食べちゃう、やり方
(僕)
なんだろう?
と、朝起きた時に僕は思った。腹の辺りに違和感がある。また眠っている間で何かを食べてしまったのかもしれない。それでそう考えた。
僕は眠っている間に、何かを食べてしまう事がよくあるんだ。もっとも、それが何かは分からないのだけど。
(あたし)
いけない。
と、あたしは朝起きて思った。多分、何かに食べられてしまった。
眠っている間に見た夢。はっきりとは覚えていないのだけど、その曖昧な夢の残滓に何かに食べられたような感触がこびりついている。
どうしようかとしばらく迷ったけれど、夢の中で何かに食べられたところで、現実生活にはそれほど関係ないだろう点に思い至ると、無駄にしてしまった時間を取り戻すべく、あたしは猛スピードで学校へ行く準備をした。しばらく呆然として、意味もなく悩んでいたのだ。
遅刻をしてしまう。
でもあたしは、その夢の中の感触を、完全に振り切れていた訳ではなかった。頭の隅にはちょっとした不安が残っている。不安?いや、それはそれよりももう少しだけ具体的なものだ。何か。何かがあたしの中から抜け落ちている。そして、その抜け落ちているという感覚が何故かあたしを責めていた。
あたしは何かを失ってしまった。本当に、それでいいのか?
なんとか遅刻ギリギリの電車に駆け込み、ようやく落ち着きを取り戻すと、あたしはその夢の中の感覚について考えてみた。
あたしは何かに食べられたんだ。でも、問題はそこじゃない。問題は、あたしの中の何を食べられたかだ。
あたしは今の自分を想ってみた。何か欠けているものがないか。自分の名前。友人関係のあれこれ。学校の勉強。重要そうなものを思い出してみたけれど、何も失ってはいないように思えた。一応、携帯電話の番号から、キャッシュカードの暗証番号まで色々と確認してみたけれど、何も忘れてはいなかった。次にあたしは、昨晩の自分の状態と今の自分の状態を想ってみた。そこで、異変に気が付く。
あれ?
とそう思った瞬間、目の前にいる若いサラリーマン風の人が驚いた顔になった。時々同じ車両で見かける人だ。自分では気が付かなかったけど、どうやら声に出してしまっていたらしい。驚かせてしまったようだ。
軽く会釈する程度に謝ると、あたしはまた考えに集中をした。
そうだ。あたしは確か、昨晩とてもイライラしていたように思う。でも、何故か今朝は少しもイライラしていない。
もしかしたら、夢の中で食べられてしまったのは、あたしのストレスなのだろうか?
(僕)
いつもは眠っている間に食べてしまったそれが何であっても、僕は別に気にしない。いちいち気にしていたら身が持たないからだ。しばらくすると、消えてなくなるし。
でも、その時に食べたそれはなかなか消えてはくれなかった。
生霊かもしれない。
と、それで僕はそう考える。実体のない連中と比べて、生霊はいつも消化が悪い。それを僕は経験で知っていた。きっと、エネルギーを生霊の主が供給し続けてしまうからじゃないかと思うのだけど。
やれやれ、
どんな人の生霊なのだろう?
本当を言ってしまうのなら、僕は生霊の主に興味なんか持っていないのだけど、もしこのままいつまでも残るようなら、その主を知る必要が出てくるかもしれない。お腹に圧迫感を抱えたまま過ごすのはあまり心地いいものじゃない。こいつを消し去るのは、本人に当たってみるのが一番手っ取り早いはずだ。もっとも、もしその本人を見つけられたとしても、何と言えば良いのかは見当もつかないけど。
僕はお腹に違和感を感じたまま、モソモソと朝食を取ると、出掛ける準備をして家を出た。
駅までの道を歩きながら考える。
生霊の主が何かしら異変に気が付いていてくれていれば、少しは話がし易いかもしれない。このまま腹の中にこれが存在し続けるのなら、本気で生霊の主と話し合う事を考慮しないといけないだろう。
もちろんそんな事を考えたのは、お腹の中のそれが少しも消える気配を見せなかったからだ。それどころか、むしろ益々存在感を強くしていっているようにも思える。
もっとも、生霊の主が誰なのか分からなければ、話し合う事すらできないのだけど。
……どうしたものか。
電車に乗り込み、吊り革を持つ。窓の外の景色を見ながら、なんの気なしに『せめて、この腹の中にいるものが、何か喋ってくれでもすれば、まだやりようはあるのに』なんて事を考える。その瞬間だった。
『あたしだって、好きで生まれた訳じゃないんだからね』
そう、声が聞こえたのだった。
思わず辺りを見回す、目の前にいる女子高生と目が合ってしまった。何を勘違いしたのか、その子は軽く会釈して謝ってきた。少し悪い事をしたような気になったけど、そんな事を気にしている場合じゃなかった。
僕の直感が正しければ、その時に言葉を発したのはお腹の中の“何か”だったからだ。
(あたし)
授業中。先生が何かを言っていたけど、もちろん授業に集中なんてできない。消えていたイライラ。あんな嫌な気分がなくなっているのだから、むしろ感謝しなくちゃならないくらいの好い事なのかもしれない。でも何故か、あたしにはそうは思えなかった。大切なものを失ってしまったような気がする。
あたしは何をイライラしていたのだっけ?
それを思い出そうとする。
確か…… 勉強。進路の事について、親に言われた事を、あたしは怒っていたんだ。親の勝手な希望を押し付けられて、それが気に入らなくて………。
何があったのかを思い出すと、消えていたはずの嫌な気持ちが少しだけ浮かび上がってきた。そうだ。あたしの意見を無視してあの人達は身勝手な事ばかりを言っていた。あたしがやりたくない事を、まるで決定事項みたいに。いい加減にして欲しい。自分の進路くらい自分で決めたい!
……もっとも、嫌いな勉強を避けるくらいしか、あたしが自分の進路選択の基準に持ち合わせていないのも事実だけど。
そこまでを考えた時、あたしは周囲の空気の変化に気が付いた。前を見てみる。すると先生が無言で立ち尽くしていた。あたしは凍りついた。
「授業に集中できないようだな。ノートも取らないで」
「はい… すいません」
この先生はそんなに怖い先生ではないけど、締める所はしっかり締める。そういう人だ。あたしはきつく叱られるかと次の言葉を覚悟した。けど、どうしたのか、先生はそのまま何も言わずに教壇の上に戻っていったのだ。そして、あたしの名前を言うとこう尋ねてくる。
「……さんは、朝食は摂ったかな?」
「いえ、食べてません」
今朝は大慌てで出てきたから、当然、朝食も取っていない。すると、先生は「それはいけないな」と、そう言って、それから更に続けた。
「大体の人の、夕食を取る時刻は夕方の六時から八時の間だ。それから色々やって就寝し、みんなの場合、朝起きて学校へ行く訳だ。そして十二時頃に昼食を摂る。
さて、ここで考えてみてくれ。
もしも、朝食を摂っていないとすると、昨日の晩の七時頃から今日の十二時まで、約十五時間ほど何も食べない事になる。これは、それなりに長い時間だよ。
脳のエネルギー源は糖だけど、もちろん、それが枯渇する。すると、脳は上手く働かなくなってしまうんだ。授業に集中ができなくなるのも当然という訳だ。ダイエットの為だって言って朝食を摂らない人もいるようだが、非常に健康に悪い。止めなさい。ダイエットにとっても逆効果だしね。朝食はしっかり摂らなければならない」
どうも変だと思ったら、どうやら先生は“朝食抜きの習慣”に対する説教がしたかっただけらしい。あたしはその題材に使われてしまったのだ。
なんだかな、と思ったけど、その時に先生の言った言葉があたしの耳に残った。
「そういう悪い習慣は、ストレスにもなる。美容にも悪いぞ」
(僕)
勘弁して欲しかった。
喋ってくれれば、と思いはしたけど物事には限度ってものがある。通勤電車の中で初めて口を利いたそれが、次に喋り始めたのは職場で仕事をしている最中だった。電車の中での事を思い出して、試しに心の中で話しかけてみると、なんと反応があったのだ。
『ここは何処?』
そしてそれからは凄かった。堰を切ったように喋り始めたのだ。
僕の仕事とか、僕が何をしているのかとか、彼女はいるのかとか、そんな事を延々と質問してくる。お陰で、それからしばらく仕事にならなかった。一応お腹の中のものは、人並みの思考くらいはできるらしい。ただ、彼女(どうやら“それ”は女性らしかった)には、自分の事についての記憶はあまりないようで、僕の方から質問をすると何も答えてはくれなかった。
『どうでも良いじゃない』
そう言う。僕にとってはあまりどうでも良い事でもないのだけど。
……もっとも、誤魔化しているだけで、ある程度の記憶がある可能性もある、か。
昼休み。昼食を取っていると、案の定お腹の中のものは、僕に話しかけてきた。
『ホウレンソウ食べないでよ。あたし、ホウレンソウ嫌い』
なんと驚いた事に、僕の食べているものが分かるらしい。しかもそれだけじゃなく、味覚まで感じるようだった。
『そうはいかない。僕はホウレンソウは嫌いじゃないし、食べないと栄養バランスが崩れちゃうだろう』
『自分勝手な事言わないでよ。あなたは平気でも、あたはしは平気じゃないんだから』
どっちが自分勝手なんだと思ったけど、考えてみれば彼女も好きで僕のお腹の中にいる訳じゃない事を思い出して、それは言わなかった。代わりにこう言う。
『ホウレンソウが食べられないなんて恥ずかしいと思うぜ。まるで、小さな子供みたいじゃないか』
すると、彼女は不服そうな口調でこう返してきた。
『仕方ないじゃない、嫌いなんだから』
仕方ない?
それを聞いて僕は疑問の声を上げる。
『仕方ないって事はないと思うよ。克服するよう努力すれば良いだけじゃないか』
だけど、それは彼女にとっては理解不能な言葉だったようだ。
『自分の好き嫌いなんてどうにもならないでしょう?』
自分に責任はない、とそう言いたいらしい。
『そんな事はないよ。事実、僕は子供の頃たくさん嫌いな物があったけど、今はほぼ全部食べられるようになっている。つまり、やろうと思えば、ある程度の好みは自分で変える事ができるんだ。
食べ物についてはコツがあってね。これは自分の身体に良いって思いながら食べると、少しずつ受け付けられるようになるよ』
それを聞くと彼女は黙った。それで遠慮なく僕はホウレンソウを食べてやる。全部食べ終えると、彼女はこう言った。
『でも、嫌いなものを食べるのは苦痛だわ』
僕はその言葉に頷く。
『そうだろうね。でも、そういったストレスを嫌がっていたら、いつまで経っても自分を克服はできないよ。
少しのストレスを拒絶して、ホウレンソウを嫌いな自分を護り続けていたら、ホウレンソウを食べられる自分にはなれないんだ。
分かるかな?
成長ってのは、自分を否定する事でもある。自分を否定できなければ変われない、変われなければ成長ってできない。人間は今の自分を肯定したがる生き物だけどね』
彼女はそれに対して何も返さなかった。けど、腹の中の感触で分かる。彼女が、何かしらの胎動をし始めているのが。僕はその時、少しだけお腹の彼女に好感を持った。そんなに悪い子でもないみたいだ。
(あたし)
おかしい、と思った。
あたしは確かに、ストレスを失ってしまったはずだ。でも、そのストレスはあたしの知らない所で勝手に蠢いて、少しずつ変形しているように思える。そしてあたしに触れてくる。これがとても変な表現であるのは分かっているのだけど、どう説明したら良いのかあたし自身にも分からないんだ。あたしに影響を与えてくる変な感触があって、その正体があたしが失ったはずのストレスであるように思えてならない、とでも言おうか。
この感覚が強くなったのは、電車の中だった。近く。人垣に遮られて見えない向こう側から言葉が聞こえて来た。男の人の声。独り言だった。でも、何故かあたしはそれが独り言だとは思わなかった。
誰と喋っているのだろう?
そんな風に考えたのを覚えている。
だけど、思い出してみると、あたしはその男の人の声しか記憶していなかった。つまりは独り言であるはずなんだ。しかし、にも拘わらずあたしはそう理性で判断した後も、まだ相手がいる事を想定していた。
誰かと喋っている。
まだ変な事がある。電車の中で、その男の人はけっこう長く独り言を続けていた。だけど、あたし以外でその独り言を気にしている人は、一人もいないようだったのだ。あれだけ喋り続けていたら、下手したら注意されると思う。
そんな訳で、あたしは“もしかしたら”と思い始めたんだ。
もしかしたら、あたしのあのストレスを食べたのは通学電車の中に乗っていた“誰か”なのじゃないかって。
――あたしは多分、あたしのあのストレスを取り戻さなくてはいけないのだと思う。なんでか分からないけど、他のストレスと違って、どうやらあのストレスはあたしにとって必要なものであったらしい。
どうしてなのだろう?
あたしはそれについて考えてみた。
朝食。先生に注意されてから、あたしは毎朝ご飯を食べるようにしていた。先生の説明には納得がいったし、元々毎日朝食を食べていなかった訳じゃない。少し努力すれば、それを習慣に変える事は簡単だったのだ。
ストレス…… あたしの身体にかかる負荷は、それで少しは楽になったのかもしれない。これも、多分ストレスを失った内の一つなのだろう。でも、これは失っても全く気にならない。当たり前だけど。
つまり、あたしが失ったモノは、ただのストレスじゃないんだ。それは、もしかしたらあたしの“悩み”そのものなのかもしれない。そして、その“悩み”はあたしにとって必要なものだったんだ。
でも、あたしは一体何を悩んでいたのだろう?
両親の事? 進路の事? でも、そんなものは単なる上っ面に過ぎない気もする。本当はその奥にもっと深いモノが潜んであるような気がする。
あたしにとって重要な、根本的な何かが。
そういえば、どうしてあたしは両親から進路を押し付けられる事にあんなに怒りを覚えたのだろう? 特にその進路が嫌だった訳じゃないんだ。多分、あたしはそれを両親が押し付けてきたという事実に、怒りを感じていた。つまりは、単純に反発をしたかったってだけなのだと思う。
あたしの意見を無視しているような態度に、あたしの存在を否定されているような感覚を覚えてしまって。
朝食。先生に注意をされて、あたしが毎朝ご飯を食べるようになった…… なれたのは、それがなかったからなのかもしれない。
先生の言葉は、あたしの中に命令としては響かなかった。説明に納得もできた。それで、あたしは素直に自分を悪いと反省する事ができたんだ。あたしは自分を護る必要がなかったから。
こういう事は、他にも思い当たる。
例えば、あたしはホウレンソウが食べられない。単純に食べられないだけじゃなくて、その努力すらもしてこなかった。もっと言うと、あたしは積極的にホウレンソウが食べられない自分を護ろうとしていた。
自分自身を肯定したかったからだ。
でも、肯定するべき理由は何処にもなかったように思う。多分、あたしは無駄に意固地になっていたんだ。みんなから、ホウレンソウを食べられない事を悪く言われて、反発を感じて。それで自分の事を護る為に、“ホウレンソウが食べられない”事を無理矢理に正当化した。しかもそれだけじゃなく、あたしは、それをあたしの一部分にしてしまったんだ。
つまり、ホウレンソウを食べられるように努力するのは、自分を否定する事でもあったんだ。だからあたしは、頑なにそれを拒否していた。
そう考えると、とてもくだらないように思える。あたしは意味のない事に固執していた。
でも、それなら、反発を感じずに何でも周囲の言うままになれば良いのかというと、それも違うように思う。多分、そこにはあたしという存在が必要なんだと思う。受け入れるにしても、拒否するにしても、それがなくちゃいけない。
あたしが失ってしまったモノは、多分そういうものに関係する何かなんだろう。
(僕)
お腹の中の子が、突然に自分の両親について話し始めたのは通勤電車の中だった。どういう切っ掛けなのかは全く分からなかったけど、どうやら進歩したらしい。
気配や口調から、それが彼女の存在理由の肝になっていると考えて間違いないと僕は思った。
慎重に対応しなくちゃいけない。
なんとなく予感していた事ではあったけれど、それは愚痴に近いものだった。彼女は両親に対する文句を言い始めたのだ。それは主に彼女の進路に関わる事だった。
最初の頃は、僕はそれを半ば受け流しに近い感じで聞いた。何か意見を言うには、もう少し事情を知らなくちゃいけないと思ったからだ。適度に質問を混ぜつつ、漠然と感じを掴んでいく。彼女が一方的に話している内容だから、自分を正当化する方向に多少なりとも捻じ曲げられている可能性が高い。それを考慮しつつ、彼女の話している内容から、どう返すべきなのかを僕は頭の中で纏めていった。
それからお腹の中の子は、ある一定の時間置きに自分の両親に対する愚痴を言った。別の話題を振っても、しばらくが経つとまた両親の話題へと戻ってしまう。
恐らく、僕の予想通り、この話題は彼女の存在の重要な部分を占めているのだろう。だから、それから離れられないんだ。
……昼休み。何度目かの、両親の愚痴を彼女が言い終えると、僕はこう言ってみた。
『でもさ、君は親の立場を考えてみた事はあるの?』
タイミングを見計らったつもりだったけど、彼女の反応はややきつかった。
『なにそれ?』
おっと、いけない。構えさせたら、多分失敗する。そう危機感を覚えた僕は、次にできるだけ柔らかい感じでこう問い掛けてみた。
『多分君の両親は、何かしらの理由があって、君にそういう希望を言ったのだと思うよ。君に対する期待とか、色々。
どうして両親がそういう事を言ったのか、心当たりはないの?』
彼女はそれに沈黙で答えた。彼女は、両親が何故そんな希望を自分に押し付けてくるのかを考えた事が一度もないのだ。
『………』
つまり、彼女も両親と同じ様に自分の立場ででしか、相手を考えてはいなかったという事だろう。
『どうして、そんな事を考えなくちゃいけないのよ?』
『共同生活者の立場や意見に配慮するのは当然だろう? しかも、相手は自分が色々と負担をかけている人間だぜ』
それを聞くと彼女はまた黙る。
充分な間を取った後で、僕はこう言ってみた。
『なんで君は、相手の立場を考える必要がないと思っていたのかな?』
その質問に彼女が沈黙で返すのは分かっていた。僕が彼女の立場でも、多分そうするだろう。
『それが人間関係として許されるのは、子供の立場だけだと思うよ。でも、君は自分が子供扱いされる事を怒っていたように思う。ちょっとした矛盾だね』
相変わらず、何も言いはしなかったけど、彼女がその理屈を受け入れられた事はなんとなく分かった。後は、気持ちをそれに追いつかせるだけだ。それには、もう少しだけ時間がいるだろう。余計な刺激は不要だと判断して、僕はその後は彼女をソッとしておいた。
(あたし)
変な夢を見た。
あたしは何かに依存していて、それと繋がっている。不可分なのだ。でも、あたしは同時にそれをとても嫌がってもいた。気に入らないでいる。だから、それを切り離さそうとした。でもそれは離れなかった。どれだけ遠くに逃げても逃げられなかった。
あたしはとてもイライラしていた。
どうしても、それが離れなかったからだ。その現実を突きつけられると、あたしは怒りを覚えた。その怒りでそれを切り離そうとしているのだと、自分では思っていた。だけどそれは違った。むしろその怒りは、気に入らないそれをあたしの一部に組み込んでしまっているからこそ発生するものだったんだ。その怒りがある限り、それはあたしの中から離れない。
『それが人間関係として許されるのは、子供の立場だけだと思うよ。でも、君は自分が子供扱いされる事を怒っていたように思う。ちょっとした矛盾だね』
その言葉を聞いた瞬間、あたしはそれを理解した。
怒りには意味がない。
その言葉を誰が言ったのかは分からなかったけど……。
少しずつ怒りを治めると、あたしは、その切り離そうと思っているモノの立場を想ってみた。切り離せば、それは自ずから他のモノになるんだ。だから、それの立場も想像できるようになるはず。すると不思議な事に、その瞬間に自分の形ができた気がした。それを切り離す為に引いた境界線が、そのまま自分の形を浮かび上がらせた感じだ。
そして、それを観た瞬間にあたしは思った。あたしが本当にしたかったのは、気に入らない何かを切り離す事じゃない。あたしは、自分の形を手に入れたかったんだ。あたしがイライラしていた本当の理由は、この線がなかったからなんだ。
(僕)
なんだろう?
と、朝起きた時に僕は思った。腹の辺りに違和感がある。妙にスッキリとしている。しばらくが経つと僕は悟った。
ああ、お腹の中の子がいなくなっているのか。
少し寂しいかもしれない、とそう思った瞬間に声がした。
『おはよう』
驚いて辺りを見回すけど、誰もいない。すると、何かがクスクスと笑った。
『食べる事ができるくせに、見る事はできないのね』
あの子の声だ。
僕は溜め息を漏らすと、こう答える。
『お腹の中からは出たんだ』
『出たのじゃなくて、出てたのよ。或いは、出れたというか。もう少しあのままでも良かったかもしれないけど』
『あははは。それは勘弁してよ』
それから僕は朝食を食べて、仕事に行く準備をした。彼女はのん気なもので、その様子を見ながら『朝食を食べるのは良い習慣よね』、なんて言ってくる。出掛ける前、少し考えると僕は彼女を誘ってみた。
『一緒に行ってみる?』
『どうして?』と、それに彼女はそう返したけれど、そこに不思議そうな響きは感じられなかった。
『なんとなく、まだ終わりじゃない気がするんだ。君はまだ進まなくちゃいけない』
多分、それは彼女も感じていた事だったのだろう。素直に僕の言葉に同意した。ただ、一緒に出掛けると言っても、見えも触れもしない相手だから、どう確かめれば良いのか分からない。それで僕は印として、手を繋いでいるようなポーズを取った。なんとなく格好だけでもそれらしくしたかったんだ。
そのまま僕らは駅へと向かった。誰もいないのに手を繋いだポーズをしているから、周囲の人達は多分変な目で僕を見ただろう。
今日の電車はいつもよりも混んでいた。それで手を繋いでいるポーズをする事が難しくなってしまった。人の波に揉まれる。人の壁の向こうに、腕だけが引き込まれた。それでも必死に僕は手を繋いだポーズをし続けた。
やがて乗り換え先の多い駅に辿り着くと、たくさんの人が電車を降りた。人が少なくなっていく。その時に、僕は手に違和感がある事に気が付いた。温かい。そう、僕はいつの間にかに誰かの手を握っていたのだ。
僕は驚いてその手を離す。見ると、相手は女子高生だった。時々、同じ車両で見かける娘だった。
それからその女の子は、少し恥ずかしそうにすると、何故か僕にこう言ってきた。
「ありがとうございました」
その瞬間、僕はお腹の中の子が僕を離れて、元の場所に帰ったのだという事を悟った。
(あたし)
混んでいる電車の中。あたしは、何か重要なモノを見た気がした。ずっとあたしが探していたモノ。
気が付くとあたしは、無理矢理に人の間に割り込んで、それに手を伸ばしていた。人の壁の向こう側で、その存在の手をあたしは握った。
今日の電車は混んでいて、握ったままでいるのも大変だった。人の群れに圧迫される。やがて、ある駅に辿り着くと一気に人が降りた。あたしは手が解かれないように必死に握り締めた。人が引いて視界が広がる。自分が握っていた手の相手が見える。そして、あたしは驚いた。
サラリーマン。
あたしが手を握っていた相手は、時々電車で見かける若いサラリーマンだったのだ。
慌てて手を離す。
どうして?と思いはしたけど、不思議と混乱はなかった。そして、その後であたしは自然とこう言っていた。
「ありがとうございました」
その時、あたしは自分が失ってしまっていたものを取り戻したのだと実感した。