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タダより高いものはない(2)




勢い込んで部屋に入ったクレイティアは、部屋に入ってすぐにぴたりと足を止めた。

執務机に座ったオーガストが、まるで待ち構えていたかのように、じっと彼女を見詰めていた。

背後の窓から差し込む西日で顔に影ができ、オーガストの表情は見えない。

クレイティアはまるで冷水をかけられたかのように、熱くなっていた頭が一気に冷えた。

足がすくんで、次の一歩が踏み出せなかった。

まるで時間が止まったかのように、二人は無言で見つめあった。

二人の間に流れる不穏な空気に気付いていないかのように、オーガストが「何の用だ、クレイティア」と低い声で言った。

しかしクレイティアには、目の前の権力者が自分が何をしに来たのかすべて見通していることを知っていた。それなのに、あえてこの態度をとるということに、嫌な予感が強くなった。事態は自分が思っているよりも、早く、より悪くなっているという不安がクレイティアの足を動かなくさせる。

クレイティアは自分を奮い立たせた。

(弱気になってはいけないわ)

弱気になって足をすくわれ失脚していった貴族を数多く見てきた。同時に、虎視眈々と隙を狙う貴族たちも見てきた。弱気になれば輝きがあせる。弱気になれば権威が落ちる。そんなことになれば、ここぞとばかりに牙をむいてくるだろう相手が、クレイティアの頭に浮かぶだけでも両手で足りないくらいいる。

(これはゲームよ)

クレイティアは、権力の獲得と喪失を賭けた争いを否定しない。それが宮廷のルールだからだ。どんな世界にもルールがある。どんなゲームでも、参加したければそのゲームのルールに従うしかないのだ。ルールに従わないものに、ゲームに参加する資格はない。クレイティアは宮廷で生きていくと決めたときに、宮廷のルールをも受け入れたのだ。

クレイティアは自分を叱咤し、取りつくろうための強い口調で王弟に問い詰めた。

「どうした、ではありませんわ。殿下が局にティファニー・ガーラントの籍を用意するよう、管理部門に指示したというのは本当かと人から聞かれましたの」

オーガストの片眉がぴくりと跳ねた。

「驚きましたわ。わたくし、殿下にそのような話は伺っていなかったのですもの。しかも、あの娘が塔にいることを知らないはずの人から尋ねられたのですから。わたくしは『ありえない』と答えました。わたくしが知らないことを、その男が知るはずがない。殿下があの娘を精霊局に迎えるはずがない。そうですわよね?」

クレイティアは強い視線で顔の見えない男を見据え、返事を待った。王弟は机に両肘を置き、指を口の前で組むと、大きなため息をついた。

「そんなことを言うために、先触れもなくこの部屋を訪れたのか」

呆れたような声だった。

今までオーガストはこんな調子で話すことはあったが、もう少し優しかったとクレイティアは思う。少なくとも、今のようにとりつく島のないような言い方はしなかった。

「では、本当のことなのですか。あの娘を局に迎えることをお決めになったのですか。なぜ、どうしてっ。わたくしは、何も聞いていませんわ!」

話しているうちに興奮したクレイティアは、段々と高い声になりながら最後は叫ぶように王弟に迫った。

しかし王弟は冷静なものだった。クレイティアから視線を外さずに答えた。

「ティファニー・ガーラントのことはいずれ公示するが、そのときまで内々での話になる。そなたに教える道理はあるまい」

わたしをその他大勢と一緒に扱うというの!

その叫びを喉でこらえて、クレイティアは呼吸を整えた。頭に上った血をどうにかしなければ、この権力者の心を変えることはできない。

オーガストは、彼の中の優先順位がはっきりしている。いざというときは、どんな冷徹な判断も下せる。しかしクレイティアは、彼も人の子だということを知っていた。人の子であり、男性なのだ。女性や子どもには基本的に優しく、弱いものを守ろうとする。情にも厚い。

まして自分は、この精霊局に連れてこられた頃からの、長い付き合いだ。彼の記憶の中に、そばかすだらけでがりがりに痩せたみすぼらしい少女がまだいることをクレイティアは悔しがっていたが、この場合は都合がいいのかもしれないと思い直した。クレイティアは作戦をかえ、俯いて声を落とした。

「‥‥あの娘が来ることになれば、わたくしはもう必要なくなってしまうのでしょうか」

作戦のはずが、本気で声が震えた。

「やっと、やっと自分にもできることがあると、思えたのに‥‥」

口に出してみれば、それはクレイティアの心の中にある真実の声だった。弱さを見せて情けを乞う屈辱感が沸き起こったが、同時に自分の弱さをさらけ出す爽快感もあった。

クレイティアの真実の声は、王弟に届いた。

口の前で組んでいた手を解くと、諦めたように苦笑した。

「泣くな」

「泣いてなどいませんわ」

顔を上げたクレイティアは、優しい苦笑を浮べた王弟を見て、ほっと力を抜いた。しかし恐怖が去った途端、ふつふつと苛立ちがこみ上げてくる。王弟の機嫌ひとつにこれほどまでに振り回される自分の弱い立場がもどかしかった。

もっと、クレイティアがいなくては困る、と言われるほど必要とされたい。

クレイティアがいなくては物事が回っていかない、と言われるほどの力を手に入れたい。

「ティファニーにはお前と同じく、『封印の間』付きの侍女の役職を与えるつもりだ」

王弟の言葉が遠く感じた。事態は、自分が望む方向とは明らかに逆に向かっている。

今までクレイティアは、精霊局の中で唯一、伝説の精霊の声を聞くことができた。ただ一人、クレイティアだけが、『封印の間』の侍女だったのだ。

だからこそ、誰もクレイティアに何も言えなかった。

クレイティアも胸を張って、王弟の少し後ろに立つことができた。

それが崩されようとしている。自分のすぐ後ろに代わりの人間が控えているということに、クレイティアの背筋が冷えた。

その瞬間、王弟が先ほどとった行動の意味を理解した。

(あのおぼこい娘を局に迎えた後は、わたくしなどいつでも放逐できるということなのね)

「なにも局に迎えなくてもよろしいではありませんか。あの娘は、長年『封印の間』の侍女をしてきたわたくしが見るところ、彼の精霊のお側にお仕えするのに向いていませんわ。彼の精霊は霊気が不安定なのですから、慣れているわたくしならともかく、余計な刺激はないに越したことはありません」

「今の彼を見ても同じことが言えるかな?」

「何と仰いましたか?」

ぼそりと呟いた王弟の言葉を聞き逃したクレイティアが尋ねたが、王弟は軽く頭を振った。

「いや、そのうちわかるだろう。それより、リチャードが面会を求めてきた。忙しいと断ったら、手紙を書いてきた」

オーガストは書類箱の中に入れられた紙を取り出すと、目の高さまで持っていって、はらりと机の上に落とした。

「どんぴしゃ!ティファニーのことだ」

「ど、どんぴ‥?あの、リチャード・ハサウェイは、彼のいとこがここにいることを知っていたのですか?」

「いや、いとこ殿を捜索するのに、精霊使いの力を借りたいそうだ。探している相手が、ここにいることも知らずにな」

「でしたら、すぐにでも彼の精霊をお迎えに参りましょう。そうしたらあの娘に用はないんですもの。ちょっと借りていただけ、と言って返してしまえばいいんだわ」

いいことを思いついた、と輝いた表情のクレイティアに、オーガストは苦笑で返した。クレイティアが瞳で問いかけると、オーガストは「感じないか?」と言った。

「精霊はすでにこの精霊局に帰ってきている」

クレイティアの身体が硬直した。

急いで神経を集中して慣れた精霊の気配を探したが、何も感じなかった。今までなら、伝説の精霊の強い気配は、宮廷の中ならば『封印の間』から離れた場所でも感じることができたというのに。

「どこに、いるのですか‥‥お会いしなければ‥‥」

かすれた声が、質問の答えだった。オーガストはあごにこぶしを当てて考える仕草をしてから、「その必要はない」と答えた。

「何かがあったのかもしれませんわ。わたくしが、お会いしなければ」

「今のところ、爆発しそうな様子はない。ティファニーが付いている、というよりも、ティファニーにべったりと張り付いて離れそうにない。当然だが、『封印の間』に戻る意思もない。今のところ、あの精霊をこの精霊局に留めるのに、ティファニーを使うしかないのだ。ティファニーには、この精霊局に留まる理由が必要なのだ。いつまでも妙齢の女性を理由もなく留め置いておくことはできないからな」

クレイティアは自分が聞いたことが信じられない、という様子で小さく首を振っていた。

「失礼しますわ」

呆然と呟いて、ふらふらと出口の扉へと向かった。

「クレイティア」

その背に、オーガストが呼びかけた。

「お前は、あの精霊が我々の言葉を話せることを知っていたか?」

クレイティアはさっと顔色を変えると背筋を伸ばし、くるりと振り返った。睨むようにオーガストを見た瞳には、強い光が宿っていた。

「嫌ですわ、殿下。あの精霊が言葉を話せることくらい、もちろん知っていましたわ」

それだけ言うと、しっかりとした歩調で今度こそ部屋を退出した。

(知っていたわ。もちろん。500年前の文献に書いてあったもの。すでに、伝説扱いされている文献に‥‥)

クレイティアの靴音が、コツコツと廊下に響いた。




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