第15話 初めての乗馬(後)
(まずは名前を呼んで近づく……テキストはきちんと読んできたみたいね)
エステルがマローネの名を呼びながら馬の左肩を擦っている。ここまでは上出来だ。
「えっと……」
エステルが伸ばしたのは右手だった。右手で、馬のたてがみを握ろうとしたのだ。
「違いますわ」
ぴしゃりと短く指摘し、ヴィオレッタはエステルを押しのける。
「あっ……ごめんなさい……」
左側から馬に乗る場合、手綱とたてがみは左手で掴んで身体を馬上へ引き上げる。
「右手はこちら。前橋の方よ」
「ぜん、きょう」
「鞍の前の方。見ていらして」
ヴィオレッタは左足を鐙にかけると、つま先が馬の腹に当たらないように進行方向へ捻じる。それから、勢いよく地を蹴った。飛び乗りにも慣れているヴィオレッタは、本来ならここまで丁寧にやらなくてもいい。けれど、今はエステルに手本を見せるため、と少し丁寧にやって見せた。
左手に持った手綱を両手に握り直すと、そのまま馬の腹を軽く蹴る。栗毛の馬は、軽やかに前方へ進みだした。やや歩いたところで、左手綱をわずかに横へ開き、右手綱を持った手を軽く首に添えると、左脚でそっと馬体を内側へ押す。すると、マローネはヴィオレッタが身体を傾けた左に緩やかに旋回し、エステルたちの元へと戻ってきた。
乗ったときと同じように、軽い動作でマローネからひらりと降りると、踏み台もない場所に軽々と着地して見せる。
そんな麗しの令嬢を尊敬のまなざしで見ているエステルに、ヴィオレッタは苦笑した。
「次はあなたの番よ。手伝って差し上げるわ」
そう言うと、躊躇もなく立膝の姿勢を取り、白い乗馬パンツの太ももをエステルの前に差し出したのだ。
「え?」
「どうぞ。この学園では乗馬の際に補助の台はありませんの。子供じゃありませんし。ですから、素人のあなたにはこれくらいして差し上げないと無理と判断しましたの」
「ええ!?」
周囲も騒めく。
公爵令嬢の膝を借りて? 馬に? なんて不遜なことだ。まだ馬に乗る手番が来ていないヴィオレッタの取り巻きは、それを見てハンカチを噛んでいる。
(試されて、いるの?)
昨日のことがある。
握手を求められたと思って手を取ろうとして、礼儀知らずであることを咎められた。同じ轍を踏むわけにはいかない。エステルは戸惑いの表情のまま、固まってしまった。
「あなたが不安がっていては馬も不安になるわ」
「でも、ヴィオレッタ様の」
「これは指導ですのよ。このわたくしが直々に、あなたに乗馬を教えて差し上げるの。断る方が無礼だわ」
がし、とエステルの右足を掴むと、自分の太ももの上に強引に乗せる。バランスを崩しかけて間抜けな声をあげたエステルの右手を、サッと取ってやった。
「肩も使って良いわ。右手は……そう、前橋にかける前は私の肩でバランスを取って」
「は、はい……」
周囲から悲鳴が上がる。
あのヴィオレッタ様になんてことをさせてるの!! と叫ぶ声。
「ヴィオレッタ本人が良いっていってんだからほっとけよ。ばかじゃねーの」
ぼそ、と呟いたゼフィアの声が、やけによく通ってしまった。
「……ゼフィア」
諫めるようにアグニが肩を叩く。
遠くで、ヴィリロスがその様子を心配そうに見守っていた。テリオンはというと、エステルが落馬して怪我でもしないかと気が気でないらしい。乗馬の担当教諭はというと、ヴィオレッタの指導に信頼を置いているようで、一度ヴィオレッタと視線をかわすと深く頷くだけだった。
エステルの足が震えている。左手で掴んだ手綱、次はたてがみを掴んで、前橋へ。手順を理解はしているが、身体をどう動かせばいいか緊張からよくわからなくなってしまっている。
「落ち着いて。まずはわたくしの太ももを強く蹴る」
「け、蹴る!!」
「蹴らないと反動がつかないでしょう!?」
できません、と言おうとしたエステルを怒鳴りつける。正論である。しかし、語気が強いので周りは“ヴィオレッタがエステルを怒鳴りつけた”という情報として認識するだろう。
(いいわ、このくらいの塩梅ね……)
心の中でそう確信し、ヴィオレッタはエステルに「はやく」と苛立ちを込めた声で言った。
「は、はい」
「よろしくて? 思いきり蹴って……そう! まずはお腹を乗せられたらそれでいいわ!」
ぐっとヴィオレッタの太ももを踏み込んで左足はなんとか鐙へ、右足はぷるぷるしながら馬の右半身にギリギリ乗る形に、腹で馬の背に乗るという不格好な形になった。
「たてがみはもう離して、手は鞍の前の方へ。……失礼、お尻を少し補助するわよ」
言いながら、エステルの臀部、太もものあたりをぐっと押し上げ、鞍の上に乗せる。
「すすすすすみません」
「いいから。ほら、身体を起こしてごらんなさい」
あまりにも間抜けな姿に、こらえきれずヴィオレッタはくす、と笑う。なんとか身体を起こしたエステルは、わぁ、と感嘆のため息を漏らした。
「いかが? 初めての馬上は」
「すごい、こんなに視線が高くなるんですね……」
マローネの呼吸の動きに合わせて、少し揺れる。慣れない者が背に乗っている違和感から、マローネは、ふるる、と首を振った。
「わ、と」
「大丈夫よ、知らない人が乗っているから少し落ち着かないだけ。マローネは賢い馬だからあなたを振り落としたりしないわ」
そう言って、ヴィオレッタは前世で起こした事件の引き金を思い起こす。
おとなしく賢いマローネからエステルが転げ落ちたのは何故か。
それは、前進する場合は“強く”腹を蹴るといい、とヴィオレッタがエステルに嘘を教えたからだ。
普通に考えて強く蹴られた馬は勢いよく前進してしまうとわかるはずだが、エステルはそんなこと知らない。軽く蹴っても、馬は身体が大きいから気づかない、なんて耳元で囁かれたら、信じてしまうような子だ。
それで、ヴィオレッタの言葉を真に受けて、慣れてもいないマローネの腹部を両足でバンと蹴ってしまったために、興奮したマローネに振り落とされる羽目になったのだ。




