それは偶然(4)
扉を開けた男はひらりと馬車に乗り込むと、「出せ」と短く御者に命じた。そして命令を受けた御者が馬にむちをあて、馬車は女を置いて走り去った。
焦ったのはティファニーだ。
「え、えっ?」
と戸惑っているうちに、背後の窓から見える女の姿はもう見えないほど小さくなってしまっていた。
正面に座る男に視線を戻した途端、じっと注がれた鳶色の瞳に思わず少しのけぞった。
(関わりあいになりたくない)
正直なところ、ティファニーは男女の痴話喧嘩などに巻き込まれたくなかった。しかも近くで見ると、男の服装はティファニーが今まで見たこともないほど質のいい生地で、袖口や襟口の刺繍、ボタンに至るまでどれも一流品ばかりだ。これ一着で、馬車を一台買えるかもしれない。
こんなものを着ているような貴族を相手にしたら、ものの数にも入らないような下級貴族でさらに父親が不在のティファニーの家など、地面に落ちた砂利石ほどの力もない。蹴飛ばしたことさえ気づかれずに、ぺしゃりとつぶされてしまうだろう。
ティファニーの夢は超小市民的に、同じような身分で同じような価値観の優しい夫と結婚し、大きなものは得ないかもしれないが何も失わなずに、安定した家庭を築くことだ。
高位の貴族というものは権力を争い、たとえ大きな力を手にしたとしてもそれは一瞬のことで、次に瞬間には何もかもを失っている。そんなギャンブルのような世界に関わりたくない。身分の高い人たちとは付かず離れず。それくらいがちょうどいい。
「あの、わたしここで降ります。どうぞ、この馬車をお使いください」
「やっと、こうして」
え?と男を見返した。ティファニーの言葉をまったく無視して、男は言葉を続ける。
「見えた」
何のことを言っているのかわからない。この男は頭がおかしいのだろうか。しかもなんだかじりじりと膝が近くなっていく。
「こ、この馬車はお譲りします」
焦りながらも、なんとか距離をとろうとするティファニー。
「長く、長く探した。でも、よい。こうして出会えたのだから」
よく見れば男の直向な瞳は、狂気と紙一重に見えなくもない。普通の青年男子がこの歳でこんなに無垢な瞳をしているなど、頭がおかしい以外にありえるだろうか。とても理性があるようには見えない。
男の手がティファニーの手に触れた瞬間、ひゅっと息を呑んだ。
「あなたなんて知りません!帰ります、放してください」
窓の外の景色は人通りの少ない並木通りに差し掛かろうとしていた。これ以上進んだら、馬車を降りて繁華街に戻ることができなくなる。
「もう離れない」
狭い馬車の中は男の存在感でいっぱいになっていた。急に馬車の中が狭く感じて、ティファニーはまるで檻の中に閉じ込められて身動きがとれないような気がした。息ができない。こわい。
ティファニーはパニックに襲われて、「とめて、とめてちょうだい!」と叫んだ。
馬車がとまり、ティファニーは男の手を振り払って外に飛び出した。
来た道を走りだしたティファニーを男は追わなかった。
怖くて振り返ることはできなかったが、追ってくる足音が聞こえてこないことに安堵しかけた、その時。
――ズゴオォォォン!!
「キャアァァ」
激しい光とともに轟音が鳴り響き、ティファニーは耳をふさいでうずくまった。転んだ拍子に肘と膝を打ったが、まったく痛く感じなかった。
しばらくしてそろそろと顔を上げると、目の前には真っ二つに裂けて地面に倒れた街路樹が、道をふさいでいた。ぎこちなく空を見上げると、いつの間にか集まった黒い雲が重く垂れ込めていた。
背後から悠然と近づいてくる、足音。
「共に帰るぞ」
ティファニーは男に背を向けたまま、壊れたおもちゃのようにがくがくと首を縦に振ったのだった。
――屋敷に連れ帰った男について、クリスにうまく説明できなかったのは言うまでもない。
ティファニー、男の魅力に負けて滞在を許したわけではなく、脅されたわけだったんですね。
1話では男、引くことを覚えてます。でもこのときはまだ知らないんです。