悪魔の所業
息子が悪魔を喚びだしてしまった。
見よう見真似で、本に書いてあることをそのまま実行し、なんとなくで成功をしてしまったらしい。
家の息子は、まだ小学生だから、これは当に驚愕に値する変事である。
私は、久々の親バカ力を発揮して、息子を「凄い、凄い」と褒め称えた。悪●くんレベルの天才だ、と。
――が、しかし、呼び出された悪魔には少々の問題があったのだった。
どうにも、姿がぼんやりとしていて、その存在を上手く掴めないのだ。存在が曖昧なまま、そこにノッソリと漂っている。
しかし、それも無理のない話だった。
悪魔が語る所に拠れば、悪魔というのは『正しさ』に対立する概念の象徴のようなものであるから、『善悪』の区別が曖昧なままだとその姿も上手く決定されないのだという。
なるほど、とそれを聞いて私は思う。
今日おいては、キリスト教だとか、神教だとか、仏教だとか、そういった宗教のように何か統一された共通概念は存在しない。それはこの日本では特に酷い。様々な文化の価値観が入り乱れて混同され、何が正しくて何が悪いかなど、はっきり言えない時代に突入をしてしまっている。
これを単なる無秩序な好ましくない時代と捉えるのか、それとも、新しい時代への成長過程としての必然とするのか、どちらに観るのかは人それぞれだが、はっきりとした基準を私達が失しているのは確かなようだ。
それは"しつけ"問題にも端的に現われている。親達は、何が正しくて、何が悪いのか、しっかりと自信を持って言えなくなってしまっているが為に、子供達に対しての接し方が分からなくなっているのではないか? というのはよく指摘される話だ。
もっとも私は、そんな事を特に気にして子供に接した事はないが……
そんな『善悪』の概念が曖昧な時代では、悪魔もどんな役割を果たせば良いのか分からないでいるのだろう。だから、その存在が漠然として曖昧なのだ。
――わたしは、どうすればいいのでしょう?
と、悪魔は私達に言って来た。
――どうすればいいのでしょう? と言われても、私達としても困ってしまう。勝手に喚びだしておいてナンだけども、どうしようもない。
まぁ それでも、放っておく訳にはいかないので、私は、
「取り敢えず、どうしたいのですか?」
と、礼儀正しく尋ねてみた。すると、悪魔は即答をする。
取り敢えず、形が欲しいです。
悪魔としての、悪魔らしい形が。この時代においても、悪魔の悪魔たる形が。すると、息子がこう言った。
「それって、どうすれば良いの?」
悪魔は淡々と答える。
概念である悪魔がその形を得る為には、やはりその役割が明確でなくてはいけません。概念はその役割に応じて、それに相応しい形を執ります。お化け然り、神様然り、それぞれがそれぞれ、その役割に応じて、その形を持っているでしょう?
優しく慈愛に溢れた神様が、憤怒の表情をしているはずはない。それは、納得のいく説明だった。
「でも、その役割って?」
また、息子。
すると悪魔は、また、またまた即答をした。
やはり、それは明確に悪い事を為す事、或いは人にさせる事でしょう。悪魔といえば、悪い事。それに尽きます。
……という事は、何か "悪い事" それをはっきりと明確に提示してやらなくてはならない、と、いうことだろうか?
悪魔がそう言うのを聞くと、息子はコロコロとした嬉しそうな声で言った。
「それって、とっても簡単だよ。"人殺し"だとか"盗み"だとか、そういう事は今の時代でも変わらずに"悪い事"だよ。だから、それをすれば良いのじゃないかな? それとも、させるのか……」
しかし、それを聞いて、私は周章てた。
人を殺す、物を盗む、この悪魔がそれらをやるにせよ、させるにせよ、どちらにしろ、そんな事をされては困ってしまう。
なんとか、防がなくてはならないだろう。
だから、私はこう言ってそれを制した。
「ちょっと待って」
私のその声を聞いて、「どうしたの?ママ」と、息子は不思議そうにしている。
それで私は、それからTVを点けた。今の時間だと、ちょうどしっかりニュースがやっているはずだ。取り上げられている話題は、都合良くイラク問題だった。
私は淡々と話してやる。
「ほら、これを見て。あなたも知っているでしょう? アメリカは、正義の為だと言って戦争をして、しっかり人殺しをしたの。そして、この日本もそれを支持したの」
「でも、それは相手も悪かったのでしょう?」
「そうね。相手も悪かった。でも、その相手も別に自分達を"悪"だと主張している訳じゃないわ。自分達は"正しい"ってそう主張して人を殺したの。もちろん、その相手を全否定するというのならば話は別だけど、それもできない。だって、相手側にもそういう行動を執ってしまったそれなりの事情があるんだからね。事情を言うのならば、どちら側にも言い分がある。どっちもどっち。それでお互いに正義の為だって言って人を殺しているのだから、"人殺し"も絶対的な悪の基準だとは言えないのじゃない?」
それを聞くと悪魔は、ふーん、と言う。
国家社会を完全に分けられるような時代だったらば、自分の国を基準にして『自分達が殺されるのは悪で、相手を殺すのは正義』でも通るのかもしれませんが、今の時代のようにはっきりとした境界線を失った時代だと、どうもそれも難しいようですね。どちらの立場にも立つ事ができてしまう。俯瞰するのなら、そこに良いも悪いもありません。なるほど、どうやら人殺しは"悪魔の所業"には相応しくないようだ。
どうやら、納得してくれたよう。
すると、息子はこう言った。
「だったら、物を盗むのは?」
すかさず私はこう返す。
「うーん。それも、どうかしら?」
「どうしてぇ?」
「そうねぇ "盗み" が公認されて行われているって事もあるのよ、実は」
と、そう前置きしてから私は語る。
「私達は税金を払ってる。 それは、知ってるわよね?」
「うん」と、頷く息子。
「その"税金"はね。本来は、『社会の皆の為に』遣うものとして集められているの。ところがね、そのお金の一部は、明らかにそんな用途では遣われていないの。どっかのお金持ちの財布の中に流れちゃってるの。これが泥棒をしてるのと同じ行為だって言うのは分かるわよね? で、これが、隠れて悪い事として行われているって言うのならばまだ話は分かるのだけど、中には合法的に、つまり、法律的に認められている事として、そんな事が行われてるの。そして、そんな状態を私達は野放しにしている。つまり、結果的に公認しちゃっているのよ」
それを聞くと、また悪魔は、ふーんと言った。
なるほど、なるほど、どうにもそれを聞く限りでは、物を盗む行為も"悪魔の所業"としては相応しくないようですね。生活に困っての仕方のない盗みや、苦悩と混乱による情緒不安定性の万引きなどが、とても酷く糾弾される一方で、盗んだも同然で大金を不当に稼いでいる人物が、公の場で認められて、しかも権力までもを握っている。
どうやら、今度も納得してくれたみたい。
「じゃあ、どうするの?」
と、それを聞くと困った顔をして息子は言った。
――どうするの? と言われても困ってしまう………
結局、元の木阿弥になってしまった。
まぁ いつの時代だって、ルールなんてものは矛盾だらけのものなのだ。人が決めている事なのだから、仕方がない。完全なんてあるはずがない。言及していけば、おかしな点は絶対に見つかる。もちろん、それらを全て疑う事なく信じていられるのならば話は別だが、今の時代にはそれがない。
疑える要素が多すぎる。
だから、悪魔は住み難いのだろう。
「うーん…… 取り敢えず、TVを点けておくから、それでその悪い事を探してもらいましょうよ」
と、困ってしまった私はそう言った。
そうしておけば、いつかはきっと、諦めて帰るか消えるかするだろう……。そんな風に楽観的に考えたのだ。
夕方が過ぎ、私は夕飯の準備をし始める。そんな中で悪魔はTVを見続けていて、息子も一緒になって同じようにTVを見ていた。結論はやっぱり出ないみたいだ。もっとも、出されてしまっては困ってしまう。結論が出てしまったようならば、なんとかそれを否定してやらねば。
そうしている内に、高校生になる娘が学校から帰って来た。もちろん、娘は悪魔を見て(感じて?)驚く。
「いったい、なんなの?これ?」
私は事の経緯を説明してやった。……だから、悪魔の悪魔たる所業が必要なのだ――、と。すると娘は腕組みをする。
「はぁ〜ん なるほどねぇ」
と、ちょっと考え、なんだか少し嬉しそう。そして、悪賢そうに私を見た
なんだ? 何をたくらんでいる?
と、私は少し不安になった。娘には小理屈をこねる癖がある。どうにも、何かよろしくない。
それから娘は悪魔にこう言った。
「 ねぇねぇ ねぇねぇ 悪魔さん 誰もが認める悪い事。一つだけならば、確かにあるわよ」
私はそれを聞いて目を丸くした。
――なんだって?
それを聞いた悪魔自身も戸惑っている。そして、戸惑ったままで問い掛けた。
それは、いったい、何なのでしょう?
娘はにたりと笑ってこう返す。
「それは、ねぇ "何にもしない事"」
なんにもしないこと?
そう、悪魔は言い、私は思った。
「そうよ。そこに確かに解決すべき問題がある。たくさんの人が苦しんでいて、困っている。なのに、『自分には関係ないや』で何にもしないでいる事は、どんな場合でも悪い事であるはずよ」
「――ちょっと待って、」
そこまでを聞いて私は言った。このまま娘に語らせてはいけない。娘は絶対に何かを企んでいる。……恐らくは、このまま話が進めばその矛先は私へと向かう。
「何にもしない、のじゃなくて、何にもできない、のじゃないの? 個人の力じゃどうしようもない、だから、何にもしない。それは意図的なものじゃなくて、半ば仕方のない事なんじゃないかしら? だったら、それを悪い事ってするのはおかしいわよ」
それを聞くと、皮肉をたっぷり込めた視線で私を見ながら娘は言った。
「あ〜ら、そうかしら?」
なんだ? というのだ…
「お母さんは、私が、『役に立たない勉強なんかしたくない』って言ったらいっつも、『世の中の事を全て知っている訳でもないあなたに、どうしてそれが判断できるの? もっとよく調べて、考えてからそういう事は言いなさい』って説教をするじゃない。それと同じよ。 "個人の力じゃどうしようもない" なんて、どうして言い切れるの? 世の中の事を全て知っている訳でもないのに。本当に、個人にできる事は何もないのか、それをよく調べて考えてから、そういう発言はするべきじゃないかしら?」
ぐぬぬ…… やはり、悪い予感は的中をした。これがやりたかったんだ、この娘は。私が困っているのを見て、小賢しい娘はとても嬉しそうにしている。
「テスト勉強はするべきで、世の中の為に何かする為には勉強をするべきじゃない、なんて、おかしな理屈だと思うけど。 それとも、どっかの知らない誰かに任せておけばイイのかしら? もちろん、頭から自分の行為は"正しい"って、信じ込んでやられるとちょっと困る。そういう態度は、色々な問題を生じさせてしまうもの。でも、自分を疑って否定しながらなら、少しずつでも前へ進めるはずだ、と私はそう思うのよね」
どうにも、いつもの仕返しであるらしい。勉強しろ、と言い過ぎた。
「そういえば、お母さんは何にもしてないわねぇ」
案の定、続けて娘はそう言った。
それを聞いて、息子と悪魔は私に注目をする。その三つの視線に耐えきれず、とうとう私は降参をした。
「分かった。分かったわよ。私は悪いわよ。私は"悪魔の所業"を行っています!」
戦争紛争、幼児虐待、自殺に犯罪、環境破壊 この世の中に、たくさん起きている悲しく哀しい出来事達。それを起こしている本当の張本人は一体誰? それらが解決しないままでいる本当の原因は何なのかしら?
"自分は悪くない"
で、それを放置してしまっている、そんな人。自分が悪い訳でも、自分に何か悪い事が起きる訳でもない。
だから "自分は悪くない" で、自分を肯定。自分を肯定しているから、何にもしない。何にもしないから、社会は何にも変わらない。いつまで経っても社会はずっと悲しいまま。悲しい社会を肯定してる。ほんの少しの努力でさえも惜しむくせに、ちょっとでも自分に責任がかかりそうだったら、ちょっとでも自分に迷惑がかかりそうだったら、精一杯にそれを避けるくせに、自分は悪くないと思い込んでいるものだから、何かあったら他人を攻める。文句だけは言いまくる。
少しは自分の所為だと思おうよ。少しくらいは、努力をしよう。
悲しい社会は、悲しいまま……
……それで"悪魔の所業"がはっきりとして、その形を得たはずの悪魔が、その後どうなったのか、というと……
「……ちょっと、あなたいい加減に帰ってよ」
『いえ、それはできません。だって、奥さん。あなた何にもしてないじゃないですか』
………そう。悪の象徴である悪魔は、私が何もしないでいる限りにおいて、いつまでも存在し続けるらしいのだ。
……もっとも、この悪魔。おそらく、何処にでもいるのだろうけど。