トウマ危うし! 危険な遊戯にとらわれて その3
今回、トウマちゃんがかわいそうなシーンがあります。
直感的に私は理解した。
こいつは、“声”の信奉者だ。
あの偉大だがえげつない存在。あれほどの存在が、無名のままだとは、当然思っていなかった。何かしらの形で、現実でも信仰を得ている可能性は、在り得ると。
とはいえ、明らかに邪悪で平和とは程遠い存在である。それを信仰する宗教やら何があったとして、それが果たしてまともな集まりなのか? という疑問はあった。
その答えが、今、目の前にいる。
明らかにその男は、正気ではなかった。
きひひ、と笑う男の瞳には、見覚えのある色彩が纏わりついている。官能的な紫の蔭。人の情熱が落とすその昏い影は、私もよく知るものだ。
「お前……『悦楽』の信奉者か」
「うひ、うひひ……そんな、あの御方を気安く言葉に例えるなど……恐れ、多い。ひひひっ、流石は、選ばれし、高貴なる、ヒト。許されている、のですね。ひひ」
私の糾弾に、男は遠回しに肯定しつつ、うっとりとした視線を向けてくる。肌にねっとりと纏わりつくその視線にうんざりしながら私は首を振った。
「なんのつもりだ? 私は別に奴につかえてる訳でもないし、奴のものでもないが、『悦楽』が私を害しろと命じたわけでもないだろう」
「ふ、ひひ……! 貴方、様は、あの御方にとって大切な存在……! ですが、この世界の、肉に、縛られておられる……。わ、私は、その羽化を、手助けしたいと、ひひ、僭越ながら……!」
駄目だ、話が通じない。
目の前の男からは、論理的な思考能力がすでに失われている。その行動の、どれだけが『悦楽』の意思なのかは分からない。
根本的に、人間とは考え方も在り方も違うのだ。人の道理で語れるものではない。
だがそれはそれ、これはこれだ。
頭のおかしくなった奴の妄想で命を奪われるなど御免被る!
「く、くそ、放せっ、だ、誰かーーっ! 誰か、助けもが」
「ふひ、ひひ。失礼。神聖な、儀式に。邪魔がはいっては、いけませんので。ああ、そう、お友達はですね、用がありませんので、手出ししておりません、よ。これで、ふふ、納得していただけますねぇ?」
叫んで助けを呼ぼうとしたところで、タオルを口につっこんで塞がれる。そのまま猿轡で私の言葉を完全に封じると、男は懐からいくつかの医療器具らしきものを取り出した。
輸血とかで使う、チューブのついた注射針みたいなやつ。
それをもって、男は私の脇に回った。
「あ、暴れないで、くださいな。変な処にささると、痛いだけ、です。チク、っとしますよぉ」
「ん、んんーーー!」
腕に痛みがはしり、男が私から再び離れる。
みれば、腕に刺した注射器から垂れたチューブが、床の魔法陣に垂れている。どくん、どくん、と私の脈動に合わせてチューブから鮮血が滴り、床の魔法陣に染み込んで赤く染めていく。
どんどん、血が躰から抜けていく。目の前の鮮血の色合いに、頭がくらくらする。
「ん、んぐぅ……んー!」
「い、痛めつけるつもりは、ないので……ふひひ。ゆっくり、ゆっくり血を抜きましょうね……ああでも、あんまり暴れると、お体が傷つきますよ?」
「んんーーー!!」
いやいやいや、血を抜かれて失血死とか、ロビンフッドでもあるまいし!
じたばた動く私を、男は聞き分けの無い子供のように見下ろした。
「しかた、ありません、ねえ。こういうのは、やめておきたかったのですが……ふひひ。仕方ない、ちょっと気持ちよくなるお薬を、打ちましょうか。ふひひ、副作用が、死んだほうがましってぐらい酷いですけど……大丈夫。薬が切れる頃には、失血死してますから……」
「ん゛ん゛ーーーーー!?」
私に見せつけるように、懐から出したラベルの無いアンプル。注射器にちゅう、と吸い上げると、蛍光緑のいかにもやばげな液体が中身を満たした。
針先から薬液をちゅ、と押し出して、男がにじり寄ってくる。
その針の切っ先が、私の首元にゆっくりと押し当てられた。
「ん゛うーーーーっ!?」
いや、いやだ。
いやだいやだいやだ。
なんでどうして。誰にも迷惑をかけないように、誰も苦しめないように一人きりで生きてきたのに。なのになんで、こんな目に遭うの。
誰か。
誰か助けて。
マスター。茉莉さん。ハナちゃん。聖君。岩田さん。
……ダン少年!
ドガァンッ!
「おや?」
耳をつんざく打撃音。
注射針を持つ手を止めて男が振り返った直後、黒い何かがさっきまで男の頭があった所を勢いよく通り過ぎた。
男はとっさにそれを回避して私から大きく離れ、机の蔭に身を隠している。おかげで得体の知れない薬を体内に注射される危機は一時遠のいた。
安堵しつつ、私は首を巡らせて投擲物に目を向ける。
これは、黒いトランクの破片だろうか?
自然と、出入口の方へと目が向いた。
そこには。
「よう。無事か、トウマ」
金髪に丸サングラスがトレードマークの、ガラが悪いけど実はいい人。
ギルティ岩田の登場である。
傍らには、蹴り飛ばされて蝶番から外れたドアが転がっている。
「んんんんーーーーーーっ!! んっ、んぅーーー!?」
「ふ。まだ無事らしいな。……。んで、そっちは……」
感激のあまり視界が滲みつつも、全力でもがいて健在をアピールする。
岩田さんはそんな私の様子をみて一瞬頬を緩めるも、気を緩める事なく敵意に満ちた視線を狂信者へ向けた。
「……やっぱてめえか、長沢」
「ひ、ひひひ。お久しぶり、です。岩田さん」
ぺこり、と頭を下げる狂信者。
え、この二人、知り合いなの?
私が露骨に目を丸くしているのを見て取ったのだろう、岩田さんが心の底から嫌そうな顔で説明してくれた。
「昔同じ事務所にいたってだけだ。まあこいつはヒールにすらなれなかった、ただの犯罪者だがな」
「うひひひ、耳に痛い……」
「……てめえが病院から抜け出した、って聞いて警戒してればドンピシャだ。だがなんでトウマを狙う?」
いろいろ気になる言葉があるが、猿轡をされていては尋ねる事もできない。もごもご口を動かしてタオルを吐きだそうとしていると、つかつかと歩み寄ってきた岩田さんが優しく猿轡を外してくれた。
「大丈夫か?」
「ぷはっ。あ、ありがとう……でも、どうやってここに?」
「こいつの御蔭だ」
そういって岩田さんが見せてくれたのは、金縁の最上級モンスターカードが三枚。
ブラ=スカス。バール・ツェルブ。イシュラ・グランナ。
家に置いてきたはずの、他のデッキのモンスター達。
「こいつらが、途中で落ちててな。それを追ったら、このビルに辿り着いた」
「おかしいですねえ、そ、そんなヘマを、ししした覚えはないんですが」
長沢が本気で不思議がっているが、私はむしろ納得した。
今回の件が悦楽による抜け駆けだとしたら、他の三陣営は結託してそれに対応するだろう。最上級悪魔であれば、ちょっとカードの落ちてる場所を操るぐらいはできるという事か。
悪魔に命の危機にさらされれば、別の悪魔が助けてくれた。なんともまあ、感謝しづらい。なんせ本質的には一緒だからな、今回はたまたま悦楽が先走っただけだ。
「ちょっと痛むぞ」
「ん……っ」
岩田さんが、一言断って注射針を腕から抜く。ぴっ、と血が床に散り、抜き取ったチューブが乱暴に投げ捨てられた。
続けてベルトを剥がそうとするが、こちらはがっちりと固定されて剥がれない。舌打ちして、岩田さんは長沢に目を向けた。怒りのあまり、その目は血走っている。
「……餓鬼をこんな目にあわせておいて。取っ掴まるだけですましてもらえると思うな、長沢ぁ」
「ひ、ひひひ。ひひひひひ。そ、それは、私のセリフですよぉ、岩田さん。あ、貴方は、何も理解していないぃ……」
「あ゛ぁん?」
味方とわかっていてもあまりにもドスの利いた声に肩が跳ねてしまう。それに気が付いた岩田さんが、私の頭を優しく撫でてくれた。
安心させるように、何度も。
「なんのつもりだ。直にここにも警察が押しかけてくる。てめえに逃げ場はないぞ。現行犯で即逮捕だ」
「つまらない、つまらないですねえ。ほんと、貴方はつまらない……!」
「……長沢、といったな。お前、もしかして……ダークファイブか?」
岩田さんがぎょっと私を振り返る。私は失血にともなってちょっとくらくらしてきた意識を必死に繋ぎ止めながら、聞き咎めたキーワードを頭の中でつなぎ合わせた。
「病院から抜け出した、っていってたな……。もしかして意識不明か何かで……蘇らされたのか、お前。私を狙ったのは、お前を蘇らせた奴の指示か?」
「なんだと」
「ふぃいいひひひひひ! さ、流石……神の寵愛を受けるお方は、明晰であられるぅ……っ!」
けたけたけた、と首を傾げて笑う長沢。
「確かに、そうです。私は、病院のベッドで眠っている時に、夢を見たのですぅ。汚らわしき清き翼が、私の耳元に舞い降りて囁く声を! それによって私は目覚め、とりあえず声に従いました。逆巻トウマを襲撃せよ、という声に! ですが、今私がこうしているのは、その声に従ったからではあああああありませぇん!!」
目を見開き、両手をわきわきさせながら、長沢は声を振り絞るようにして絶叫する。その表情は喜悦に歪み、明らかに尋常のそれではなかった。
「偉大なる御子! 天の寵愛を受けし御方! 貴方様を通し、私は真に尊き存在の啓示を授かったのです!! 解き放てと! この狭く重苦しい肉の牢獄から、その清き魂を羽化させよと!!」
「な…………」
恍惚と自らの体験談を語る長沢。だが、その言葉に私は、ただでさえ薄い血の気がさらに引いていくのを感じた。
それは。つまり。
「……私の、せい?」
「違う!!」
否定の言葉は、隣から即座に。
振り返った先で、岩田さんが額に血管を浮かべて怒っている。
「トウマのせいにするんじゃねえ! お前がそうなったのは、お前自身の心が弱かったからだ! 人は誰しも、悪との葛藤を抱えて、それでも正しい道に進もうと努力している! お前の弱さを、この子のせいにするんじゃない!!」
「岩田さん……」
「きひひひひひ! 吠えますねえ、ですが、それもいつまで続きますかねぇ……いっひひひ!」
長沢は笑いながら、机の上に手を伸ばした。
置かれたままのデッキを拾い上げる。
「あ、私のデッキ……!」
「さあ、闇よ広がれ、門よ開け! 我らを、悦びの園へ招き入れたまえ!」
長沢の叫びと共に、私達の足元が光る。見下ろせば、血の染み込んだ魔法陣が、妖しげに光り輝いている。そこから紫色のオーラが放たれると、私達に見えている世界は一変した。
大気は甘くどんよりと絡みつき、コンクリートの壁は無数の繊毛に濡れ輝き脈動している。床はいくつもの裸の手足が絡み合ったように複雑に隆起し、彼方からは調子はずれの笛の音が聞こえてくる。
照明が明滅し、ばちん、と電球が弾けて消える。暗闇に閉ざされた闇の中で、しかし不気味なほどに世界はよく見通せた。
長沢は笑いながら、奪った私のデッキから五枚のカードを手札に加える。
「ここは闇の空間……生きてここから出るには、儀式……そう、デュエルで私を下す他はない! だが敗れれば、貴方もまた偉大なる者に捧げられる贄となるのだぁ……」
「い、岩田さん……」
「はんっ。なるほど、ダンもこういう展開を体験したって訳だな。上等だ。玩具をもらって随分と上機嫌のようだが……長沢、お前程度が俺に勝とうだなんて、数百年まだ早いって事を教えてやるよ!」
「「デュエル!!」」




