災厄(1)
人に懐かない猫だって首根っこをつかまれていたら、大人しく頭を撫でられるしかない。
ティファニーはまさにその状態だった。借りてきた猫よろしく隣に座った男に髪やら肩やらを撫でられていた。正面のソファに座っている弟の目が痛い。この状況は13歳の弟には教育上あまりよろしくないと思いつつ、しかし男に何も言うことができずにティファニーは緊張に身体を震わせていた。
クリスはこほんと咳払いして、男の注意を引こうとした。しかし男がまったく頓着せずにティファニーを見詰めているので、諦めて切り出す。
「失礼ですが、あなたはどちら様ですか?」
男は弟を無視した。弟の目がティファニーに移り、説明を求める。
「クリス、あのね‥‥この方は‥‥」
痴情のもつれの果てに恋人のところを飛び出し、偶然通りかかったティファニーの馬車に乗り込んで、逃げようとしたら雷を落としてきた――
「精霊使いよ」
たぶん。
そうでなければ、突然雷が落ちて都合よく道をふさぐなんてことは説明がつかない。
天候を操るだけでなく雷までも操るほどの精霊使いなど聞いたことはないが、高貴な貴族はその精霊も力が強いといわれている。
自分が知らないだけで、中枢にはそんな精霊使いがいるのかもしれない。
クリスはちらりと自分の精霊に目を向けてから、男に視線を戻した。
「精霊の姿は見えないけど‥‥僕の精霊の様子がいつもと違う」
その言葉に、ニンナが言っていたことを思い出した。彼女の忠告したことは、これだったのだ。その占いも、無駄になってしまったが。
クリスが再び男に視線を戻した。
「あなたは高貴な方かとお見受けします。でしたら、社交界にもまだ出ていない未婚女性である姉の立場もお分かりかと思います。正式なお申し出で妻にしたいというのならともかく、あまりふさわしい振る舞いとも思えません」
クリスはきっぱりと言った。この時クリスの心には、父の代わりに姉を守らなければという強い心が芽生えていた。
精霊使いは聖職だ。異性との婚姻はかたく禁じられている。今でこそ戒律が乱れて愛人を囲っている精霊使いがいることは暗黙の了解になっているが、祖父の時代だったら追放ものだ。
姉にはきちんと社交界にデビューしてそこで紳士と知り合い、正式な求婚を受けて幸せな結婚をしてほしい。高貴な貴族が戯れに手折っていい花ではないのだ。
たとえ男が精霊使いをやめて姉を妻にする気があるにしても、結婚前にこんな人目をはばからない様子では、どんな噂がたつかわからない。
クリスの言葉は、またしても男に無視された。
(いくら高貴な身分だからって、クリスに対して失礼だわ!)
ティファニーは腹を立てたが、それはクリスも同じだったらしい。
「お名前は?」
本人が目の前にいるというのに、クリスはティファニーに男の名前を聞いた。
「それが、わたしも知らないの」
「知らない?」
「だって‥‥さっき知り合ったばかりなんだもの」
「どこで知り合ったの?」
「繁華街よ」
「‥‥なんだってそんなところに一人で行ったの」
「話せば長いけど、仕方なかったのよ」
ティファニーがクリスと話しているのを見て、男が初めてクリスを見た。おもしろくなさそうに。
そしてティファニーの顔を両手で固定し、自分の方に向ける。
男は何も言わずに、ティファニーの目を見詰めた。男が何をしたいのかわからないティファニーは、目をさまよわせて自分を救ってくれる何かが見つからないか探したが何も見つからなかった。
ティファニーの脳裏に、真っ二つに裂かれた木が浮かんだ。男を怒らせたら、次は自分がああなるかもしれない。
ティファニーはクリスのことで腹をたてていたことも忘れ、思いついたことを慌てて口走った。
「えっと、そう、あなたの名前、聞いてもいいかしら?」
男がティファニーの耳に唇を寄せ、そっと囁いた。
「‥‥プサロス?」
男の名を呟いた途端、部屋の中を突風が吹き荒れた。風はまるで歓喜するかのように激しく吹いたあと、ぴたりと止んだ。
「ああ、少し音が違うがそれはこれから直せばよい。みだりに口にするな。己が名には力がある。さあ、其が名を言え」
言っている言葉はよくわからなかったが、自分の名を問われているのはわかった。
「ティファニー‥‥」
「違う、真名を」
霊力のこもった瞳がティファニーを促す。
「ぁ‥‥」
「姉さん!」
つられたように口にしようとしたティファニーの言葉を、クリスが遮った。
はっとして男から離れる。
男が言った通り、真名には力がある。精霊名とも言われ、結婚のとき相手に捧げる名なのだ。簡単に教えていい名ではない。
「言え」
「な、何だったかしら。思い出せないわ」
とてもこんなことではごまかせないと思ったが、意外にも男はあっさりと信じた。
「思い出したら言え」
とりあえずは何とかなったようだ。ティファニーは、ほっと息を吐いた。
「さっきあなたが言ったのは真名だったのね。普段はなんと呼ばれているの?」
男は少し考えて、「エロース」と答えた。
エロースとは、都で昔から人気の古典戯曲に出てくる愛の神だ。彼を見ると、誰もが彼を愛し手に入れたいと思い悩み苦しむのだ。
彼ほどその名にふさわしい男はいない。
きっとその名を呼んでいたのは昼間の女性だろう。彼女は彼に恋し心を焦がしたのだ。
“わたしのエロース”
どうにもならない心を抱えた女性の幻の声が、ティファニーの脳裏によぎった。