下(前)
「よろしくね、エステルさん」
無理矢理に作ったその笑みを嘲りに変え、
「――なんて、言うと思って? わたくしと握手を交わそうだなんて、厚顔無恥にもほどがありますわ」
ぱし、と音を立て、エステルの手を弾き振り払う。
「え……」
エステルの明るく朗らかだった表情が、呆然としたそれに変わった。
周囲の令嬢たちはくすくす笑っている。
「当然ですわ」
「田舎の庶民の子が、あのヴィオレッタ様のお手に触れようなんて」
「ご覧になって、あのお顔! 自分が何をしたのかわかっていないのですわ」
泣き出しそうな顔で、エステルは頭を下げる。
「申し訳ありませんでした、非礼をどうかお許しください……」
慌てて片膝を着き、頭を深く垂れて小さくなってしまっているエステル。
その背後に、ぼんやりと“恵子”の姿が浮かぶ。
ああ、いやだ、カーチャンのそんな悲しそうな姿を見たいわけではないのに。でも、でも今生でカーチャンに幸せになってもらうためにはこれしかないんだ。
すみれは心の奥で歯を食いしばる。だって、こうすれば……。
「何の騒ぎだい?」
凛とした声がエステルの後方から。
そこに佇んでいたのは、金の髪に抜けるような青空の瞳を持つグレンツェン国王太子殿下、ソール・フォン・グレンツェンであった。
「ソール様……」
周囲が騒めく。ある者はその甘やかな容姿にうっとりと見惚れ、ある者はその声をもっと聴きたいとばかりに耳をそばだて、ある者は吸い寄せられるようにふらふらとこちらへ歩み寄ってきている。
「おはよう、ヴィオレッタ」
「おはようございます、ソール様」
この学園において、美の頂点を極める男女が揃った。月のような玲瓏な美しさを湛える令嬢と、その婚約者である陽の光の化身の如きまばゆさを持つ王太子殿下。絵画のようなその瞬間に、生徒たちは感嘆のため息をついた。
「人だかりができているからどうしたのかと思ったのだけれど、どうしてこの子は泣きそうな顔をしているんだ?」
白い手袋をはめたままの手を、そっとエステルに差し伸べる。膝を着いていたエステルは、その手を取ることを躊躇した。先ほど、目上の者の手に軽々しく触れるものではないという趣旨のことをヴィオレッタに注意されたばかりだからだ。
婚約者を持つ高貴な身分の男性が、その婚約者の目の前で庶民の娘に手を伸べた。周囲は、エステルがどう出るかを見ている。
ソールは小首を傾げた。
「大丈夫か? 立てないのかい?」
エステルは首を横に振った。
「いえ、御手に触れるのは無礼なことと思いまして」
大丈夫です、一人で立てます、と言って、ゆっくりと立ち上がると、彼女は白いスカートにわずかについた土ぼこりを両手でそっと払った。
「こういう時は素直に手を取るものだよ、これは挨拶じゃなくて、私があなたを助け起こそうと思った“厚意”なのだから」
「あっ……」
厚意を無碍にしてしまったと気づいたエステルは、顔を真っ青にしてごめんなさい、とまた頭を下げる。
「ああ、いや、すまない、そんなに気にすると思わなかった。顔を上げて」
「殿下」
「ここでは同じ学生だ、ソールと呼んでくれて構わないよ」
周囲の生徒たちが騒めきだす。
あの王太子殿下がわざわざ足を止めて気遣い、名で呼ぶことを許可したあの娘はいったい何者なのか、と。
(いいえ……)
ヴィオレッタはそんな騒めきを冷ややかな視線で見つめていた。この娘が特別だから足を止めたのではない。名前を呼ぶことだって、皆に禁止しているわけではない。たまたま接する機会があったエステルに気軽に呼べとそう告げただけに過ぎない。誰が膝を着いていたとしても、ソールは手を差し伸べただろう。彼は、次期国王としての器が備わった人物だ。困っている者へ手を差し伸べるのは、当たり前のことだと心得ている。人だかりの中小さくなって震えている者がいれば、その人が男であろうと女であろうと、身分がどうであろうと、きっと手を差し伸べる。そういう人なのだ。
貴族社会の中、それを良く思わない派閥もいるが、グレンツェン王家の考えとしては、身分とは上の者が下の者へ権威を振りかざすのではなく、持てる者が持たざる者へ手を差し伸べ、助け合う社会を築くというものだった。それを体現しているのが、ソールなのである。




