第9話 水鏡、二つの影
鈴の音は、精霊との交信がうまくいっていることの表れである。
(このまま……この調子で……)
両の手を祈りの形に組み、水鏡と照明に照らされた水の精霊の像の前で頭を垂れる。
「クレメンテくん、水鏡が淡く光りを帯びているのが見えるかね」
「はい、先生」
瞳を閉じ、二人の会話を背後に聞く。
「今、ヴィルグラスくんは水の精霊に祈りを捧げておる。この水鏡の美しいきらめきは、その祈りが届いたことを示している」
「はい……」
風もないのに揺らめく水面、柔らかな水音。それは、水の精霊のささやきである。それに耳を傾けながら、ヴィオレッタは祈る。
(今日も、この世界に水の加護をお与えください。人々の上に、癒しを)
水の大精霊ウンディーネを模した白亜の像が、柔らかな光を帯びる。それが、祈りを聞き届けたという合図。ヴィオレッタは胸がふわりとあたたかくなるのを感じると、そっと目を開いた。
――ヴィオレッタ。
エルネストでも、エステルでもない声がする。
低く、落ち着いた優しい女性の声。
「え……」
「どうかしたのですか、ヴィオレッタ様」
突然顔を上げたヴィオレッタに、エステルは小首を傾げる。
――私の声が、届いていますか。
声は、その像から響いていた。
二人には、聞こえていないようだ。ヴィオレッタは瞬きを二つ。そして、静かに息を吐くと、まずは膝を着いて最敬礼の姿勢をとり、頷いて耳を傾ける。
――我が名はウンディーネ。やっと声が届きましたね。
……知らない、こんなシーンはゲームの中にはなかった。
ヴィオレッタは動揺を必死に隠す。声は、更に続けた。
――恐れることはありません。ヴィオレッタ、私はずっとあなたとの対話を望んでいた。心優しい、あなたとの。
答えなければ。けれど、わたくしにだけ聞こえているならば……。
ヴィオレッタは心の中でウンディーネとの会話を試みる。
(ウンディーネ様、もったいないお言葉でございます。大精霊たるあなた様と対話できることは、恐悦至極にございます。けれど、わたくしはウンディーネ様にそのように評されるような者ではございません)
目を閉じ、ウンディーネへと思いを届けるために心の中でそう告げる。
その様子を、エルネストは何か神聖なことが起きていると気づき、静かに見守っていた。何かを言いかけたエステルの肩を優しくたたき、制止する。
――いいえ、わたくしにはわかります。ヴィオレッタ、あなたの心は深く傷つき、そして悩み……そして、愛に溢れている。
ひゅっと息を飲んだ。
悪役令嬢として振舞おうとしていたことを見抜かれている。大精霊を欺けるはずなどない。
とんでもない失礼を働こうとしていたのだ。
――あなたが何に傷つき、そして悩み、誰への愛を貫こうとしているのかまではわたくしにもわかりません。けれど、あなたが心優しい娘であり、真摯にこの世界の平和を祈り、向き合う、愛に溢れた子であることは……よく存じ上げております。
半年前から、ここ“水の間”で精霊に祈りを捧げてきた。大精霊ウンディーネに仕える水の精霊たちは、あるものは丸い泡の形、あるものはちいさな魚の形をとったきらきら透き通る水であった。それらが、ウンディーネに伝えていたのだろう。祈り手であるヴィオレッタは、水の精霊と心を通わすにふさわしい澄んだ心の持ち主である、と。
(本来のヴィオレッタも……そうだったのかしら)
それは、エステル視点でゲームを進めているときにはわからなかったことだ。ヴィオレッタは一人思考を巡らせながらウンディーネに次に伝える言葉を探す。
――……エステルの、視点?
心の声は、ウンディーネにすべて漏れてしまうようだ。ヴィオレッタは観念する。
(申し訳ございません。わたくしはヴィオレッタであり、しかしヴィオレッタではないのです。他の世界より転生しました“すみれ”という庶民の娘です)
どうか、他の二人には伝わらないで。そう願いながら、けれど嘘をつけない大いなる相手には正直に告白する。
――勇気のいる告白でしたね、すみれ。……いいえ、ヴィオレッタ。あなたは第二の生を歩み、たしかにヴィオレッタとして今、生きている。
その声に、ハッとした。
そう、今は“すみれ”としての記憶以外、ヴィオレッタをすみれと呼ぶ要素は一つもない。公爵家に生まれ、今生には“恵子”ではない母がいる。アドリエーヌ・ド・ヴィルグラス。ヴィオレッタと名を呼ばれ、エレメントゥムの存在を教えてもらった幼少の頃にこの世界が乙女ゲーム『Elementum』の世界と気づいた。
ヴィオレッタとしての生を生きねばならぬと自覚したときから、どこか俯瞰で物事をみる癖があった気がする。けれど、ウンディーネに諭されてようやくわかった。
今の私は、紛れもなく“ヴィオレッタ・ド・ヴィルグラス”なのだ。
すみれの記憶を持っていようとも、この世界に生を受け、両親から惜しみない愛を注いでもらい、公爵家令嬢として恥ずかしくない立ち居振る舞いを身に着け、未来の夫であるソール殿下を支えるために、王妃教育にも身を置いてきた。
前世の記憶を宿しているとはいえ、この身体も、魂も――今は“ヴィオレッタ”だ。
ぼろ、と大粒の涙がこぼれた。
すみれなのか、ヴィオレッタなのか。引っかかっていたものが音を立てて崩れ、視界が開ける。
(私は、すみれであり……ヴィオレッタだ……)
どちらでもないのではない。どちらでも『ある』のだ、と気づく。
あの時、ソールがエステルに触れた時に感じた、張り裂けるような胸の痛みがそれに確証を与える。
――これ以上はあなたの心の負担になりましょう、またの対話を心待ちにしておりますよ、ヴィオレッタ。
「ヴィオレッタ様!」
涙を拭うことも忘れて像を見上げていたヴィオレッタの様子を案じ、エステルが駆け寄ってくる。
「クレメンテくん!」
精霊との対話の最中だ、と制止しようとしたエルネストに、ヴィオレッタは苦笑した。
「失礼、感極まってしまいまして」
「何があったのですか?」
エステルの問いに、淡く微笑んで簡潔に答える。
「水の大精霊、ウンディーネ様のお声を拝聴いたしました」
エルネストは驚きに目を見開く。
「なんと……二年次春にして、もはやウンディーネ様との交信に成功したというのか。年若くして大精霊に認められるとは……さすがはヴィルグラスくんだ」
その言葉に、エステルも驚き、そして喜ぶ。
「すごい……! 大精霊様のお声を!?」
「そう、これは特別なこと。あまり口外しないでちょうだいね。……あなたも精進なさいませ」
そう言って、エステルにも祈りの儀の手順を教えてやる。
ウンディーネの像の前に跪き、両手を合わせて精霊に語り掛けるのだ、と。




