刀を使わない剣士
時代は江戸中期。
既に世の中からは戦が消え去り、長い年月が流れていた。その間で、戦に関する技術の類は錆びついていった。武術の類を使用する機会は大幅に減り、武士ですら武術を積極的に身に付ける者は少なくなっていた。武術など身に付けても、何の生活の足しにもならない。
しかし、そんな時代にあっても、加藤正門という武士は、剣術に磨きをかけていた。剣術こそが武士の本懐。彼はそう信じていたのだ。そして、昨今の腐り切った政治色の強い武士の現状に大いに不満を抱き、武術の鍛錬こそが、その現状を打開する唯一の道だとも思っていた。
しかし、加藤が無骨でその力の誇示に執心するような男なのかといえば、それも違った。彼の外見は優男のように見え、実際、性格もとても柔和で、子共や動物が大好きという一面も持っていた。女や身分の卑しい者に対して高圧的に接する事もない。人格者である。当然、女達からも人気があった。
真面目で誠実、奢る事もなく、騙る事もなく、品行方正。当に、武士の鑑… いや、人の模範となるような高潔な男だった。
そんな彼がある日、果し合いを行った。対戦した相手は、草原流という道場の主。名を草原介達という。しかし、この介達という男、道場主でありながら、ほとんど刀や木刀を握った事がなかった。しかも、道場経営の為に、町人に道場を貸し出すような腑抜け…… その武士としての怠惰な姿勢こそが、加藤に果し合いを申し込まれたそもそもの原因でもあったのだが、しかし、その果し合いで、なんと介達は勝ってしまったのである。
誰もが加藤の勝利を確信していただけに、この事実は驚きをもって迎えられた。しかも、話によると、彼らは一合も打ち合っていないのだという。
この話にどうしても納得がいかなかった加藤の朋輩の一人、長井という男は、彼を訪ねると事の子細の説明を求めた。
「なに、私には、あの御仁を打ち据える事が、そもそもできなかったのですよ」
胡坐をかき、両手を互いの袖口に入れた格好、平静かつ穏やかな様子で、加藤は長井の言葉にそう返した。
その加藤の様子に、妙な違和感を覚えつつ長井はこう問いかける。
「それは、つまり、あれか?
その草原とかいう男に隙がなく、打ち込む事すらできなかったと…」
しかし、それを聞くと加藤は大いに笑った。
「ははは。それはないでしょう。あの御仁は武術の腕はからっきしです。下手すれば、未熟な門下生にすら負けます。いえ、確実に負けるでしょう」
「では、なぜ…
なぜ、一合も打ち合わなかったのだ?」
長井はそう問いかけながら、加藤の様子にますます違和感を感じていた。まず、草原という男の事を“御仁”と尊敬を込めて呼んでいるように思える点。少なくとも、侮蔑の感情も敵対心もそこには含まれていない。
加藤は草原を武士の堕落の象徴と見做し、果し合いを挑んだはずだ。それなのに、この変化はどうした事なのか?
「それは簡単です。あの御仁は、木刀を持っていなかったのだから、打ち合えるはずがなかったのです」
「木刀を持たなかった?」
「はい」
「それなのに、お前は負けたのか?」
「その通りです」
「何故、打ち据えなかった?」
それを聞くと、少しばかり加藤は表情を曇らせた。その曇らせた表情を、長井は怪訝に思いながらも、むしろ彼が知っていた加藤の姿をその表情の中にこそ見出していた。
「長井さん。私には、武器を持たない相手を一方的に打ち据える事などできませんよ。私の性格を知っているでしょう?」
そして、淡々と加藤は語る。それを聞いて、長井はようやく納得をした。
「なるほど。敵はお前の性格を見抜いていたのか。武器を持たないとは、卑怯な相手の策略であったのだな!」
それを聞くと、加藤は快活に笑った。
「あっはっは! 卑怯ですか。確かに、私も最初はそう思ったのですがね……」
彼のその穏やかな様子に、長井はまた違和感を強く覚える。そして、そこに至って、長井はある点に気が付いたのだ。
この加藤という男、朋輩である長井の前でも今までは決して寛いだ姿を見せる事はなかった。常に正しい姿勢を維持しよとうとし、正座のまま、畏まった口調で話す。それが今は随分と違う。確かにまだ敬語を使ってはいるが、以前のような緊張した様子がない。
「まぁ、どんな武器を用意してもいいと言ったのは私なので、その点については、何も言えません。
あの御仁は私に“何も持たない”というのも武器なのだと、そう語り、“私は刀を使わない剣士なのです”とそう嘯きました。確かに、その武器は、あの状況にあっては、私にとって最大級の強力な武器であったのかもしれない……」
「刀を使わない剣士?」
「ま、それは詭弁の類でしょうが」
加藤はそう静かに応える。何か憑き物が落ちたような様子。その時に、長井は思い出していた。
この加藤という男が、武術を熱心に鍛錬するようになった理由。それは、彼の父親に原因があった。彼の父親は出世ばかりを望み、武術の鍛錬を疎かにし、その上で出世争いにも破れ、その憂さを晴らす為か、加藤の母親や幼い加藤を殴るようになったのだ。
「俺を馬鹿にしやがって!」
加藤の父親は、そう言って彼らの事を酷く扱ったのだという。
もちろん、母親も加藤自身も父親を馬鹿になどしていなかった。否、何の抵抗もできない母親とまだ幼かった彼を殴るようになってからは、加藤は本心から、父親を馬鹿にしていたかもしれない。長井が聞いた、唯一の加藤の誰かへのあからさまな侮蔑の言葉は、父親に対してのものだった。
そして、その父親に反発するように、彼は武術を鍛錬し、あるべき武士の姿を追い求めた。まるで本当の父親の姿を探すかのように。
「あの御仁に拠れば、私には仕合うだけの価値があるのだそうです。だから、果し合いを受けたとそう言っていました」
「武器も持っていなかったのにか?」
「ええ」
そう答えるとにっこりと加藤は微笑む。やはり様子がおかしい。そう長井は思う。何故、負けたにも拘らず、この男はこんなにも晴れ切った表情をしているのだ?
「もしも、この策が通じないような下衆ならば、仕合を行う価値はない、と、そう言っていましたよ、あの御仁は。
それに、確かにその時々で、最も有効な手段を講じるのは兵法でしょう。軍役を生業とする武士としては、それを卑怯と呼ぶのは甘い考えなのかもしれません。もっとも、この言葉は当の草原殿本人の受け売りなのですがね」
「では、その草原とかいう男は、戦になれば勝つというのか?」
「そうですね。少なくとも、最も有効な手立てを見つけようとはするかもしれません。いえ、まずなんとしても戦に持ち込まないよう策略を練る…… か、戦に参加しないでいられる手段を考えるか……」
そこまでを聞いて、また長井は不思議に思った。その草原とかいう男を、加藤が高く評価しているのか、そうでないのか、分からなくなったからだ。
……一体、そいつは、どんな男なのだ?
そして少しばかり、長井は草原介達という男に興味を覚えたのだった。
加藤が草原介達に果し合いを申し込んだ理由は、介達が神聖な武術の鍛錬の場である道場を、商売の為に町人達に貸し出したからだった。彼はそれを、昨今の賄賂が当たり前となっている武家社会と重ね合せたのだ。そして、草原流の道場主である草原介達が商人達に道場を貸し出すようになった理由は、門下生が減り続け、それに伴い収入も減り続けていたからだった。
「武士は食わねど高楊枝」などと言うが、収入がなければ経営が成り立たないのは当たり前の話。見栄だけではどうにもならなかった。何としても金を得る手段を見つけなければならない。
そこで介達が目を付けたのが、町人達だったのだ。彼らは金を持っている。まずは無料で寺子屋の真似事のような事を始め、子供達から籠絡をしていく。武士という理由だけで怯え、警戒をする町人達を懐柔するのが目的だった。彼らが気を許し始めたなら、そこで商売の話を持ちかける。すると、道場のような広い場所を探している町人は意外に多いという事が分かった。
簡単な催し物、宴会、会合… そういった幅広い用途で、需要があったのだ。
介達はそこを切り口に、町人達相手に“道場を一時的に貸し出す”という商売をし始めた。もちろん、道場の門下生達の中には“武士らしくない”と不満を持つ者もいるにはいたが、何故か“介達ならば仕方ない”と、半ば諦めて認めてしまっているようだった。
これについては彼の家族も同様で、彼の弟で実質、道場の師範を務める草原晋太郎は、「まぁ、兄のやる事ですし、実際、経営も助かってますし」と、そのように述べていたらしい。認める訳にはいかないが、否定するつもりもないといった態度。つまりは、黙認である。
弟の晋太郎は兄とは違い、剣術の腕は相当なものであるらしい。この道場の事を知った者の中には、この弟が兄を諌めるのではないかと期待した者もいたらしいが、どうやらそれもなさそうだった。
「――介達さん、なんだか評判が悪いらしいですよ」
そんなある日、介達は町の茶屋でそう言われた。
介達は、「何の話ですか? 牧ちゃん」とそう返す。非常に惚けた態度。少しだけ背は高いが、痩せている為、頼りない印象を受ける。
「道場の話ですよ、道場の。武士が、町人相手にあんな商売をし始めちゃうもんだから…」
牧と呼ばれたその女はそう返す。町の茶屋で働く娘だ。
「はぁ、それは町の破落戸どもか何かですかね? それなら、心配はいりません。彼らは喧嘩は弱いですから。家の門下生達と事を構えるほど度胸のある者はいませんよ。弟は強いですしね」
そう介達が答えると、「また、晋太郎さん頼みですか? 兄として、少しは情けないと思わないのですか?」と、そう牧は言う。
「いえいえ、頼りになる弟で、兄としては鼻が高いですよ」
そう返した介達に、牧は軽くため息を漏らすとこう続けた。
「でも、安心をしてばかりはいられませんよ。何でも、こわーいお侍さん達が、あなたを敵視してもいるようですから」
「お侍さん?」
「はい」
介達はそれを聞くと、頭を何度か掻き、それからこう尋ねた。
「それは、また、どのような……」
流石に、少しばかり困った様子に見えた。
「色々なお侍さんが“武士らしくない”って怒っているようですがね、実際にあなたを懲らしめる気でいるのは、加藤正門ってそれはもう立派な方らしいです」
それを聞くと、介達は「なるほど」とそう呟いた。どうやら、その名に聞き覚えがあったようだ。
「その人なら、徒党を組んで我々を襲うなどといった事は考えないでしょう。それどころか、周りを抑えようとするに違いない。まずは一安心ですね」
その応えに牧は「本当ですかぁ?」と疑わしそうな声を上げる。
「まぁ、その加藤殿が、私の聞いている通りの人柄であったなら、ですがね」
介達はそう呑気に返す。しかしそれから一呼吸の間の後でこう続けた。
「そうだ、牧ちゃん。その話、もう少し詳しく知りたいのですが、集められそうですか?」
そう言って銭を取り出す。牧はそれを受け取るとにっこりと笑って「毎度あり」と、そう答える。
茶屋には様々な噂話が集まる。牧はその真贋を見極めた上で、詳細を整理するという芸当の持ち主なのだ。
「いい話が入ったら、追加料金を貰いますからね」
困ったような顔で笑いながら、介達はそれに「私は貧乏道場の主で金はないのですよ。お手柔らかに頼みます」と、そう返した。
草原道場。
「何故、武器を取らないのです? 私は槍でも弓でも構わないとそう言ったでしょう? あなたには果し合いをする気があるのですか?」
怒った口調で、加藤はそう言った。目の前には、今から果し合いをするはずの男が、悠々と立ち尽くしている。武器を取らないだけでなく、何の構えもしていない。まるで、これから楽しく談笑でもしそうな態度だった。
――草原介達。
彼はそれを聞くと、薄らと穏やかに笑ったままの表情でこう答えた。
「いえいえ。これが私の武器なのですよ。“武器を持たない”。それも一つの武器です。――私は、“刀を使わない剣士”ですから」
「刀を使わない剣士? まさか、素手で戦うとでもいうのですか?」
「いえ、違います。そんな馬鹿な話ではありません。これは兵法なのです。では、ちょっと説明をしましょうか。
私が武器を持たない理由は簡単です。あなたが、武器を持たない相手を、一方的に打ち据えることなどできない人間だからです。むしろ、持てば、私は木刀で叩きのめされてしまう。それは痛い。痛いのはご免ですよ。ならば、誰が武器など持ちますか」
痛いのはご免…
なんだそのふざけている上に、腑抜けた情けない口上は!
加藤はそう思った。しかし、確かに加藤には武器を持たない無抵抗の人間を、木刀で打ち据える事などできなかった。
「あなたは卑怯だ。私と果たし合うと言いながら、初めから果たし合うつもりなどなかったのですね?」
悔しさで身を震わせながら、加藤はそう語った。ところがそれに、介達はこう返すのだった。
「いえ、違います。むしろ、あなたが仕合うだけの価値のある相手だからこそ、私はあたなからの申し出を受けたのです。この策が通じないような下衆ならば、私は逃げていたでしょう」
それに加藤は激昂する。
「ならば、武器を持たれてはどうか! これでは、果し合いにならない! 一体、どう始めろというのか?」
が、介達はそれに穏やかな表情で、こう返す。
「もう果し合いは始まっているはずではありませんか、加藤殿」
それは事実だった。
草原介達は、加藤からの果し合いを受けるに当たって、いくつかの条件を出して来た。一つは、場所は草原道場にて、二人きりで行うこと。もう一つは、道場に足を踏み入れた時点で果し合いを始めるということ。その条件に当て嵌めるのなら、既に果し合いは始まっている事になる。
加藤はてっきり介達が何か卑怯な手段に出るのだと考えて警戒していたのだが、道場の中には介達が一人待つだけだった。しかも、何も武器を用意していなかったのだ。
介達の穏やかな表情に、加藤は何か毒気を抜かれるような思いがした。この男からは、まるで戦いの気迫が感じられない。こちらの調子までおかしくなる。
「加藤殿。武士の生業とは軍役… つまり、戦をすることです。そして戦とは、その時々において、もっとも有効な手段を見つけ出す事に、その極意がある。言うまでもなく、それが兵法でしょう。
だから私は、もっとも有効な手段を採用した。それだけの話ですよ」
加藤はそれに「戯言を…」とそう返そうとする。しかし介達はそれを手で制し、こう問いかけるのだった。
「私の話がおかしいと思っているのなら、少しお話を聞きたいのですが、何故あなたは、剣術を身に付けて刀を握っているのでしょう?」
「何故? そんな事は問われるまでもない。武士として剣術を学ぶのは当然の話で…」
「そうですか? しかし、戦において主流な武器は刀ではなく、槍でした。槍の方が長いですからね。有利だったのです。更に言うのなら、それよりも弓矢の方が有利だった。後には鉄砲も出て来ました。戦であまり使われなかった剣術に、軍役を生業とする武士が固執するのは、妙な話だとは思いませんか?」
「あなたは剣術を愚弄するのですか?」
「愚弄などしていません。剣術はそれは美しいものです。殺しの技術を超えた“美”がそこにはある。鍛錬すれば身体も心も鍛えられるのでしょう。もっとも、戦の場においては、それらはただの飾りに過ぎないのかもしれませんがね……。
剣術のその価値は、戦以外の場にあるものだ」
その言葉に、加藤は反応した。
飾り? 剣術が?
介達は続けた。
「どんな場面かによって、何が強い武器なのかは異なります。
弓矢は離れた場所から相手を殺せる為、多対多の戦いにおいては優秀です。ところが、一対一の戦いにおいては、実はそれほど優秀ではないと言われる。
名人が放つのならば別かもしれませんが、弓矢は簡単に的に当たるようなものではありません。しかも、戦場においては、そこに障害物が加わる。また、矢を撃ち尽くしてしまえば終わりです。
他にも武器の強さが大きく変わるという例は多くある。薙刀は、非常に強力な武器でしたが“振り回す”という戦闘方法が、隊列を組んで戦う形式には不向きだった為、槍に変わっていきました」
そこまでを聞いて加藤は怒鳴った。
「何が言いたいのです?!」
それで介達は黙る。少しの間の後、大きな一呼吸をする。まるで何かを整えるかのように。そして、こうそれに返した。
「あなたにとっての、この仕合の意味とはなんでしょう?」
加藤は即座にそれに答える。
「武士の尊厳を、取り戻す為の果し合いです!」
答えた後で彼は、もうこんな御託を聞くのは止めて、木刀でこの草原介達とかいう男を叩きのめし、黙らせてやろうかと思った。
だが、なんとか自分を抑える。
それは、彼の目指す道ではない。
介達は言った。
「剣術の腕を競い合う。それが、武士の尊厳になりますか? 先に述べたように、剣術が戦で使われた例は少ない。そもそも剣術は戦の少なくなった江戸の世になってから発展したものです」
「私は戦がしたい訳ではありません。武士の役割は、軍役だけではないですから」
その言葉に、介達は微笑んだ。
「なるほど。確かに、それはその通りかもしれませんね」
そして、そう認める。
「では、あなたが剣術を貴ぶ理由は、なんでしょうか? しかも、それをもって、武士の尊厳とする理由とは……
いえ、そもそも武士の役割とは何でしょうか? 戦をするのが、武士の役割ではないとするのなら、この時代においての武士の存在意義とは何でしょうか?」
加藤はその介達の問いに戸惑った。この男は、何を言っているのだ? どうして、こんな事を訊いて来る?
「そんな事、今は関係ないでしょう?」
「関係あります。何故なら、あなたは武士の尊厳の為に戦っているのですから……。それとも、あなたは本当は、別の何かの為に戦っているのですか?
いえ、こう問うべきかもしれません。あなたは、“本当は何と戦っている”のか…」
何と?
そう問われて、加藤はふと自らの父親の事を思い出した。あの、憎むべき、蔑むべき男の事を。
“……あの男と、戦っている訳ではない!”
介達は続きを語った。
「今の時代、武士は支配階級です。決して戦う為だけの存在ではない。支配階級であるからには、世の中全体の事を見渡さなければなりません……
ところで、加藤殿。時代を変えて来たのが、実は百姓であったという話を知っていますか?」
「百姓? 一体、何の話です?」
「皇室、寺院、貴族、武家などの支配階級の盛衰が、時代の変遷に常に関わっている訳ですが、ところが、彼ら支配階級を支えているのは、実は税を納めている百姓です。だから百姓達が、どの支配階級の下につくかで、時代が動いて来たという表現が可能……
まぁ、反論はあるかもしれませんが、そういった側面があるのはほぼ間違いありません。ならば、今の時代だって、彼らの存在… いえ、彼らをも含めた“金の巡り”はとても重要なのではないか、といえるのです」
それを聞いて、加藤はこう言った。
「なるほど。あなたは、そうやって自己弁護をしようというのですか。自分の“商売”を正当化しようと」
それを聞くと、介達はにっこりと笑うとこう言った。
「ええ。まぁ、自己弁護でもありますね。ですが、この仕合の先にあるあなたの目的が、この社会における“武士の役割を正しく全うする事”にあるというのなら、無視できない話ではありませんか?
言うまでもありませんが、剣術を鍛錬するだけで、武士の役割が全うできるはずもありませんから」
そこで加藤は、いつの間にか介達の話に聞き入っている自分に気が付いた。どうも、相手の術中に嵌っているように思える。
「そんな言説は良いのです。私はあなたと果し合いを… 剣術の仕合をしに来たのであって、議論をする為に来たのでは…」
そう言いながら、加藤は自分の口調から迫力が失われている事に気が付いた。どうしてなのか? 加藤にはその理由が分からない。しかし、思い当たる節も……。
この相手は、自分の父親ではない。否、自分の父親のような存在ではない。だから、戦うべき理由がない。介達は言った。
「違いますよ、加藤殿。私はちゃんと仕合を行っている。言ったでしょう? 私は“刀を使わない剣士”なのですよ。剣術とは“心・技・体”により成るもの。更に、この仕合は、飽くまで私とあなたの間で行われるもの。あなたが納得しさえすれば、それで勝敗は決します。そして、私の言葉は、あなたの“心”に届いているはずだ。これが私の仕合のやり方です」
加藤はその介達の言葉に思わず「ほぅ」とそう言う。それから慎重に口を開いた。
「つまり、あなたは言葉だけで、この私に負けを認めさせるというのですか?」
「“負けを認めさせる”とは言っていません。“納得させる”とは言いましたがね」
そう答えた介達は穏やかに笑っている。
“納得させる?”
加藤は不思議に思った。介達は続ける。
「今の武家社会の腐敗は酷いものです。確かに、あなたが言うように、武術の鍛錬で心を鍛える事も必要なのかもしれない。ですが、それだけでは不十分だと私は思います。
と言うよりも、何故、武家社会では賄賂などの不正を行う者が勝つのか、その点を考えなければ意味がない」
「不正を行う者が勝つ?」
「だからこそ、出世する者達の間で、不正がはびこっているのでしょう?
もし仮に、あなたが剣術を重要と考えるのであれば、武士の出世を決めるその評価に、剣術を重要視する仕組みを作り上げるべきなのです」
そこで加藤は慌てたような口調でこう言った。
「ちょっと待ってください。剣術の鍛錬を怠っているからこそ、これほど武家社会は腐っているのでは……?」
それに介達は首を振る。
「違います。もし、剣術を身に付けた者が、ただそれだけで高く評価をされるというのなら、そういった者が高い地位に就くはずだし、生き残ってもいきます。現実、そうなっていないのは、武家社会の出世に剣術が重要ではないからです。ならば、そんな状況の中で、“剣術を鍛錬すれば不正が減る”と主張したところで、それが広まるはずがありません」
それを聞き終えると、考えを整理する為にか、加藤はこう呟くように言った。
「つまり、剣術を怠っているから不正がはびこっているのではなく、そもそも不正をする者が権力を握る、その制度・体制にこそ問題があると……」
加藤の様子は、明らかにおかしかった。介達はそれに頷く。
「その通りです。しかし、これはそれほど驚くような話でもないはずです。あなたは、とても賢明な方だ。まさか、本当に剣術の鍛錬を行うようになりさえすれば、それで昨今の腐った武家社会が良くなると思っていた訳でもないのでしょう?」
「それは……」
そう言われて加藤は戸惑う。そう問われれば、確かに本心から、それが成功すると思っていた訳ではないように思えてくる。
「そもそも剣術を鍛錬すれば、何がどうなって武家社会が良くなるのか、その理屈がありませんし証拠もない。非常に単純で、聞こえは良いですから、受けは良いかもしれませんが、それはそれだけの話で、決して現実的な解決力がある訳ではありませんよ」
その介達の説明に、加藤は何も返せなかった。加藤から何も返答がないのを確認すると、介達は言った。
「しかし、先ほど言ったように、恐らく、そんな事はあなたも分かっていたはずです。しかし、それでもあなたは、剣術の鍛錬に拘り続けた。
……それは、何故なのでしょう?
もしかしたらあなたは、腐った武家社会と戦っているつもりで、本当は別の何かと戦っていたのではありませんか?」
その言葉を受けた瞬間、加藤の脳裏に醜い父親の姿が浮かんだ。母親や自分を殴る醜い父親の姿が。
私が勝とうとしていたものは……
「隙あり!」
そしてそこで、介達はそう叫んだのだった。剣を振る動作をしているが、もちろん、木刀も何も握ってはいないし、握っていたとしても加藤にまで届いてもいない。しかしそれでも、加藤は自分の頭に太刀を打ち込まれたかのような、そんな心持ちがした。
そして、その瞬間、確信したのだった。
……私は、あの男の影と戦っていただけだったのか。
今でも怯え、今でも憎み、武家社会の為と言いながら、本心では、自分の父親を否定したかっただけ……。
――私は、小さい人間だ。
それから太刀を納めるかのような動作をすると、介達は「さて、これで私のくだらない口上は終わりです」と、そう告げた。
「私としては、あなたとこれ以上、仕合う理由はないように思える。そして、これは私の一方的な感想に過ぎないかもしれませんが、あなたもそれに納得をしてくれるのではないかと判断しています。
この勝負は私の負けで構いません。そもそも私は木刀すら握っていないのだから、これは当然の話です……」
ところが、それを聞くと加藤は静かにこう言ったのだった。
「いえ、それは駄目です」
そう言いながら、持っていた木刀を下げる。
「私は、確かに今、一本打ち込まれました。それをはっきりと感じた以上、この勝負は私の負けです。
それだけは譲れない」
それに介達は「しかし、それでは…」と言いかける。しかし、加藤はそれを止めると、こう言うのだった。
「私には、この勝負に負ける必要があるのです。あなたには、薄々分かっているのではありませんか?
どうも、私の個人的な事情に関して、知っているようでもある」
確かに介達は、加藤の生い立ちを知っていた。加藤の事を調べたからだ。そして、今回の弁は、その上で組み立てたものでもあった。
介達はそれを聞きえ終えると、ゆっくりとこう言った。
「なるほど。分かりました。いささか心苦しいですが、あなたがそう言うのであれば……」
嬉しそうに、それに加藤はこう返した。
「はい。この勝負、私の負けです」
「――なるほどな」
長井は加藤からの話を聞き終えると、そう言った。
「お前や俺が想像していたような人間ではなかったのか、その草原介達とかいう男は……。
しかも、お前の心の内まで察して、そのような話を……」
長井は多少、感心している様子に思えた。しかし、一呼吸の間の後で、こう続ける。
「だが、お前を負かしたという噂が広まれば、その男はそれなりに目立つぞ? そうなれば、どんな手合いが現れるか分からない。それを考えるのなら、その仕合、お前が勝っておいた方が良かったのではないか……?」
それを聞くと、加藤は非常に嬉しそうな顔でこう返した。
「もちろん、そうでしょうね。しかし、あの御仁ならば何とかするでしょう。それに、これくらいはやり返したって、良いのではないかとも思いまして。
あの御仁が使った策に比べれば、これくらいは可愛いものです」
それを聞くと長井は大声で笑った。
「あっはっは!
なるほど、お前も少しは人が悪い!
“刀を使わない剣士”様の腕の見せ所を用意してやったというわけか!」




