109. カエル
そうして二時間程経った頃だろうか。意外な程早く、エデンが戻ってきて言った。
「おい、対象がカエルになってたぞ!」
ド派手な蛍光緑と黄色、そして紫の斑点のある珍しいカエルの入った虫籠を、エデンはブレアに差し出した。
「は?」
ブレアは呆然と虫籠を受け取る。
籠を目線の高さに持ち上げ、しげしげと奇妙なカエルを眺めると「クレッグ……お前なのか?」と呟いた。
カエルは大きく ケロッ と鳴くと、ぷいとブレアの視線を避けるように、後ろを向いた。
ヴェリタスとライアンが顔を見合わせて、「これって、ルシン兄さんの魔法……?」と呟く。
エデンが頷いた。
「それだ、それ。例の神殿の、金と宝石の表札にかけた魔法だ。そもそもその魔法もはじめに警告の小雷魔法が発動して、ふつうはそこで諦めるもんだ。なんで危険も顧みずに、わざわざカエルになったんだ?」
ケロッ ケロケロッ ケロッう!
呆れた顔のエデンに、カエルは籠の桟を握りしめて、しきりに抗議の声を上げた。
「くっは、まさか俺も姿変えの準備もしたのに、ここまで肩透かし喰らうとは思わなかった。まあイイ、カエルクン、ここに手を乗せたまえ」
エデンは一枚の白紙をカエルの目の前に差し出した。
カエルは期待の眼差しで、虫籠の桟の間から腕を伸ばし、ペタリと紙に触る。
すると魔法の光が現れて、「クレッグ」の直筆サインと母印が紙に書かれた。
ケロっ!!!
カエルは驚いて手を引っ込めたが、白紙だった紙に、みるみる契約文言が現れる。
自らの資産と商団の全てを、ドーラ・バークレーに譲る、と。
カエルは抗議の声を上げたが、エデンは呆れた顔をするだけだった。
「カエルなのに商団やら資産やら、どうするつもりでいるんだ?」
その様子に、マグダリーナはまさかと思って確認する。
「元に、戻らない、の……?」
エデンは肩を竦めた。
「ルシンは昔から、一度目の警告を無視したヤツに容赦はしない」
微妙な沈黙が流れた。
「餌はやっぱりコオロギなどかね?」
沈黙を破ったのは、ブレアの一言だった。
「いや、普通のカエルじゃないから、人の食べるものと同じで構わんさ。ただ寿命と引き換えにカエルの姿でいるから、長生きはせん」
「そうか……」
ブレアは虫籠にハンカチを被せて、立ち上がった。
「エステラ嬢、エデン殿、この度は世話をかけた。今後この老骨が力になれる事があれば、なんなりとこき使ってくれ」
「飼うの? そのカエル」
エステラの問いに、ブレアは首を振った。
「一旦預かるだけだ。これをどうするか決める権利があるのは、そちらのご婦人のお孫さんだけだ。お孫さんが元気になって、これと向き合えるまで、私が預かるよ」
ブレアはマハラに跪いた。
「この度は私の後継が申し訳ないことをした。ショウネシー領に滞在中の費用も治療の費用も、全て私が負担しよう。安心して治療に専念なさると良い」
マハラは驚いて首を横に振る。
「お申し出は正直大変ありがたいのですけど、そこまでしていただく理由がありません。貴方様は商団を引退なさって、無関係でいらっしゃるのに……それに総領に命まで狙われた、いわば私達と同じ被害者でいらっしゃるのに、なぜそこまで責任を感じていらっしゃるのですか」
「それは私の中に、クレッグに対する情がまだ残っている事を思い知ったからです。彼がアンソニー君くらいの年頃に、親に捨てられて物乞いをしていたのを拾い、字や計算を教えた日々を。商売の楽しさを覚えて目を輝かせていたのを。初めての売上で、私にペンを買ってくれたのを……もう無くした過去だとしても、私の中で大切な財宝の一つになっていたのだと自覚してしまっては、こうやって縁が繋がり、また会い見えてしまったからには、私はこうせずには居られない。それにもう、クレッグ自身が貴女方に謝罪することもできない身になってしまった。なので、遠慮は無用」
そう言うと、ブレアは立ち上がって、皆に挨拶すると去っていく。
マハラはドーラとダーモットが幼い頃から、王都のショウネシー邸で仕えてくれていたので、ドーラにとっても親しみは深い。
ドーラはマハラの背中をさすって、「とりあえずお金の事は心配せずに、安心して過ごして」と伝えると、エデンから契約書を受け取って、戦場に赴く歴戦の戦士のような顔をして、クレッグの館と大商団の解体に向かった。
◇◇◇
当然ながら、一週間も経たぬうちに、カレンの怪我は完治した。
傷跡も火傷跡もきれいさっぱり無くなり、マハラ自慢の綺麗な孫娘の姿に戻った。
とりあえず春までのんびり静養すれば良いという、ダーモットとドーラ、そしてブレアの好意に甘えて、マハラとカレンはエステラの作ったダウンジャケットを着て、いっそう寒くなったディオンヌ商会のアーケード街に来ていた。
「ほんとにまあ、アンソニー様が一人で出歩いてるって聞いてびっくりしたけど、ここに来るまでスリにもひったくりにも会わずに来れたわね」
マハラの言葉にカレンも頷いた。
「初めに見た時は、目がおかしくなったのかと思ったけど、小精霊だっけ? 空気がキラキラしてて、とても綺麗! それにこの……動画……だっけ? 病室でも見せてもらえたけど、王都でもこんなの見れないわ」
二人はまずアーケード広場に来て、大画面の動画を見ると、教わっていた飲み物の屋台に近づく。
「今日はホットチョコレートですって。チョコレートって何かしら?」
六十エル払って、二人分買うと、カレンはマハラの待つテーブル席にホットチョコレートを運ぶ。
他のテーブルにもちらほらと人がいて、主婦同士の冬の準備の話しや、たわいのない噂話などが聞こえて来たりする。
「甘い匂いがするね」
「ほんとう! おばあちゃん、熱いから気をつけてね」
ふーふー冷まして、一口口にすると、カレンは驚いた。
「とっても美味しいわ! これが三十エルって安すぎじゃない?!」
「おや本当に! こんな甘くて美味いもの、初めて飲んだよ。まるで貴族にでもなったようだよ」
カレンは微笑んで、マハラのシワのある顔を両手で包みこんで撫でた。
「ありがとう、おばあちゃん。私と一緒にショウネシーの領民になってくれて」
「お前といるのが、私の望みなんだから、礼など言わないでおくれ」
カレンはショウネシーで……ドーラのリオローラ商団で働くことを望んだ。
そしてカエルは、ブレアに全て託した。
せっかく美しいショウネシー領にいるのに、あのカエルをどうにかして、一生それを引き摺りたくなどなかったから。
そして新しい生活の為の家と一年分の生活費を、ブレアの謝罪の気持ちとして受け取って、それでもうこの話は終わったことにした。
春になったら、カレンはリオローラ商団で働き、マハラはハンフリー付きのばあやとして働くのだ。




