タダより高いものはない(3)
はっと気がつくと、隣に座った鳶色の髪の青年に手を握られたまま、ひとさし指で手の甲を撫でられていた。
ティファニーは、王弟が部屋を出て行ってから今までソファに座って呆然としてしまっていて、どれくらい時間そうしていたのかもまったく覚えていなかった。
ちらりと隣に座る青年を見た。
青年は視線を落として、つながれた手と手を見詰めていた。伏せられた長いまつ毛が、どこか無垢で繊細な雰囲気を醸している。
しかし見かけにだまされてはいけない。
この男は、鉄の心臓と火トカゲの肌をもっているのだ。
(まさか王弟殿下にまで、あんな失礼な態度をとるだなんて)
失礼どころではない。王弟殿下を、王族を攻撃したのだ。思い出して、ティファニーは気が遠くなるのを感じた。王弟は一度も男に話しかけなかった。攻撃したことを怒っていたからなのか、王弟が話していたように、一度も会話をしたことがないからなのかは分からない。
王弟は幼い頃から青年と一緒にいたと言っていた割りには、仲がよくないようだった。それにしても、どうしたら一度も話さずにいられるのだろうかとティファニーは首をひねる。普通はどんなに嫌いでも、一緒にいれば言葉を交わすことはあるだろうし、話すことができないと誤解することはないだろう。
それでも彼らは一緒にいた。というよりも、王弟は青年の保護者のような立場だったのではないだろうか。ティファニーはそう考えた。そうすれば、つじつまが合う。
ティファニーを巻き込んでまでこの生活能力のない男を精霊局に置こうとしているのは、男を保護するためとだけではなく、監視する目的があるからではないだろうか。
他でもない、この男が危険人物だという理由からだ。
(そういえば‥‥)
ティファニーの視線が、男の唇に移った。
王弟の前で唇を合わせて(合わせたなどと生易しいものではない)しまったのを思い出して、ティファニーは一気に顔が熱くなった。未婚の男女を同じ部屋にしておくなど、普通は考えられない。しかし王弟はそれについては何も言わず、当然のように一人出て行ってしまった。
(絶対に誤解されたわ!)
王弟はティファニーに精霊局での仕事を与えると言っていた。それは宮廷に出仕するということだ。本来ならば、社交界にデビューもしていない娘が社会に出ることはない。
しかし、この精霊局だけは別だ。ここでは精霊が基準となるため、人間社会の常識に縛られない。たとえクリスチャンの年齢だとしても、精霊使いになる気があればすぐにでも宮廷人になれるのだ。
(危険な精霊使いである鳶さんがわたしに懐いてるから、お目付け役として精霊局に置かれたんだわ)
ティファニーには、王弟の意図も、隣に座る男の考えていることも分からなかった。
ただ分かるのは、これが自分たち二人だけの問題ではなく、とんでもない身分の人までが関わっているということだ。どれだけ青年がティファニーと一緒にいたいと思っても、それだけで一緒にいられるわけではないのだ。
(そもそも、鳶さんはわたしの側にいたいって、本当に思っているのかしら。わたしのことをどう思っているのかしら)
結婚する気があるのかどうなのか。物の数にも入らない身とはいえ貴族の娘であるティファニーにとっては、それが重要になってくる。
ティファニーは散々青年から情熱的な言葉を囁かれ、行動にも移されている。しかし青年の言動は彼自身の望みを満たすためのものばかりで、ティファニーがどう思うかなど、まったく考慮されてこなかった。さらによくよく考えてみれば、彼は将来を誓う言葉どころか、愛を誓う言葉でさえ口にしていないのだ。一体これで、青年がティファニーのことを真剣に考えていると言えるのだろうか。
ティファニーの心にふつふつと怒りが湧き上がってきた。
(もしかしてわたしって鳶さんにいいように振り回されちゃってるの!?結局鳶さんは、最後には身分の高い貴婦人と結婚するつもりなのかもしれないわ。そうよ、あれだけ王弟殿下に目をかけられているんだもの、殿下が鳶さんの結婚相手を用意することだってありえるわ)
数年後、ティファニーのことなどすっかり忘れて幸せな家庭を築いている男が、あれは青春のいい思い出だった、と自分のことを思い出しているところを想像してしまった。一方その頃のわたしは、身持ちが悪いと噂がたって結婚できず、一人寂しく暮らしているのだ。ティファニーは自分の想像に自分で腹をたてた。
塔の壁を壊したことだって、王弟を攻撃したことだって、人がいるのにも関わらずくっついてくるのだって、そうすることでティファニーの立場が悪くなることをまったく考えてくれていない。こんなところに閉じ込められる原因になったのも、この男だ。
考えれば考えるほど、イライラがつのった。
(わたしのことを考えてくれない人に、いいように利用されて一生を台無しにするなんて嫌だわ!)
ティファニーは男につながれた手をさっと引き抜いた。男は空になった自分の手をきょとんと見てから、少しむっとした表情になって再びティファニーの手を取り戻そうした。
その様子は、まるでお気に入りのおもちゃを奪われた子どものようで、ティファニーは釈然としないものを感じていた。
(例えばこんなとき‥‥そう、例えばあの洗練されたいとこだったらきっと、どうしてわたしが突然手を引いたのか、顔をのぞきこんで聞いてくれるんだろうな‥‥)
鳶色の髪の男は、ティファニーがどうして手を引いたのか、まったく頓着していない様子だった。ただ自分の手の中にティファニーの手がないのが気に入らないといった様子だ。
青年がティファニーの心を大切にしてくれていないのではないか、という疑いが濃くなった。
自分に向かって伸ばされた手を避けて、ティファニーは自分の両手を背後に隠した。男の手がそれを追ってきた。
その結果、ティファニーはまるで男に抱きつかれているような格好になってしまった。
はっとして身体を引いて逃げようとしたが、それより早く青年の腕の環が狭くなり、ティファニーはぎゅっと抱きしめられた。