第1話 差し伸べた手を(後)
破滅フラグのすべてを丁寧に潰すように生きてきた。
感情ではなく、理性で。人間関係も、言動も、全てシナリオに基づいて計算ずくで。
最低限の幸せを掴むため、穏便に過ごせれば、それでよかった。
――彼女が、この世界に現れるまでは。
ヴィオレッタの指先に、エステルの手がわずかに触れたその時に、見えてしまった。
彼女の前世の姿が。
恰幅の良い中年女性。
小さな町で商店を営む、素朴な“おばちゃん”が見えた。
その人は、ヴィオレッタの前世――霜野すみれの大切な家族だった。
たった一人の、母。
女手一つですみれを育て上げてくれた“霜野恵子”とは、彼女の事である。
世界がぐらりと揺らいだ。
何としてもバッドエンドを避けねばならないのに。
差し伸べた手を取ったエステルとそのまま握手をして、一緒に登校してあげよう。そう考えていたのに。エステルと友人になるルートへ入れば、王太子殿下はヴィオレッタの事を憎むこともないし、エステルへ心変わりすることもない。エステルも王太子殿下以外の誰かと結ばれるハッピーエンドにたどり着けるはず。そうやって無難に生きれば、と思っていた。けれど、でも――。
(……カーチャンの推し、王太子殿下だったじゃんよ……!!)
ヴィオレッタは、いや、“すみれ”は、心の中で頭を抱える。
ここは、乙女ゲームの中の世界。このゲームは、前世にて大学生の頃に母とキャッキャ言いながらプレイしたゲームだった。
よく覚えている。
「やっぱり正統派の王子さまっていいよねー」
閉店作業を終えて家に戻ってきた母とのリラックスタイムは、酒を呑みながらテレビのモニターにつなげた乙女ゲームを一緒にプレイするのがお決まりになっていた。
「要求パラメータ結構高いのはやっぱり王太子殿下だからなんだろうな~」
勉強コマンドや交流コマンド、お休みコマンドなど、様々なコマンドを選択しながらパラメータを上げていく。すべてのパラメータをまんべんなく上げて、そのうえで会話の選択肢で地雷を踏まないようにしていくこと。それが王太子殿下を攻略する条件だった。
――テレビの画面には、金髪碧眼の正統派イケメンが映し出されていた。
すみれが、この『Elementum』の世界に転生したと気づいたのは、親がその名をつけて呼んだ時だった。ヴィオレッタという名、ヴィルグラスという家名、そして、エレメントゥムという役職、四大精霊への祈り。すべて、彼女の頭の中で繋がった。
というのも、ヴィオレッタは前世の記憶をすべて保ったままこの世界に生れ落ちてしまったのだ。
ゲームの設定と同じく、数えで5歳になる年から、ヴィオレッタはプリムス・エレメントゥムに選ばれるために厳しい指導の下、祈りの鍛錬を行うこととなった。
この世界での母に「あなたは未来のプリムスよ」と言われたときに確信したのである。
ああ、これは間違いなく『Elementum』の世界なのだ。
そして、私は紛れもなく――悪役令嬢『ヴィオレッタ・ド・ヴィルグラス』なのだ、と。
ゲーム内のヴィオレッタはプリムスになることへの重圧からストレスを溜め、のびのびと自由に生きているエステルを羨み、世間知らずの田舎娘にイラつき、小さな嫌がらせをするようになっていく。
問題はここからだ。エステルが王太子殿下と親密度を上げていくと、婚約者がいる男性にすり寄る女狐と罵りながら嫌がらせをエスカレートさせて、取り巻きも使ってエステルを追い込んでいくことになる。
そのルートに入ることが、エステルという『主人公』にとっての最上エンディングルート、王太子殿下との婚約エンドへの条件であり、――すなわちヴィオレッタの破滅ルートへの確約であった。
前世においては早くに夫を亡くし、幼いすみれを抱えたまま、商店街の人々と助け合いながら商店を切り盛りして必死に生き抜いた“霜野恵子”には、幸せになってほしい、と思った。大した親孝行もできないまま看取り、それから数十年、自分もすみれとしての人生の幕を下ろしてここにいる。
彼女を、“恵子”を、エステルを幸せにするためには……。
ヴィオレッタ――すみれは、ひとつの決断をした。




