災厄(2)
男はエロースと名乗った。
しかし、ティファニーの思うところによるとそれは(そうしたことについてよくは知らないのだが)閨の中で呼びかけるような名前で、あからさまに人に呼ぶのには使わないのではないだろうか。
そうでないにしても、その名で呼ぶのは恥ずかしい。
まるで彼にのぼせ上がっている女たちの一人が、戯曲の中に出てくる愛の神の名で彼を呼んでいるようではないか。
「親からつけられた名前は?」と聞くと、男は頑なに「そんなものはない」と言ったので、仕方なく鳶色の髪なので「鳶さん」と呼ぶことにした。
「姉さん。あの人、本当に精霊使いなのかな」
夜、寝室にまでついてこようとする精霊使いを客室に押し込めて、ティファニーは弟の部屋に来ていた。男のいないところで、彼のことについて話すためだ。
「どうして?クリスも彼が風を操るところを見たじゃない」
「うん、僕が言いたいのはね、彼が正規の精霊使いかってことなんだ」
精霊もちは霊力を使うことを禁じられている。正規に精霊使いと認められて初めて、霊力を使うことを許されているのだ。
「どういうこと?」
「だって正規の精霊使いならかなり数は限られてるから、みんな重要なポストについてるはずだよ。いなくなったら、すぐに連絡なり迎えなりが来るはずでしょう?なのに突然飛び出して、知り合ったばかりの人のところにいるだなんておかしいよ。どうやって知り合ったの?」
「なんか、女の人のところを飛び出してきて‥‥」
その言葉で、クリスはピンときたようだ。
「それ、ジゴロだよ!」
「じ、じごろ?」
「女の人に養われて生活してる男の人。確かにあれだけかっこいい人なら、精霊使いになるよりもいい生活できるかも」
「なんであんたがそんなこと知ってるのよ」
「いや、なんか使用人たちの噂で、どこそこの未亡人にジゴロがいるとか‥‥なのとか‥‥」
ティファニーはじろりと弟を睨んだ。
本を読んで家にいるのが好きな弟は昔からいろいろなことを知っているが、使用人の世間話にまで耳を向けるのはどうにかしなければ。
ティファニーは話を戻した。
「でも正規の精霊使いじゃない人が精霊を使ったら、どうなるの?」
「そりゃあ、精霊局の役人に逮捕されるんだと思うよ」
「精霊局の役人って、精霊使い?」
「そうじゃない人のほうが多いけど、精霊使いもいるよ」
さすがに、精霊もちなだけあって、クリスは精霊使いのことについてよく知っていた。きっと自分でいろいろ調べたんだろう。
「そういえば、あんたのところによく来るジルさんって精霊局の人だっけ?」
「うん。あの人は精霊使いで、精霊局の役人さん。将来、精霊使いとして局で働かないかって、よく勧誘されるんだ。まあ、目的はそれだけじゃないみたいだけど‥‥」
クリスは意味深な目をティファニーに向けたが、姉はそれに気づかなかった。
「‥‥ね、鳶さんのこと、ジルさんに相談できないかな?精霊使いじゃないのに精霊を使ってたもの。何をするかわからないじゃない。怖いわ」
「なんて説明するの?鳶さんは精霊もちかもしれないけど、あの風は何かしようとして出したわけじゃないから、あのくらいじゃ犯罪にはならないよ。‥‥精霊と交感してるとさ、怒ったときとか嬉しいときとかに、つい力が出ちゃうときがあるんだ。それって、そんなにいけないこと?」
クリスは精霊の話に敏感だ。クリスはティファニーの言葉を誤解していた。自分の話に置き換えて傷ついている弟を見て、「あの人、街路樹の木を真っ二つにしてたけど」とは言えなかった。
「ごめんね、ちょっとびっくりしちゃっただけよ。でも、精霊のことは抜きにしても、その、ジゴロ?が屋敷にいるっていうのは、あんまりよくないと思うわ。しかも今は父さんがいないんだもの。自分たちの身は自分たちで守らなきゃ」
ティファニーはこぶしを握った。