第8話 祈りの儀式ー水の間ー
――水の間。
『Elementum』をプレイしていた時には、ヴィオレッタとしてではなくエステルとして何度も訪れた場所。昨年度は、秋ごろから一人でレッスンに通った場所。今は、隣にエステルーー正規ヒロインがいる。
おろおろと視線をさ迷わせるエステルを導くのが、ここでのヴィオレッタの役目だ。
「あなた、何もご存じないの?」
侮蔑を孕んだ言い方でそう言って、けれど世話を焼いてやる。それがヴィオレッタ。今日はレッスンにエルネスト先生も同席してくれる。ヴィオレッタのこのセリフの後に――。
「すまない、待たせてしまったかね」
水の間の白い扉が開き、エルネストが入室する。
シナリオ通りだ。ヴィオレッタは、すっと姿勢を正すと、胸に手をあてて一礼し、優等生の笑みを作った。
「先生、お待ちしておりました。早速祈りの儀を始めましょう」
「ああ。ヴィルグラスくん、今日はクレメンテくんもいるからね、初めての祈りの儀だ、いろいろ解説をせねばならん」
付き合ってくれるかね。
そういったエルネストに、ヴィオレッタは静かに頷く。
「もちろんですわ」
「ありがとうございます!」
エステルは屈託のない笑みでヴィオレッタとエルネストに礼を言う。無垢な表情に、また胸の奥が締め付けられた。
(やめてよ、その顔……)
いじめられないじゃない。
ヴィオレッタの中で“すみれ”が戸惑う。
こんなに明るくて可愛らしくて人懐っこい子ならば、このまま友達になりたい。
なんなら頭をぐりぐりと撫で繰りまわしてしまいたい。
同い年のはずなのに、なんだか放っておけない妹感があるのだ。
(逆に、原作のヴィオレッタはこの子を前にしてなんであんな冷たい態度をとれたの?)
そう思いかけて、ヴィオレッタ否“すみれ”は、こめかみのあたりに激痛を覚えた。
――許せない理由があるからよ。
自分の身体の内側から“ヴィオレッタ”の声が響く。
ずきん、ずきん、と頭が割れるように痛い。
「……ッ」
小さく呻いたヴィオレッタに気づいて、祭壇へ先へ向かっていた二人が振り向いた。
「ヴィオレッタ様?」
「ヴィルグラスくん、顔色が悪い……大丈夫かね」
言われて初めて気づく。汗が酷い。足を引きずりながら辿りついた祭壇の水鏡に映る自分の顔に、ぞっとした。
(鬼だ……)
悲しみと憎悪に歪む顔。
これは、本来のヴィオレッタの苦しみを映し出している。
水の精霊は人の心に深く潜り、その人の心を映し出す。その水鏡も、同様だ。
ヴィオレッタの中で“すみれ”は呟く。
(大丈夫よ、これからは本来のあなたに戻る。あなたは、シナリオ通りの令嬢になれるから……)
宥めるように言うと、水鏡の中のヴィオレッタは少し悲しげな顔になった。
それは、すみれの意思か、それとも“ヴィオレッタ”の魂か。
すみれは己がヴィオレッタの魂に語り掛けた言葉が適切ではないことに気づく。
(……そうか、シナリオ通りの“ヴィオレッタ”ならば、婚約者であるソールとは幸せになれない。正規のシナリオ通りでも、私が描いたシナリオに従っても、ヴィオレッタは彼女自身が初めに願った幸福を手に入れることは出来ない)
わずかな時間にたくさんの思いが巡る。
「……くん、ヴィルグラスくん」
背を優しく擦るエルネストの手に気づき、ヴィオレッタはハッと顔を上げた。
「申し訳ございません、わたくし……」
「どうかしたのかね、水の精霊と深く干渉しすぎてしまったか……」
心配そうに瞳をのぞき込んでくるエルネストの、皺が深く刻まれた目元、その灰青の瞳に映るヴィオレッタは、もう恐ろしい顔はしていなかった。泣きそうな子供のような顔をしている。こんなではいけない、ヴィオレッタは慌ててその顔に微笑みを張りつけた。
「大丈夫ですわ、すこし眩暈がして……ここ数日よく眠れなくて、それが祟ったのでしょう。ご心配おかけして、申し訳ありませんでした」
さあ、祈りの儀を始めましょう、と背筋を伸ばす。
「くれぐれも無理はしないことだよ。また具合が悪くなったらすぐに言いなさい」
「はい」
「ヴィオレッタ様」
どうかご無理はなさらないで、と見上げてきたエステルに、笑顔で返す。
先生の手前なので、ここでは無下に扱うことはしない。この二面性も嫌われるためのキーポイントになり得る。
「心配には及ばないわ、エステルさん。初めて祈りの儀に臨むあなたのサポートをさせて頂戴」
「ヴィオレッタ様……」
心配そうに、けれど、少し嬉しそうにエステルは瞳を潤ませる。
(ああっ、違う、ここで私への好感度を上げないで……)
無理をしてまであなたを助けようっていう優しさからの行動じゃないの! これは令嬢としての矜持、次期プリムスに選ばれるためのポイント稼ぎであり、あなたなんかのためじゃないんだから……! エステルのきらきらした瞳を見つめ返すことは出来ず、ヴィオレッタは水鏡の上の白亜の精霊像を見上げた。その両の御手から流れ落ちる水の軌道をじっと見つめる。
いつもの通り、シャン、と鈴の音が頭の奥に響いた。




