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第11話 静謐の紫石英

 その日の祈りの儀はそこでお開きとなった。受講生は二人きり、次のルネスの曜日には、一年分の遅れを補うためにもほぼ毎日祈りの儀に参加しなければならないエステル、もう一人の水のプリムス候補生であるヴィリロスが参加する運びになっている。


(来週は接触のチャンスはない、となると……)


 寮へ向かう道すがら、考え事をしながら歩いているヴィオレッタは、誰かにぶつかってしまった。


「きゃっ」

「……すまない」

「申し訳ございません、少し考え事をしておりまし、て……」


 ぶつかったのは、男性の肩のあたりだった。顔を上げると、そこにはアメシストの瞳。真っ白な肌に、長いまつ毛の影が落ちている。伏し目がちにヴィオレッタを見下ろすその瞳と目が合い、咄嗟に逸らした。

 ネレウス・ヴィーゲンリート。ソールと同じ、三年生だ。高い背に、つり目がちの瞳、薄い唇に、下がった口角。艶のある黒髪は、トップとサイドは顎のライン当たりの長さに整えられており、そこから伸びる襟足は肩甲骨まで緩やかに流れている。口数が少ないために誤解されがちだが、不機嫌なわけではない。表情に乏しい、それだけのことだった。

 ヴィオレッタ――すみれは、前世で彼のルートを攻略したことがあるためよく知っている。彼は、周囲が思っているほど冷たい人間ではない。ただ、少し不器用なだけなのである。


「ヴィルグラス嬢、怪我は?」


 そっと差し伸べられた手。軽くぶつかっただけなので、転んだり足を捻ったりはしていない。ヴィオレッタの顔色が悪いのを察してくれたのだろう。

 本来なら、これはエステルに起こるイベントだ。

 それも、こんなに早い段階ではない。

 毎日の祈りの儀に疲れてふらふらしながら寮へ帰る途中、エステルの方はネレウスにぶつかった際にしりもちをついてしまう。それを、助け起こすために手を貸してやる、という……。


(ああ、あのスチルのままだわ……)


 前世、ゲームの画面で見た大写しの美しいネレウスの顔。何を隠そう、すみれの推しはこっちだ。

 彼もまた、水と地、二つの精霊と適合するため、その年度のプリムス候補として大きな期待を寄せられた人物の一人だ。放課後の強化トレーニングが始まった二年次に、その強い祈りの力で精霊と干渉しすぎた結果、休学。そのため、彼は三年生ではあるが同学年の者たちよりも一つ年上の19歳である。

 休学の影響で一年遅れをとり、周りからは一つ年上のなんだかすごい力を持っているお兄さん扱いされてしまうので、うまくクラスに馴染めていない気の毒な境遇の男だ。

 不器用で優しいから、クラスにぐいぐい入っていくことはしない。周囲も、年上である彼に気を使ってなんとなく話しかけられずにいる、そんな感じだった。

 互いが優しさゆえに距離を詰められない、そんな状況を、前世において“すみれ”はもどかしく見守っていたものだ。

 ……だからこそ、主人公であるエステルが彼に歩み寄り、優しく包みこむことで親しくなっていき、エンディングを迎えるのは自然で、そして感動的な要素が多かった。もっとも美しいルートは、このネレウスルートであると“すみれ”は思っていた。


「……ヴィルグラス嬢?」

「あ……だ、大丈夫ですわ」


 頬に熱が集まるのがわかる。無理もない。前世の推しの美しいかんばせが、目の前にあるのだ。ヴィオレッタの無事を確認すると、ネレウスは淡く微笑む。


「そうか、よかった」


 ひゅっと息を飲んだ。彼の笑う顔を見たのは、幼少期以来だ。

 というのも、実はヴィオレッタとネレウスは幼いころに一度会っているという裏設定があった。

 本編内で描かれることは無かったが、ヴィルグラス家の保養地とヴィーゲンリート家の保養地が隣り合っていたため、ヴィオレッタが10歳の頃の夏休みに一度だけ、馬で遠乗りに行った際に牧草地で出会っていた。当然、ヴィオレッタとして生きてきた“すみれ”は、前世で見ることのなかったそのシーンを実際に経験している。

 まだ少年だったネレウスが屈託のない笑顔で笑っていたころを、知っているのである。

 あのころのような笑顔ではないにせよ、優しい微笑み。


(学園内で、こんなに早く彼の微笑みが見られるなんて、どういう……)


 ああ、これもヴィオレッタとして生まれたおかげか?

 エステル視点ではこのイベントを見ることは無かったが、ヴィオレッタならば彼のこの微笑みに4月の時点で触れることが出来ていたのか? 知る由もない。前世では、その視点はなかったのだから。


「……ヴィオレッタ」

 切なげに掠れた声で、ネレウスはそう呼びかけた。

「えっ」

 間抜けな声を上げ、ヴィオレッタは目を見開く。

 家名ではなく、名を? どうして?

 その呼び方は、あの夏限りではなかったの。


「と、呼んではいけなかったか?」


 きょとん、とした顔でネレウスはそう言う。


「い、いけないということはありませんけれど、どうして」

「……なぜだろう、あなたの元気がなかったから……あの頃の表情が見られたら、と」


 優しく揺らぐ声。

 ――ヴィオレッタの変化に気づいていた。今日、顔を合わせるのは今が初めてなのに。


 水の精霊と適合する者は、ヴィリロスもそうだが、稀に他人の心に深く潜ることが出来る者がいる。ヴィオレッタにはその能力は発現しなかったが、それは生きる上ではどちらかといえば幸いなことである。自力でその能力をコントロールできれば問題ないが、無意識にその能力を発動させ続けると、身体にも精神にも多大な負担がかかる。

 ネレウスが一年休学してしまった理由はそこだ。

 水の精霊による、心に潜り込む力、そして、地の精霊の能力がそこに更に干渉した結果、深く深く相手の心に潜りこめる能力に変容してしまい、傷ついたものを癒す力を得たといえば聞こえはいいが、その癒しの代償として己の精神力を大きく削ることになってしまったのだ。

 ヴィリロスが体調を崩しやすいのも似た理由で、彼も水の精霊との適合力がかなり高いため、人の心に潜るまではいかないにせよ、敏感に感じ取ることが出来る。

 ネレウスは今ではコントロールできるようになっているが、ヴィリロスの場合はまだ未熟なせいもあって無意識のうちに人の痛みを感じ取って疲れてしまうという症状がしばしば出る。それを克服するためにも、現在強化レッスンで調整しているといった具合だ。


「どう、して」


 わかっている。ネレウスがこちらの感情、動揺に気づいている理由なんて、前世の“すみれ”がよく知っている。ヴィオレッタが特別な存在だからとか、そういうわけではない。

 ただ、彼は触れた相手の心を感じ取ってしまうだけだ。先刻ぶつかったときに、ヴィオレッタがぐるぐると思い悩んで上の空になっていたのだということを、理解しただけなのだ。

 彼には、特別な感情なんて――。


「……俺は、……」

 言いかけて、ネレウスは口を噤んだ。そして、困ったように笑うと小さく首を横に振った。

「……いや、なんでもない」


(なにがなんでもないのー!? 気になる……)


 心の中の本性はそう叫ぶが、そのように振舞うのは淑女として正しい行為ではない。深追いして追求するような真似は、冷徹な“悪役令嬢ヴィオレッタ”像としてふさわしくないのだ。


 めちゃくちゃ気になるけど。


「もし、何か困っていることがあればいつでも言ってほしい。できる範囲で力になりたい」

 まっすぐにヴィオレッタの瞳を見つめて、ネレウスはそう言った。突然の優しい申し出にヴィオレッタは目を点にしてしまう。


(いや、いや……ちょっとまって、確かにずっとこっそり隠れて見てたけど、去年の暮れとか、復学したときにちょっとだけお話とかもしたけど、それで好感度上がるなんてことある……?)


 冷や汗が背を伝う。

 エステル――もとい、カーチャンが転入してくるまでの間、一体どんな風に振舞っていたっけか。ソールに婚約破棄されては困るので、他の男子に気に入られるために特別何かをするとか、そういう浮ついたことはしてこなかったつもりだ。もちろん、前世における推しであるネレウスについても、彼に気に入られるために接触するということは避けていたはずなのだが……。

 突き放すべきか? テリオンに言ったのと同じように「あなたに案じてもらう筋合いなどない」と。


「あ。あ……」


 言葉を、紡げない。

 テリオンは同学年だから言えたのだろうか。

 ネレウスが、推しだから言えないのだろうか。

 わからない。けれど、この“ヴィオレッタ”には冷たい言葉を吐くことが出来なかった。


「ありがとう存じます」


 思い描いた最低で傲慢な冷たい言葉は消え、素直な感情が転がり出てしまった。バッと口元を抑え、泣きそうな顔で目を逸らす。


「……」

 ネレウスは、まだ優しい表情のままヴィオレッタを見つめていた。そして、このままではヴィオレッタを追い詰めてしまうとでも感じたのだろうか、小さく頷くと踵を返す。


「あなたは、()()()()()()()()()()から何も変わらない」


 去り際、ぽつりと言い残して。


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