兆し(1)
しばらく二人で出口を探して歩いたが見つからず、とうとう疲れて座りこんでしまった。
生垣に背中を持たれ掛けさせて、二人は話した。
少年は、名前をミケルという。
「精霊局にいるってことは、あなたも精霊使いなの?」
「違うよ。父さんが、精霊局に呼ばれてたから、ついてきただけ。その辺にいなさいっていわれたんだけど、ひまだからこの庭で遊ぼうと思って‥‥」
彼も迷路の庭で迷ったらしい。
「そうなの。じゃあ、お父さんが精霊使い?」
「まさか!精霊使い様だったらすごいけど、うちの父さんは、ただの学者だよ」
ただの、と言いながらも少年の口調は誇らしげだった。
「父さんは、精霊を研究してるんだ。王弟殿下から拝命して、精霊史の編纂委員会の編集長をしているんだよ」
ミケルの言ったことは難しくてティファニーにはよくわからなかったが、頭がよさそうだということは分かった。
「すごいじゃない」
「君はどうして精霊局にいるの?」
ミケルはちらちらとティファニーを見ながら尋ねた。
普通のお嬢さんといった雰囲気のティファニーは、魑魅魍魎の精霊局の住人たちの雰囲気にそぐわないと思っているのだろう。
ティファニーはその質問に答えることができなかった。
精霊局でこうして普通に会話が出来るのは久しぶりで、もう少しだけ身分を隠しておきたかったのだ。
「わたしも、付き添い、みたいなもの‥‥かな」
曖昧に濁したティファニーの言葉をミケルは信じたようだった。仲間を見つけたといわんばかりに目を輝かせて「僕と一緒だ」と笑った。
二人は、探しに来た召し使いに助け出されるまで、そこで話していた。
夜、この日も鳶さんと一度も会わないまま、ティファニーはベッドへと入った。
このままでいいはずがない。
しかし、2日も経ってしまうと、どう顔を合わせていいかわからない。
立ち入り禁止、と言ったときは、どうせ鳶さんがその言葉を守るはずがないと思っていたのだ。
まさか、本当に一度も会いに来なくなるとは。
謝りに来てほしい。
謝ってくれなくても、何もなかったかのように会いに来てほしい。
そんなことを考えているうちに、ティファニーの意識は睡魔に引き込まれていった。
ティファニーが深く眠ったころ、部屋に忍び込んでくる影があった。
するりと音を立てずにベッドに近づくと、枕の横でひざまずき、ティファニーの顔を覗き込んだ。
ティファニーは知らなかったが、鳶さんはこうして彼女が寝入った深夜に忍び込んでは、彼女を見つめていた。
鳶さんは、シーツに流れる柔らかい金髪をそっと撫でた。
かすかな寝息を聞こえてくる。
それだけで肺の中に温かくて甘いものが広がり、吸う空気までが違って感じた。
男は無表情で感動していた。
五感があってよかったと初めて思った。
それまでは五感を閉ざして、霊感だけで生きてきた。
ティファニーと出会って、世界が一変した。
肌でティファニーの熱を感じ、
舌でティファニーを味わう。
目でティファニーの色や形を見て、
耳でティファニーの声を聞き、
鼻でティファニーの香りを嗅ぐ。
五感から得るティファニーのどんな感覚も快くて、
ティファニーの感触でなければ、
ティファニーの味でなければ、
ティファニーの姿でなければ、
ティファニーの声でなければ、
ティファニーの匂いでなければ、
不快なばかりだ。
ティファニーを感じられないならば、五感などいらなかった。
思えば、ずっと何かが足りないと感じてきた。
何もいらなくて、でも何かが必要で、もし半身が見つかれば、飢えが満たされると思って、ずっと半身を捜していた。
(しかし、まさかここまで世界が変わるとは)
あまりに長い間半身が見つからないので、自分が満たされないのは、自分がもともとそういうものなのか、それとも誰もがそういうものなのか、そのどちらかだなのかもしれないと思い始めていたのだ。
ティファニーと出会う直前、男がそれまで眠っていた部屋を出てきたのは、フェイビアンの末裔が女と話していたのを聞いたからだった。
王弟たちは精霊がすっかり世界を閉ざして話を聞いていないと思っていたが、男はたまに気まぐれに感覚を解放していたのだ。
―――このまま永遠に眠ってくれていればよいものを
あの男は、そう言ったのだ。
フェイビアンとの約束が守られていないことを知った途端、全てがどうでもよくなってしまった。
もともと、そこまであてにしていたわけではなかった。
しかしそれでも、求めることに疲れてしまった自分にとって、それが最後の希望だった。
感情の振り子が一気に破壊的な衝動に傾いた。
もうすべてを終わりにしてしまおうと思って飛び出した、ちょうどそのときだった。
ティファニーに出会った。
これまでは、ティファニーが視界に入るだけで幸せだった。
ティファニーの存在を感じるだけで、満足していた。
しかし、今は違う。
ティファニーに拒絶されてから、起きているときに近くに行くことができなくなってしまったのだ。
どうしてかはわからない。
こんな感情は知らなかった。
精霊は、途方に暮れていた。




