四神の羽衣 その2
「トウマちゃん、トウマちゃん」
「んー」
「そろそろ起きなよ。時間、遅いよ」
ゆっさゆっさと揺さぶられて、私はうとうとと午睡の微睡みから復帰した。
見上げると、こちらをのぞき込む茉莉さんの顔がドアップで見える。
「あ、あれ……?」
「良く寝てたよー。おきて、おきて」
「んぐぅー」
茉莉さんに上半身を引っ張り起こされ、私ははっきりしない視界で周囲を見渡した。
橙色の照明に照らされた喫茶店内。見れば、窓の外はすっかり夜の帳が落ち、昏くなってしまっている。テーブルの上は綺麗に片づけられており、見ればカウンターで大人二人は酒を飲み交わしているようだった。なんだか大人な雰囲気で羨ましい。こうなる前の私もああいう感じにお酒を飲めたらよかったのになあ。
そこはかとない敗北感を感じながら首を巡らせる。
ダン少年とはなちゃんの姿は、どこにも見当たらない。
なんとはなしに時計に目を向けて、私はげっと呻きを漏らした。もうこんな時間か。
「ダン君達は、付き添いの子が連れて帰ったよ」
「起こしてくれればいいじゃないかー」
いくら寝ていたとはいえ帰るときには一言声をかけるのが礼儀というものだろう。私は不貞腐れながらソファから身を起こす。
「気持ちよさそーに寝てたんだもの、しかたないわよ」
「うぅー。まあいいか、私も帰る」
さっさと帰って明日の支度とかしなければ。ぴょん、とソファーから飛び降りようとした私は、しかし空中でがっしと茉莉さんに捕獲されて、足を地につける事はなかった。
「わ?」
「冗談言わないでよ。この時間帯に一人で帰らせる訳にはいかないでしょ。泊まっていきなさい」
「ええ゛ー」
いや、流石にそこまで迷惑をかける訳には。
助けを求めて首を巡らせる私に、カウンターの向こうからほろ酔い気分のマスターが声をかけてきた。
「あ、起きた、トウマちゃん?」
「マスター。私を家まで送っていって」
「あはー、御免、私も岩田さんもお酒はいちゃってるから、ダメかなー」
そういうマスターの顔は、確かに真っ赤だ。傍らの岩田さんは見た目にはそんなに酔ってないようだが、私が寝落ちする前からワインを飲んでいたし、似たようなもんだろう。
夜遅くに、女児をつれた酔っ払い。それは流石に問題があるか。
かといって、茉莉さんに頼むわけにもいかない。私を送り届けた後は、今度は妙齢女性の一人歩きだ。ロクな事にならないのが目に見えている。
「うー」
「あ、大人しくなった?」
「……お世話になります」
抱え上げられたままぺこりと頭を下げると、何がおかしいのか茉莉さんは爆笑しはじめた。なんで。
「あははははは、はは、ははは! もー、トウマちゃん、おっかしぃ」
「ぶー」
「ははは、ごめんごめん。じゃあ、ご飯も食べたし、お風呂入りましょうか。ちょうど沸いたところよ」
そのまま茉莉さんの脇に米俵のように抱えられながら、実家の方まで運ばれていく私。
いや、いくらチビっていっても、こんな軽々と抱えられるはずがないんだが……まあ茉莉さん、女性としては大柄な方だしなあ。
玄関で靴を脱がされ、そのまま風呂場に直行。
脱衣所に立たされ、襟元に手をかけられてから私はようやく、このままだとちょっとまずい事に気が付いた。
「ま、まって! 自分で脱げるし風呂にも入れる!」
「はいはい。ほらー、ばんざいして、ばんざいー」
「自分で脱げるってば!!」
子供扱いしないで欲しい、これでも自分で洗濯もするし食器も洗うし風呂掃除もしてる!
なんとか抵抗して、茉莉さんを脱衣所から追い出す。膝裏を押して締め出すと、扉の向こうからあんまり信用してなさそうな感じで彼女が声をかけてきた。
「シャンプーだけじゃなくて、リンスとトリートメントも使うのよー?」
「わかってる」
いや本当は分からんけどね。でも子供の体でそんなの気にしてもしょうがないでしょ。
服を脱いで、風呂場に入る。
マスターの家の風呂場は、アパートのそれよりもかなり広かった。私の手足をゆっくり伸ばせる広い風呂桶に、柔らかくて滑りにくく、こけても痛くない床面。ほうほう、と感触を確かめながら水栓を探すと、その横にいくつものシャンプーやらなにやらがずらっと並んでいた。
何が何だか分からん。
私はとりあえず適当に固形石鹸を手に取ると、わしゃわしゃとタオルで泡立てて体を洗う。ちゃっちゃと洗った風呂桶で頭を流し、シャンプーでわっさわっさ。まだ若いとはいえ、扱いが雑なせいで指を通すとちょっとひっかかる。
適当に泡立ててざばーと流すと、扉の向こうで誰かがごそごそしているのに私は気が付いた。
あのシルエットは茉莉さんか? 私の脱いだ服を洗濯しに来たのだろうか。
そんな事を考えつつ頭を振って水を飛ばし、湯舟につかろうとしたときのことだ。
ガラガラ、と音を立てて、扉が開かれた。
「え」
慌てて壁に向き直る。背後で、ぺたぺたという足音が聞こえる。
「あー。やっぱり、シャンプーだけですまそうとしたな?」
「まままま、茉莉さん!?」
振り返るまえにちらりと見えた肌色の素肌。多分、タオルを体に一枚巻いただけ。
全身に嫌な汗が噴き出してくる。
「なななななななんで!?」
「なんでって、トウマちゃん。どーせ髪をちゃんと洗わないでしょ? いつもの髪質見る限り。ほら、手入れしてあげるから、こっち向き直りなさい」
「け、けけ! 結構です!!」
確かに体は女の子だが、精神は30代のおっさんである。しかも女性関係なんて全く縁の無かった根暗中年男性と来た。いくらなんでもこの展開は刺激がすぎるというか、犯罪である。
かといって私は実はおじさんなんだ、とか言い出してもとち狂って訳わからない事を言いだしたチビとして、病院に担ぎ込まれるだけである。私はせめてもの抵抗として、眼をぎゅーーーっとつむって、しぶしぶ茉莉さんに向き直った。
「あらもう、シャンプーダメなの? ふふふ、可愛い。ほらほら、お姉さんが綺麗にあらって上げますから、指どけて?」
「うぅぅ……」
優しく、茉莉さんの細長い指が頭蓋骨を頭皮ごしにマッサージする。なんだかゾクゾクする感じに、私は小さく呻きを上げた。
その後結局、綺麗にリンスとトリートメントまでやってもらい、私は湯舟にぶくぶくと沈んだ。
綺麗にまとめられた頭の髪は、湯舟の中につかる事はない。アパートでは毎晩ふやけたワカメみたいになっていたが、こうすればいいのか。
背後では、茉莉さんが体を洗う音がする。ぶくぶくぶく、と鼻まで沈んで吹き出す泡の音で、私は聞こえてくる音を相殺する事に夢中になった。
あーあー何も聞こえない。聞こえないったら、聞こえないんだ。
「トウマちゃん、ちょっと詰めてくれる? 私も湯船に入るから」
「ハイ」
ぎゅうーーっと隅によると、空いたスペースに茉莉さんが入ってきた。湯舟の水位が一気に上がり、ざばざばと湯舟からお湯が溢れる。
その様子を見て、なんだか私は懐かしい気持ちを覚えた。
遠い遠い昔、私が本当に子供だった頃、こうして両親と風呂に入ったのを思い出す。
それはもう、時間をさかのぼるだけでは届かないほど遠ざかってしまった、私の記憶の中にしか存在しない光景だった。
ぼーっと零れていく湯が流れていくのを眺めていると、背後から茉莉さんの手がぽんぽん、と私の頭を叩くように撫でる。
優しい手つきだった。
「……何?」
「んー、何でもないよ?」
それきり、風呂場に沈黙が満ちる。不愉快ではない、むしろ、心地が良い沈黙だった。
彼女が私の沈黙をよしとしていて、私はそれに甘えている。甘える事が、許されている。
やがて私が湯舟にのぼせて風呂を上がるまで、その静寂は続くのだった。
風呂を上がり、茉莉さんにドライヤーを借りて髪を乾かす。
そこで、ふと問題がある事に私は気が付いた。脱衣所から顔だけだして、リビングの方のコンセントで髪を乾かしてる茉莉さんを呼ぶ。
「茉莉さーん。私の服の事なんだけど……」
「洗濯してるけどー」
「そうじゃなくて、その。シャツでもいいから貸してくれない……?」
そう。私の一張羅は、今絶賛洗濯機の中でスイミング中だ。流石に人の家で、アパートの部屋でそうしてるようにタオル一枚で過ごす訳にもいかない。
申し訳ないが、トレーナーでもシャツでもなんでもいいから、貸してもらいたい所だ。
「洗って返すから……」
「ふふふ、気にしなくていいのよ。それよりいいかなトウマちゃん、ちょっと私の仕事場に来てくれない?」
「え?」
パジャマに着替えた茉莉さんがやってきて、ちょいちょい、と手招きする。ドライヤーを片付けて、私は警戒することなくその後についていく。
「ここ。ここが私の仕事場よー」
「ほへえー?」
ガチャリ、と開かれた部屋の中に入ってみる。
中は、壁いっぱいにクローゼットが並び、無数の布やデザイン画が散乱している、まあわりと散らかった空間だった。大きな机には無数のスケッチが貼り付けられ、その横にはミシン台が鎮座している。
なんていうか、まさにファッションデザイナーの部屋、という感じだ。ここで、彼女デザインのゴスロリ服が日夜生み出されているのだという説得力があった。
「へえー」
好奇心の赴くまま、部屋を見渡す。茉莉さんは私の後ろから部屋に入ってくると、何やら壁際のクローゼットを開け放ち、何やらごそごそし始めた。
もしかして、試作品の服かなにかをパジャマとして貸してくれるのだろうか?
申し訳ない半分、ちょっと期待する。なんだかんだで茉莉さんの服はお洒落なデザインだ、きっとパジャマでもそれなりに良いものだろう。
ワクワクしながら見守る私の前で、茉莉さんがニッコニコ笑顔で振り返った。その手には、四つのドレス。
「じゃーん! どうかしらトウマちゃん、これ! どう!?」