はじまりの終わり
引き寄せられるのに抵抗して離れようとしたティファニーの耳元で、男がそっと囁いた。
「離れるな」
ため息にも似た声。
男は息を吸って、吐いた。
何かを抑えたように震える吐息がティファニーの耳朶をくすぐった。
経験の少ないティファニーでさえ顔を赤らめるほどの、セクシーさだった。
まるで二人、シーツに包まっているように、濃厚な空気が二人の間に籠もっていた。
頭がくらりとして、ティファニーは自分の呼吸が浅くなっていることに気がついた。
意識して呼吸しなければ、呼吸するのを忘れてしまいそうだ。
もうどうなってもいいと思いそうになるのを、必死で耐える。
「‥‥いや」
呟くと、男の腕が強まった。
「いや!いやっ!もう、わかんない‥意味わかんない!」
ティファニーはがむしゃらに暴れた。
しかし男の腕はぴくりとも動かない。
「うぅっ」
喉から嗚咽がもれだし、鼻がつんとした。
気がつけば、ティファニーは涙を流していた。
しかし男の腕は弱まらない。
そのことに逆にほっとしてしまう自分がいた。
男はティファニーが落ち着くまで、黙って抱きしめていた。
王弟の行動は早かった。
次の日の評議会では議会の承認をとり、その日のうちにティファニーを国王に引き会わせた。
オーガストはすでにティファニーの『封印の間』侍女就任について完璧に根回しをしており、ティファニーはただ廷臣に囲まれた謁見の間で、スカートの端をもってちょこんと礼をして「謹んで承ります」と決まりきったセリフを言うだけでよかった。
もちろん自称精霊男は、男がしぶるのを押し切って部屋に置いてきた。
(宮廷に出仕するのって、こんなに簡単に決まっちゃうのね。王弟が推薦したからかしら)
ティファニーは知らなかったが、宮廷の人事はたとえ王弟が口をきいたからといって、そんなに簡単には決まらない。
しかし、『封印の間』の侍女の役職に限っては別だ。
その人事権は諸代の精霊局局長、つまり王弟に委ねられているので、そもそもそれほどオーガストが根回しをしなくても、ティファニーを職に就かせることは難しくなかった。
オーガストがしたのは、ティファニーが宮廷に出仕した後により過ごしやすくなるようにと、土台を固めただけだ。
普通は宮廷の役職はどんな小さなものでも、それなりの功績があったり、代々その役職を務めている家系であったり、理由がなければ就くことはできない。
宮廷に出仕したい貴族に対して、その席が圧倒的に少ない。
しかし、今回ティファニーが就任した『封印の間』の侍女の人事には、議会でさえ口を挟むことができない。
この職は精霊局ができたころからあり、特殊な精霊局の中にあって特に他と違う位置にある。
精霊局ができたころ、つまりフェイビアンが精霊局の局長であったときのことだが、その席には彼の愛人がいた。
例の、吟遊詩人の恋物語に歌われている女性だ。
そのため、この『封印の間』の侍女の席は、通称「愛人席」と呼ばれているのだった。
そしてその席に座るものは、代々の局長が選ぶことができるのだ。
何も知らないティファニーは、居並ぶ貴族たちの好奇と嫉妬と諂いの視線に気付くことなく、謁見の間を辞した。
やっと家に帰ることを許されたティファニーは、先に王弟殿下から連絡をもらっていたクリスや使用人に迎えられた。
ティファニーの半歩後ろには、ぴったりと鳶色の髪の男がひっついている。
「おかえり」
「ただいま。だめ、今は一人にして」
口を開こうとしたクリスを手で制して、疲れた様子でティファニーは自分の部屋へと入ってしまった。
夕食のときになって、ティファニーはダイニングルームへ下りてきた。
眠っていたのか、寝ぼけまなこでぼんやりとしていた。
やはりその後ろには、ぴったりと鳶色の髪の男がひっついている。
しばらく無言の食事が続いたが、口蓋を切ったのはクリスだった。
「王弟殿下から使者が来たときは、びっくりしたよ。使者からは、鳶さんが実は精霊局の役人で、姉さんに精霊使いの才能があるのを認めて、局へ連れて行ったって聞いたけど‥‥」
クリスはちらりと視線を食べるのに夢中になっている男を見て、ため息を一つついて姉に視線を戻した。
「突然何も言わずにいなくなったら、心配した。おば様もリチャードも心配してくれてさ。まぁ、リチャードは王弟殿下にお会いしに王宮へ言ってから、様子が一変してたけど。本当のところ、何があったの?」
「わたしも洗いざらい全部言いたいところなんだけど‥‥。王弟殿下の使者があなたにそう言ったなら、そういうことなのよ」
困ったように眉毛を寄せたティファニーに、クリスの表情が固まった。
「僕に言えないような‥‥まさか、『封印の間』の侍女になったって、そういうことなの?」
「そういうことって、なにが?」
首を傾げたティファニーの様子から、自分の想像が現実になっていないことを知ってクリスはほっと安心した。
「なんでもない。とにかく、精霊使いになったら結婚できないし、局には一癖も二癖もある人ばっかりだっていうし、絶対に普通に社交界にデビューしたほうがいいよ。今からでも断れないの?」
「駄目よ。もう他の方の前で陛下に職を賜ってしまったわ。今から断れば、推薦した王弟殿下だけでなく、陛下のお顔にも泥を塗ることになってしまうわ」
「うーん、僕は助けてあげることはできないけど、何かあったらすぐにリチャードやジルさんを頼ってね」
「ええ、わかったわ」
ティファニーは席を立って弟の横に行くと、同じく立ち上がったクリスをハグした。
「心配してくれてありがとう。きっと、何とかなるわ」
闇夜の中。
月の光に浮かび上がった白くたおやかな手が、空気を撫でた。
「そう、そうなの」
そこには何もないというのに、黒い髪の女――ニンナは手の先を見詰めて、ひっそりと唇を笑みを浮べて囁いた。
「では、物語は、やっと動きだしたのね」
女の声を聞くものは誰もいなかった。