第14話 誰がための指導
『アポロ』の教室に入ると、ゼフィアは大きくため息をついた。
「どしたのゼフィアため息なんてついて~」
アグニの大きな手がゼフィアの背をぱし、と軽くたたく。
「朝っぱらからぎゃあぎゃあうるさいのに絡まれて疲れたの」
「ぎゃあぎゃあ?」
「隣のクラスのエレナ」
「あー、ヴィオレッタの友達だ」
友達、ねえ? とゼフィアは鼻で笑う。
「どっちかっていうと、信者?」
ぶ、とアグニは吹き出す。
「まあ、確かにあの盲目さはちょっと怖いまであるよな」
その時、教室の扉をがらりと開けてエステルが入ってきた。
「おはようございます」
ドアの前で軽く一礼。その所作は堂々としたもので、昨日とは違っていた。背筋がピンと伸びているおかげで、様になっている。
「エステル! おはよー!」
アグニがひらりと手を振った。他の生徒たちも口々にエステルにおはよう、とか、わからないことはない? とか、慣れるまで大変だよね、とか声をかけている。
「へー、昨日のおどおどした感じと違うね」
エステルを見るゼフィアの瞳が、好奇心に開く。
「確かに。おどおどしてたかっていわれると俺はわかんないけど、なんか今日は自信が身についた? みたいな感じあるよね」
クラスメイトと軽い挨拶を交わしながら席に向かってきたエステルは、アグニに笑いかける。
「おはようございます、アグニ様!」
「おはよ。ね、様つけやめない? 同い年だしさ、隣の席だしなんかむずがゆいよ」
「だね。こいつはアグニでいーよ」
ゼフィアがいたずらっぽく笑うと、エステルは狼狽える。
「えっ、え、でも、あの、アグニ様は王子様で……すよね?」
焦りが出て先ほどまでの淑女然とした態度は何処かに吹っ飛んでしまっている。ゼフィアはけらけらと笑い出した。
「教室入ってきたときの雰囲気と違いすぎ、あんた、面白いね」
「へ? あ、ああっ、あの、あれはヴィオレッタ様に教わったんです」
「へえ?」
ゼフィアは形のいい片眉を吊り上げる。前下がりのボブヘアがさらりと揺れた。机に片手をつくと、席に着こうとしていたエステルに顔を近づけた。
「あのヴィオレッタが?」
きょとん、とした顔でエステルは頷く。
「はい、ヴィオレッタ様、私があまりにも無礼で不甲斐ないのでご気分を害されてしまって、それで……あなたの振舞いは田舎臭くてみっともないって仰ったので」
「うん」
ゼフィアはエステルの話を聞いて、おかしいなと思った。
今まで――エステルが来る前、おとといまでのヴィオレッタなら、そんなことは言わなかっただろう。他人の振舞いに対してみっともないだの不愉快だの、そんなことを言うような人ではなかった。それが、急に人の行動に対してああだこうだ口出しをするような人格に変わっている。
――そう、まるで、人が変わってしまったかのようだ。
「えっ、そんな酷いこと言ったのヴィオレッタ」
アグニは驚いて目を丸くした。
昨日の朝も変な雰囲気だったけど……と、ようやく昨日の朝礼前からヴィオレッタのエステルいびりと思しき兆候が見られたことに気づいたらしい。人の悪意に鈍感なアグニらしいな、とゼフィアは心の中で笑った。そういうところが嫌いでないから、友人でいるのだけれど。
「酷いこと言われて、それで? あんたは?」
「ひどいこと……?」
「田舎臭いだのみっともないだのさ」
「うーん、でも事実ですしね」
腕を組み、エステルは何か納得した様子で目を閉じる。
えー、とアグニは口を尖らせた。
「でも普通に田舎臭いは暴言だって!」
「そっか……あれ暴言だったんだ」
田舎出身ということが洗練されていなくて悪いことという概念がそもそもないので、エステルはヴィオレッタが言った事が嫌味という感覚もどうやら希薄だったらしい。それよりも、ゼフィアの「それで、あんたは」という質問に答えようと視線を斜め上に遣る。
「……暴言、かもしれないけど、ヴィオレッタ様は何も知らない私のために、いろいろ教えてくださったんです。さっき、入室時の姿勢をお褒め頂いたでしょ? それも、今朝ヴィオレッタ様が教えてくださったの」
――あなたのそのおどおどした視線、不愉快ですわ。もっと堂々と背筋を伸ばして、人の目をしっかりと見てご挨拶なさい。手は胸、ドレスの際は軽く裾をつまむこと。こんなこともご存じない子と学友とされるなんて、恥ずかしいわ。
明らかに棘のある言葉だった。けれど、エステルはヴィオレッタのお局ムーブを“親切に指導してくれているお姉さま”と捉えているのだろう。ヴィオレッタにそう言われた瞬間に、しゃんと背筋を伸ばして形だけでもきれいに見えるように、と早速己の態度を改めたというわけだ。
ヴィオレッタに言われたことを口には出さなかったが、なんとなく察したゼフィアは、ふうんと鼻を鳴らした。
「……教えたっていうか、それ、どっちかっていうといびられたんじゃない?」
エステルは、椅子をひいて腰かけると、首を傾げる。
「まあ……私の態度がこの学園に通う生徒として相応しくないものだったのは事実ですし、それで実際に不愉快な思いをさせてしまっていたなら私も悪いと思うんですよね」
アグニは言葉を失う。
「ね、ねえ、それってモラハラに引っかかるタイプだよ!」
エステルは前世――“霜野恵子”としての人生において、ただの一度もモラハラを受けたことは無かった。気が優しい男と結婚し、一女をもうけ、その五年後に夫を亡くした。その後は現実世界においての恋愛にかまける暇などなく、女手一つで娘を育てるのに必死だった恵子は、幸か不幸かそういった類の人間に出会わずに生きてきたのだ。周囲のほとんどが善意で動いているようなコミュニティで生きていたがために、嫌味を言うだとか、他人を自分の思い通りに動かそうと考えるような人を知らない。
……まあ、現在のエステルに前世の記憶が残っているのかといわれるとそれは不明だが、そういった理由から、仮に前世の経験が今生に生きていたとて、モラハラを見抜く能力は皆無に等しいと言えよう。今生における“エステル”自身も、のどかな郊外の村で育った娘であり、都会の娘たちのように政略結婚がどうだの、派閥がどうだのということに巻き込まれず生きてきた。それゆえ、人の悪意に鈍感なのかもしれない。
他人の害意にほとんど触れずに来た温室育ちの娘が、生き馬の目を抜くような貴族社会に放り込まれてうまく生きていくことは出来るんだろうか。
「もら……?」
「ヴィオレッタは何て言ったのかはわからないけど……同等の立場の同級生にそうやって指図するのはあんまり良いこととは言えないんじゃない?」
エステルは考え込んでしまう。
「……私が恥をかかないようにって、お時間を割いてくれたんだと思ってました」
ゼフィアはくすくすと笑いだす。
「ゼフィア、なんで笑って……」
アグニに諫められ、ゼフィアは軽く左手を上げて謝罪する。
「あ、ああ、ごめんごめん、これ天然なの?」
「?」
「こりゃ傑作だ。まあ、俺からも忠告しておくよ。ヴィオレッタは多分100%善意で動いてるわけじゃないと思うよ。あんたを思って、かどうかはよく考えた方が良いね」
含みのある言い方をしたゼフィアに、アグニは頷いた。
しかし、その直後にゼフィアは付け足す。
「……まあ、でも、あんたが思ってる“親切なヴィオレッタ様”は、存在はしたよ。少なくとも、あんたが来る前までは」
そう言って笑ったゼフィアの顔を、エステルはどういうこと? と聞くのを飲み込んで見つめた。その時、予鈴の鐘が鳴る。
それじゃね、と手をひらりとやって、ゼフィアは前方の自分の席へ戻っていった。




