そうは言ってもいられない(1)
あれ以来、ティファニーは男を避けるようになった。4日間大人しかったのですっかり油断していたが、あれは立派な成年男子。自分が精霊だなどとおかしなことを言って、従順なふりをしていたから、すっかりだまされた。
柔らかい唇の感触がまたよみがえってきて、ティファニーはばたばたとベッドの上で暴れた。思わず口元を押さえて呻いた。
(飼い犬に手をかまれただけよ!)
そう自分に言い聞かせて、朝食の席についた。
男がティファニーの頬にキスをしようとしたが、ティファニーは避けた。自分の顔が真っ赤になっているのが分かる。弟が怪訝な顔をしていたが、答える気にはなれなかった。
それでいながら、正面に座った男につい目がいってしまうのだ。パンをちぎって口元に運ぶ。そして、上品に開いた、その唇。伏せたまつ毛は長く、目の下に影をつくっている。
「姉さん」
隣のクリスに名を呼ばれ、一気に息を吐いた。どうやら、無意識のうちに息を止めていたらしい。
「どうしたの?」
「なんでもない」
ティファニーは口にパンを入れて、早々にダイニング・ルームを後にした。
「ティファニー」
あとを追ってきた男が、ティファニーを呼んだ。
「ついてこないで!」
「なぜ」
「あなたね、なぜなぜって少しは自分で考えたらどうなの?」
「聞かねばわからない」
二人は並んで歩きながら言い合った。
ティファニーがぴたりと足を止めた。
「わたし怒ってるんだから!この前、その、勝手に‥‥したでしょ。ああいうことは、勝手にしちゃいけないのよ」
「そうなのか?だが、わたしはティファニーに触れたい」
直球な男の言葉に、ティファニーが真っ赤になった。
「あのね、何でも自分のしたいことをしていいわけじゃないのよ。相手が嫌がることをしちゃいけないし、それに‥‥」
「ティファニー、嫌なのか?」
「い、嫌っていうか、駄目なのよ!あなたはわたしの恋人ってわけじゃないんだし、それに‥‥」
じりじりと男がティファニーに迫っていた。
「わたしに触れられるのは、嫌か?」
どくん、とティファニーの心臓が脈打った。
かすれた声で囁き、すがるような潤んだ目で見つめる男を前に、ティファニーは分別はあっさりと陥落した。
「い、嫌じゃないけど‥‥」
でも、と言いかけた言葉は、ティファニーの口から出ることはなかった。その前に、男の唇がその口を塞いだからだ。
(ああ、もう、どうにでもなれぇい)
ティファニーは霞んでいく意識の中、やけくそのように思った。
(あーあぁ)
朝食を食べ終わったクリスは廊下の真ん中でキスをする二人を見て、ため息をこぼした。はじめから姉の敵う相手ではないとは分かってはいたが、こうもあっさりと落ちてしまうとは。
もともと姉はとてももてるし、多くの男性がティファニーの関心を得ようとしていた。しかしどんな男に口説かれても、姉は(クリスの目から見たら)のらりくらりとかわし(というかそもそも気づいていないのかもしれない)、ここまでの恋愛経験は少ない。
(意外と直球勝負に弱かったんだなぁ。まぁ、分かる気はするけど)
衝動的で突飛な行動することもあるとはいえ、姉は石橋を叩いてわたる慎重なタイプだ。きっと今までほのめかされてきた男の口説き文句など、どれもまともに受け取ろうとしなかったのだろう。
少しは遊んでもいいと思ってはいたが――。
「そうは言ってもいられない、な」
クリスは呟いて、二人とは反対方向に歩きだした。
(遊ぶにしても、相手が悪い。彼、世の中の常識ってものを知らなさそうだし、遊びで終わらなくなっちゃうかも)
次の日。
「姉さーん、ちょっと街に行ってきなよ」
自室で本を読んでいるティファニーのところにやってきたクリスは、部屋に入ってくるなり言った。ちなみに男は、ティファニーの斜め前のソファに座っている。
「なによ突然」
「おば様――ハサウェイ伯爵夫人にお茶、招待されてるでしょう。もうすぐだけど、着ていく服は決まってるの?」
ティファニーは衣装箱の中から、一つのドレスを取り出した。
「これじゃあ駄目かしら?」
ぴらりとティファニーがスカートを広げて見せたのは、淡いばら色のドレスだ。ティファニーの雰囲気にぴったりで、どこかに出かけるときにいつも着て行っている。
「駄目だね。それ、この間も着て行ったじゃない。ドレスを買うお金もないのかって、心配されると思うなぁ。街に行って新しいのを作ってもらいなよ」
「お金、あるの?」
お金の管理はすべて家令と弟に任せているので分からないが、それほど余裕があるわけではないのは知っている。しかしクリスはにこやかに首を縦に振った。
「あるある」
「じゃ、行っちゃおうかしら。実は友達の間で噂になってる仕立て屋があるの。一回行ってみたかったのよね」
軽い足取りで衣装箱にドレスをしまいに行く姉の背中に、ついでのようにクリスが言った。
「あ、分かってると思うけど、鳶さんを連れて歩いたりしちゃあ駄目だよ」
「わかってるわよ。鳶さん、ついてきちゃ駄目だからね」
頷いた男を見て、クリスがこっそりと口元を歪めた。
恐るべし13歳の少年。どんだけいい性格してんだこの子。