環境“問題”懐疑
……ちょっと前の話なのですけど、僕、ゴキブリを殺したんです。部屋の中を這い回っていて、それで、嫌だなって思って、だから殺したんです。
いらない雑誌を丸めて、思いっきり叩きました。そうしたら、ブチュッって厭な音を発てて、中身がはみ出て、死にました。
まだ、微かに動いてはいたけど、でも、まぁ、死んだ。
つまり、僕は彼を殺してしまったのですね。
そうして、その時にこんな空想をしたのです。このゴキブリは、僕の事をなんて思ったのだろう?この僕にたったいま殺されたその刹那、一体、どんな感情を僕に対して抱いたのだろう?
もちろん、ゴキブリに感情なんて機能はないだろうから、別に何にも思っちゃいないだろうと言うのが、正解だと思いますよ? ただ、何かの電気信号をその神経回路に巡らせただけだろうと思います。 でも、ですね、ところが、困った事に、どうやら人間であるこの僕には、感情の機能がしっかりと備わってしまっていて、だから、その感情が存在する僕の主観から、他者であるゴキブリを想像すると、途端にゴキブリは擬人化してしまって、そして、苦しんでいる状態なんかが想像できてしまったりするんですよ。
そして僕は、そのお陰で、罪悪感なんかを僅かばかりではあるけど、感じてしまうのです。つまり、後味が悪いのですね。そしてその時に僕は、その罪悪感を理不尽だとも思う訳です。だって、ゴキブリには痛みなんて感覚は存在しないだろうと現代のところまでの科学では、一応、予想できる訳だし、だから、苦痛なんて感じちゃいないのだろうし…、というか、その前に、例えそうであったとしても、僕にはゴキブリを殺す以外の選択肢はない訳なのだから、罪悪感なんてモノを感じる必要は根本的にないはずで…、
こういう事を語ると、“命”というモノを盲信的なまでに美化させて、それを信仰をしてしまっているような、全く自分の考えを疑うつもりのない人は、とても怒るのかもしれないけど…、
もちろん、そんな後味の悪さをいつまでも抱えている訳じゃないです。ただ、それでもこの僕に、それらを完全に払拭できるはずもなくて、そして、そういったような心の流れは、生きていく上で必然的に経験していく様々な事々によって、何回も発生していて…、
例えば、目も開かない内から捨てられてしまい、可愛く可哀想な鳴き声を、冷たい雨の中に響かせて、必死に助けを求める仔猫たちを、あっさりと見殺しにした記憶。翌日、その仔猫たちは、やっぱり死んでいた。大丈夫、きっとまだ、自我だって発生していなかったはずだから、苦しみだって、生まれてない意識の中じゃ、そんなに感じなかったはずだから。…。毎日生き物を平気で食べて、自分が生きる上での犠牲にしているこの僕が、そんな罪悪感を想うなんて偽善でしかないはずで…、
そんな言い訳を繰り返す。
そうして、そんな経験によって発生した感覚は、やがては、僕の思考の大きな潮流の一つとなってしまう。その潮流を辿っていくと、ある種の会議に辿り付く事になる。そして、その会議は、場合によってはこんな容を取るのです。
環境“問題”懐疑
僕は乗り物に乗っていた。
静かで。そしてそれは、とても速い乗り物だった。
感覚としては、新幹線に酷似している。でも、それが新幹線であるかどうか、僕にはどうしても自信が持てなかった。だって、その場所に行くのには、新幹線なんかじゃとても無理だという事を、僕ははっきりと自覚していたから。これは便宜上、新幹線という姿を執っているだけなのだな。そう結論付ける。僕はそれからシートにゆっくりと身体を沈み込ませると、辺りに他の乗客がいないかどうかを確かめてみた。
あまりに静かすぎるから、それほど期待はしていなかったのだけど、よっく探すとそれはいて、右斜め前方の一つ前のシートに、黒い影が乗っていた。そうして、案の定、それはどうやらゴキブリだった。
なるほどね…
僕はそう思って、目を瞑る。
これは、そういうルールの世界か。
僕はきっと少々早過ぎる時間にこの乗り物に乗ってしまったんだ。だから、ゴキブリなんかと一緒に乗るはめになる。否、何も、ゴキブリを差別しているのじゃないよ、僕は。生態系を考えるのなら、ゴキブリは本当に素晴らしい種だと思うもの。人間の創り出した社会という環境に、いとも簡単に適応し、そうして繁殖をし続けている。こんな事ができるのは滅多にいない。他にできているのはハエとかドブ鼠とかくらいだろうか?本当にたくましいと思う。だから、そういう意味じゃ、環境の事を聞いたりなんかするのに、ゴキブリという相手は、とっても面白いのかもしれない。
………。
人間が創り出したこの社会は、今の所、西洋的な環境概念にその多くを基づいて形成されているのだろう。西洋的な環境概念というのは、人間を中心に置いて、人間にとって都合良く環境を作り上げていこうとする発想で、つまりは、自然を支配し、コントロールしようとするモノだ。だから、人間にとって邪魔なモノは淘汰され、排除されてしまう。
ところがこのゴキブリは、そうやって作られた環境に上手く適応して生き残ってしまった。人間は、排除しようと思っても、彼らを排除できなかったのだ。
そして、その存在を、僕らは感覚として気持ち悪いと捉えてしまう。僕らが気持ち悪いと嫌悪するそれらは、奇妙な事に、人間が支配しようと思っても支配し切れなかった社会の暗部を住処にして、繁殖を繰り返している。
生ゴミや排泄物を餌として、街の隅の奥底を蠢きまくる。
まるで、人々の、自己中心的な発想の、その醜さの象徴であるかのように。
それらが僕らにとって醜いのは、或いはそんな理由であるのかもしれない。彼らを醜く感じるのは、僕らに醜さがあるからで、それらは、僕ら自身の心の投影なのだ。
もちろん、こんな思考は、ただの空想に過ぎない事ではある。ゴキブリを可愛いと感じる人も実際いるし、そういった人の心に醜さがないなんて言えないだろう。
さて、一方、西洋的環境概念に対して、東洋的環境概念というものもある(一応、大きく対にしてみたけど、便宜上の把握の仕方でしかない。西洋、東洋以外にも社会はあるのだから)。これは、人間を自然の一部として捉え、自らをその輪の中にある存在、または、あるべき存在だと考える発想だ。
現在、環境に対する考え方は、こちら側に移行しつつある。
多くの失敗を通して人間社会は、こちらの方が正しかった事を悟ったわけだ。
生態系というものを全体から、一つの主体として捉えた場合、人間社会というものもその一部でしかなく、その中で生かされている存在だ。だから、社会を維持継続させていく為には、その“生態系の輪”の中に自らを組み込む事が必要なのだ。人間は、必然の流れから、それを知った。
その発想をベースに考えるのなら、ゴキブリが存在する環境に生きている僕ら人間は、そのゴキブリたちと同一の生態系に在るのだという事になる。
つまりは、人間が意識するしないは別問題にして(そもそも、生態系の中の生物達は、自分達の役割を意識して担っている訳ではないのだけど)、人間はゴキブリに協力をしているのだ。これは、餌となるゴミを、結果的に与えてしまっているという事だけじゃない。ゴキブリを殺す事だって、“生態系”という基準で物事を考えるのなら、それは、ゴキブリに協力をしている事になるんだ。
それは数の調整を行うといった事だから。
増え過ぎたゴキブリを、殺して少なくしてやる。そうしなければ、増え過ぎたゴキブリはやがては餌を食い尽くし、それによって環境を破壊し、自らが生きる生態系を失い、それによって自分達の餌を消滅させ、結果的に自らを絶滅の危機に立たせる事になってしまう。そうならない為には、僕らがゴキブリを殺してやらなければならない。今の所、社会という環境下においては、増加を抑えられる程ゴキブリを多く殺せる種は、人間以外には存在していないのだから。
人間が社会を創り出す過程で生じた、不完全な生態系ではあるけども、それでも、この関係は生態系の一部だ。人間とゴキブリはその同一の生態系の中で関係をし、共存をしている。ゴキブリが死んで土に返り、分解をされ、別の生物達の糧になる、という流れが充分ではないという点で、生態系の輪は成立しているとは言い難いのだけど、それでも。
……。
「なるほど、だからあなたは、私達を殺すのは必然的な事だと思っているのですね? だから、罪悪感を感じるのは馬鹿げているのだと」
突然、前の席から、声が聞こえた。黒い影。そして、それを言って来たのは、その黒い影、つまりはゴキブリだった。
「その通りさ」
僕は答える。
そして、そう答えた瞬間。新幹線の車両の中のような風景に、突然、前方からサバンナの景色が迫って来た。
ゴキブリの背後に、サバンナの景色が広がっていたのだ。
次、だな。
それを見て僕はそう思う。
次の場所がやって来たんだ。
やはり、僕は早くに乗り過ぎてしまったらしい。この乗り物に。恐らく、この会話は最後までは続かないだろう。残念だけど。
今回のこの会議は、ただ単に生態系の事を話し合うものじゃないから…、ゴキブリといつまでも会話をしている訳にはいかないのだ。
しかし、僕はそれでも言葉を続けた。
一応、言いかけた説明くらいは、最後まで言っておかなくては駄目だろうと思ったから。
「それは助け合いなんだ。基準を変えれば、物事は全て変わって見えてしまう。殺すという行為だって、種や生態系という基準で考えるのなら、助け合いになってしまうんだよ。僕が君らを殺してやらなくちゃ、君らは幾らでも増えるだろう?」
ゴキブリは僕のその弁を聞くと頷いた。
「そうですね。私達は幾らでも増えようとするでしょう。そうなれば、それは様々な方面に悪い影響を与える。私達自身にも。それは防がねばならない。ただ、それはあなた達人間も同じですが…。
私達は、私達が殺されるという事に、数を維持できる範囲の殺戮ならば、文句を言うつもりはありません。しかし、あなたが先に指摘したように、私達が死体になった後の生態系としての流れは、あなた達に断たれてしまっている。本来の、生態系の流れを経過しない… これは、問題なのじゃないでしょうか? それを…」
その、ゴキブリの言葉が最後まで紡がれる事はなかった。ゴキブリが語るその最中に、サバンナの景色が、僕らを囲む全てを通り過ぎていって、その声を掻き消してしまったからだ。予想通り、彼と会話はできなかったんだ。次の場所へ進まなくちゃならない。景色は迫り、後ろへと流れていった。その瞬間に音はなく、一瞬全てがゼロになったかのような錯覚を僕は覚えた。
(次、がやって来る)
その後で、
シン
間ができた。
何かの音が微かに聞こえる。
世界は動いている。それで、僕はそう意識した。
サワサワ…
……。
風、
そう。これは風の音だ。
その存在を僕は感じる。
鮮やかな青。流れる白。大地。土の薫り。緑。草木。
それになる。
気付くと、小さなゴキブリが一匹、僕の足許をチョコマカと這っていて、そのまま草の影へと消えていった。
サバンナの風景だ。
僕はそう認識する。
ふと見ると、僕の目の前には、一本の木があった。名前も知らない木。そして、その木の傍らにはライオンがいた。
そのライオンは一見メスであるように思えた。しかし、その姿から受ける印象は決してメスのものではなかった。しかし、だからといって、それはオスのモノでもなかった。それはメスでもなく、オスでもなく、象徴として存在する別の何かだった。
ライオンは僕を見ていた。僕を見ながらゆっくりと口を開く。
「先のゴキブリの発言を聴いて、お前はどう思った?」
その声は、やはり女性的なものでもなく、男性的なものでもなかった。そして、猛獣であるとは思えないほど、とても柔らかだった。しかし、威厳や迫力がない訳でもない。威厳は確かにあった。しかし、僕はその声に曝されても全く緊張感を覚えなかった。多分、その柔らかさの所為で。それは妙に居心地の良い響きだった。
僕はそれから、ライオンに向って近づいて行った。
ライオンの直ぐ傍にある、一本の木を中心にして、それの反対側に、対になる形で腰を下ろす。
――ゴキブリの発言を聴いて、どう思ったか?
確かそれが、ライオンが僕に向けてした質問の内容であったはずだ。僕はゆっくりと考える。ゴキブリは、恐らく、自分達が巡る生態の輪が欠落をしている事に対して、抗議していたのだろうと思う。人間はその欠落を埋めるべきだ、と。……でも、
「僕は疑問に思っています。本当に、僕ら人間社会に、その生態系の欠落を埋める必要があるのかどうか…」
僕のその言葉を聞くと、ライオンは一瞬奇妙に表情を歪め、そして、地面を払うように見回し、グルリとそれを一回転させると、再び横目で僕の事を見、そして、それからこう言った。
「何故だ? 何故、そう思う? もちろん、考えはあるのだろう?」
もちろん、考えはあった。
僕は応える。
「まず、第一に、本当にゴキブリが巡る生態系の輪は欠落しているのか、それを僕は疑問に思っているんです」
「本当に欠落しているかどうか?」
ライオンは僕の主張に目を丸くした。
「そんな事は分かりきっている事実ではないのか? 本来の生態系ならば、ゴキブリは適度な量の餌を食し、適度に増え、そして適度に殺され、殺された骸は、土に返る。しかし、お前ら人間がそれを壊してしまった。ゴキブリたちは、そのままでは適度に増える事ができず、だから、お前ら人間が、ゴキブリの増加を抑えるその部分を担ってやる必要がある。そして、ゴキブリが土に返る部分も、お前らは壊してしまった。お前らはゴミとして、その多くを処理してしまっている。ならば、その部分も担ってやる必要性があるのではないか?」
僕はそのライオンの言葉に首を振った。
「確かに、はっきりとしたデータ的根拠を持っている訳じゃないので、本来は結論を出してしまうべきじゃないですけど、それでも、仰る通り、土に返す部分の生態系の輪を僕ら人間が、ある程度は、壊してしまっているだろうと予想はできます。だけど、それは飽くまでミクロの領域での話です。もっと大きな生態系。つまり、地球規模の生態系ならば、本当にそれはそうなのでしょうか?」
「地球規模の生態系?」
ライオンは疑問符を伴なった声を上げる。
「そうです。生ゴミとして処理をされるゴキブリたちは、結局、循環しているのじゃないでしょうか? 土に埋められるのなら、いずれは微生物に分解されるだろうと予想できるし、例え燃やされるのだとしても、灰や二酸化炭素になったそれらは、やがては植物に吸収をされて、自然界を巡る事になる…… もちろん、とても長い時間の、大きな規模の話になりますが…」
僕のその言葉を聞くと、ライオンはしばしの間、沈黙をした。そして、何かを考えるような仕草をすると、それから、こう述べて来た。
「……しかし、それは生産者である植物が、充分な量あると前提された場合のみ問題なく生態系を循環するという話だ… そうじゃなければ……、」
「ええ、そうです」
僕にはライオンの言いたい事が既に分かっていた。だから、すんなりと、それに続けた。
「植物が充分になければ、長い時間をかけて、いずれは人間社会に負荷が襲う事になります。これまで、生態系を破壊し続けて、様々な負荷を人間社会が受けて来たように、ですね。でも、こう言っちゃ何ですが、ゴキブリという一つの種の影響は、地球全体を考えれば小さいですし、人間社会全体を観ても小さいと思うんです。だから、その部分が効率良く循環しないからといって、それが大きな問題に発展するとは僕には思えないのです。ゴキブリの循環の遮断によって生じる負荷は、他で補えてしまうのじゃないでしょうか?」
……もし、補えないのであれば、やがては人間社会は負荷を受けるようになるはずだ。
ライオンは僕の言葉を聞くと何も言い返さず、静かに俯いた。しかし、これは、機嫌を悪くしたのじゃない。僕にはそれが分かった。機嫌を悪くした振りをしているだけだ。このライオンは、この程度の事で腹を立てるような小物じゃない。
僕はそのライオンの腹を立てた素振りが、本当はフェイクである事を見抜けていたのだけど、それから、彼の事をフォローするような、こんな発言をした。
彼が腹を立てた振りをするのであれば、そこには何かしらの理由があるはずだ。なら、その“振り”に合わせて、会話を展開した方が良い。
「もちろん、他で補えないのであれば、重大な問題になります。現代社会の農業でも、そんな危険が指摘された事があった。人間は食べた物を排泄すると、それをどんどんと河や海に流してしまう。すると、物質の循環が為されず、やがては陸地に物質が足らなくなってしまい、農業を続けるのに支障が出る事になる。これは生ゴミにも当て嵌まりますね。すると、ゴキブリもその一部に含める事ができるのです。だから、そこまで広い範囲を含めて考えるのなら、僕の主張は正しいとは言えないのかもしれない」
生ゴミ、というものも、実は環境を破壊する大きな要因の一つになっている。その量が凄まじく、その全てが充分には分解をされない為だ。つまり、自然の許容量を超えてしまっているのである。その点から考えても、ゴキブリという一種ではなく、“生ゴミ”全体が生態系を循環する仕組みを創り出す事には意味がある。
「――しかし、」
それを聞くと、ライオンは言った。
「しかし、もし自分達にとって意味がないのであれば、お前は、ゴキブリの存在を生態系の中で無視しても良いと考えているのだな?」
僕はライオンを見た。
「はい」
そう答える。
「……ならば、それは自己中心的発想なのではないか? その発想では駄目だと、そうお前は主張していたではないか… 社会の創り方は、それではいけない」
「………」
それを聞くと、僕は少し黙った。
目を閉じる。
そして、カエルを思い浮かべた。田んぼの畔にいるカエルだ。そのカエルは、羽虫を捕えようと狙っている。次の瞬間、カエルは跳ねた。何かの危険を察知したのか、羽虫を捕えようとしたのか……。水面に落下し、波紋を幾つか発生させ、そのまま水中に沈む。
目を開いた。
すると、目の前のサバンナに、切り取られるようにして、田んぼが現われていた。
その田んぼを見ながら、僕は言った。
「生態系の循環が成立した上で存在をしている、田んぼや畑、といったものをどう思いますか?」
――先の説明では、循環していない例を僕は提起した。今度は、それとは反対に、循環されているという前提条件が為されている田畑を提起したのだ。
それに、ライオンはピクリと反応をした。けれど、何も返しはしなかった。僕の説明は、ライオンの問い掛けに直に答えたものではない。しかし、全く関係のない事でもない。ライオンは、恐らくそれを分かっている。僕は、そのまま喋り続けた。
「この場合の農業は、環境問題を起こしはしません。農薬や化学肥料を適度に使用し、生態系の循環を考慮して在るそれは、自然の仕組みの一部となっている。しかし、ですが、これは果たして、環境を破壊していない、と表現できるでしょうか?」
相変らず、ライオンは何も返さなかった。
田んぼに棲むカエルは、羽虫などの害虫を食してくれる。人間にとっての害虫の増殖を、カエルが抑えてくれている。そういう意味で、カエルは人間にとって有益な生き物だ。だから、人間には、カエルの存在を生態系の中で保護する事にメリットがある。しかし、そのカエルを保護する為には、害虫もある程度の量、田んぼの生態系の中で保護しなくてはならない。それらは、カエルにとっての食料なのだから当たり前だ。だから、殺虫剤を使用して、害虫の全てを絶滅させようとするような発想は適切じゃない。
生態系の循環の一部として、田畑を捉え、その中で無理なく存在させる。例え作物にある程度は被害があるのだとしても、一定範囲ではそれを享受し、害虫の存在を生態系の一部として許容する。
もちろん、農薬や化学肥料を全く使用しない、という訳じゃない。しかし、それは、生態系に大きい負荷を与えない、最低限な範囲の使用に留める。
次世代の農業の理想スタイルの一つだ。
「人間にとって、生態系を循環する形で達成されてある農業は、確かに、有益で、問題がないように思える。しかし、それは飽くまで、人間にとって、です」
僕はライオンを観た。
その表情の変化を確認しようと思ったのだ。しかし、ライオンに表情の変化は観られなかった。少しの、感情の微動も読み取れない。
「田畑などを作る過程で破壊されてしまった環境、その元あったそれに適合していた生物達にとっては、幾ら生態系を循環していようが、関係ありません。その生物達にとって、その環境の変異は問題だ。例えば、カブトムシ、クワガタ、陸の土壌に住む微生物。木々、植物。それらは、田畑の生態系からは排除をされてしまっている。つまり、これは“環境破壊”なんです。元あった環境に働きかけをし、それを作り変えているのだから。ただ、生態系を考慮してあれば、僕らにとっての、“環境問題”にこそなりはしませんがね」
「何が言いたい?」
僕が言い終わると、岩のように固まっていたライオンが、突如として、言葉を発した。
――何が言いたいのか。
「分かりませんか? これは、人間社会全体でも同じなのですよ。人間にとってのみ、都合良く環境を創ろうとし、生態系の循環を壊してしまえば、負荷がかかり、長期間社会を継続していく事はできませんが、社会を生態系の一部に組み込み、循環させる新しい仕組み作り上げられたなら、元あった環境を幾ら破壊しようが、僕ら人間は社会を継続させる事ができるのです。だから、ゴキブリだって、僕らがその新しい生態系を創り上げる過程で、結果的に排除されてしまう可能性があるのですが、それでも何の問題にもならないのですよ。そしてそれは、それでも、一つの自然の姿なんです。過去、様々な生物が、生態系の移り変わりの中で絶滅して来たように。それも、その一例でしかない。こんな言葉は使いたくはありませんが、言うなれば、自然の摂理なんです」
ライオンは、僕の説明を理解できない訳ではないようだった。しかし、また、それに納得をした訳でもないようだった。
ライオンは僕を見ている。
僕を……。
「なるほど。環境問題を解決するのは、結局、自らの為か。人間が救おうとしているのは、地球ではなく、自分達であるのだな。だから、他の生物が滅ぼうと、関係ない。自分達が困らなければそれで良い、という訳か… 自己中心的な発想を取るべきじゃない理由は、結局、自己中心的な発想によるものなのだな…」
そう感想を漏らしたライオンは、僕の事を軽蔑している風でも、また、感心している風でもなかった。
ただ、単に言葉を発しただけだった。
その通り。
僕は思った。
環境問題を解決するのは、切実な必要性の問題からに過ぎない。そういう意味では、人間は結局自分勝手だ。自分達を救う為には、生態系を救わなければならない。だから、生態系を救おうとしているだけ。
……でも、それは、
そして、そこまでを僕が思った時だった。その瞬間に、突然声が聞こえて来たのだ。
「でも、それは、あなた達だって、同じよ」
それは目の前に現われた水田とは別方向の草叢から聞こえた。僕とライオンは、声のする方に顔を向ける。すると、そこにはシマウマが一頭、顔を出していた。
シマウマは、どうやら、ライオンに向けてその言葉を発しているようだった。
「あなた達ライオンは、確かに、私達を捕食してその数の過剰な増加を抑えてくれているわ。でも、それは、生態系の事を考えて、なんかじゃないでしょう? それは、自分達の為のはず。幾ら、わたし達の数が減っても、あなた達はわたし達を見付ければ食べるわ。そして、もちろん、他のどんな生物だってそれは同じ。全ての生物は、己の為に生きているだけ」
奇妙な事に、シマウマから言われたその言葉には、ライオンは素直に頷いた。僕の言葉には、そんな反応を示す事はなかったというのに。
「その通りだな。我々は、自分達の為にそれを行っている」
あっさりと認める。
そう。だから、人間だってそれは同じなのだ。人間は、特別な存在なんかじゃない。全ての生物を救う、など、傲慢な考え方なんだ。人間は結局、数ある生物の内の1種類でしかないのだから。自分達にできる事を行えば良い。ただ、それだけだ。
シマウマはそれを受けて更に言った。
「ならば、人間だけを特別視して責めるのは間違っているのじゃないの?」
ライオンは答える。
「何も責めてはいないさ」
確かに、ライオンは僕ら人間を責めてはいなかった。そして、それから、ライオンはこう繋げた。
「大体、全ての生命は、環境破壊を行っているのだからな」
その言葉に僕は驚いた。
ライオンは、それを分かっていた。
ライオンの言う通り、全ての生物はどう足掻こうとも、常に環境に対して影響を与え続けている。それは、つまりは、環境を破壊し続けているという事なのだ。全ての生物は、己の存在によって周囲の環境を変化させている。影響の与え合いによって、一つの系を成り立たせている。その影響力が、生態系の仕組みを崩せば、それが問題になる。重要なのは、環境を破壊する事ではなく、生態系の仕組みを壊してしまう事なんだ。そして、何度も言っているけど、人間は特別じゃない。他の生物と同じ様に人間は環境に対して影響を与え、それが大きくなり過ぎてしまっただけ。
ライオンはそれを分かっている。それを分かっているライオンが、あんな問い掛けを、僕に対してして来たのは一体何故なのだろう?
「恐らく、確かな事は言えないが、生物が誕生して、初めて、大規模な環境破壊を行ったのは植物だ。酸素はそれまでの生命にとっては猛毒だった。だから、その酸素を排出する植物は、間違いなく環境破壊を行っていたのだ。予想でしかないが、凄まじい数の生命が死んだ事だろう。しかし、その酸素の排出が新たな生命の進化を生んだ。酸素は高エネルギーを持つ。その酸素を吸収する事によって、生命はその活動の幅を大きく拡大したのだ。そして、それによって、間違いなく一つの生態系が滅び、一つの生態系が誕生した」
ライオンの語りを聞いて、僕と、そしてシマウマは、不思議そうな表情になった。ライオンの今の発言と、これまでの発言との不一致が理解できなかったからだ。
「人間は増え過ぎた。通常の生態系ならば、数を減少させる方向に負荷がかかり、実際に減少するのだろうが、人間はそれが違った。それに抗える知恵を持っていた。だから、数が更に増えた。ならば、環境問題を解決できないのか?と言うとそうじゃない。その技術によって、その数のままで、それでも、生態系の循環を壊さないような仕組みを作り上げれば良い。それで今までの生態系がどれだけ破壊され、どんな新しい生態系が産まれるのかは分からないが、それも、生態系の移り変わりの一例だ。植物が酸素を排出する事によって、生態系を大きく変えたのと同じ。人間だって、自然の生き物なのだから、それは何も間違った事などではない」
続けて語ったその説明は、先の僕の説明の言い直しだった。それを別の方向から見た弁。
セイタカアワダチソウ。
この植物には、自分達以外の植物の繁殖を抑える為に、一種の毒物を土壌に散布する性質がある。ところが、その毒物によって、自分達も負荷を受け、過剰にそれが為されれば、その地ではしばらくの間自分達も繁殖できなくなる。
自らが引き起こした環境破壊によって、己が被害を受けている。
他の生物だって同じだ。
つまり、人間は“特別”じゃない。
シマウマが、それを聞いて声を上げる。
「それを分かっているのであれば、何故、あなたは……、」
シマウマのその言葉を聞くと、ライオンはゆっくりと僕を見やる。
それから、言った。
「なに、わたしはな、こいつの心を見据え、それに合わせて訴えていただけさ。こいつは、殺す事すらも、自然界では助け合いだなんだ言いながら、それでも、それを嫌がっている。理屈ではそう結論出していても、やはり、一つの種を絶滅させるなんて事は好ましくないと感じている。その心に向け、訴えかけたのさ。つまり、こいつ自身がそれを望んでいたのだ」
ライオンの言葉で、シマウマが僕の事をゆっくりと見た。ライオンとシマウマ。その2頭の視線を僕は浴びた。
その言葉を受けて、その視線を受けて、僕は驚愕をしていた。
僕自身が嫌がっている?
つまり、
僕は、ライオンを必死に説得しようと試みているつもりで、結局の所、自分自身を説得しようとしていたのだろうか?
だから、ライオンは、その為に、何度も僕に向けて問い掛けをしなくてはならなかった。
このライオンは、そういう為の存在だった?
自分自身。
この世界で。
心に生じたあの感覚。
罪悪感を解消する為の……。
冷たい雨に曝されて、死んでしまった仔猫たち…… 救えないなら、救えないで仕方ないさ… でも、もし救えるのであれば、救えた方が良い。自然の仕組みを考えるのであれば、そんな事に拘るのは間違っているのかもしれない。だから、それは正しい行いなんかなじゃない。でも、それでも僕は、そうしたい…
僕が嫌がっている?
僕はその時、はっきりとそれを自覚した。
そう。僕がそれを嫌がっているんだ。だから、必死になって考えていた。だから、そもそもこの会議は始まったのだ。
何故か、
それは人間がそういった性質を持っているからだ。
感情の機能として……。
感情の機能。
それは、人間の主体的な領域にとってはとても重要だけれど、客観視しなくてはいけない領域においては、その有効性を失ってしまう。
僕は揺れる何かを思った。そして、その揺れを感知して、この世界の何処かで何かが動き始めた。恐らく、その何かは、この会議の最後の出席者だ。僕はそう思う。彼は、従来ならば、生態系の仕組みからは外れている存在であると考えられて来たかもしれない。しかし、ここに人間である僕がいて、そして彼がその人間社会に在る存在であり、人間社会が生態系の一部に加わる事を考えるのなら、彼はこの会議に出席しなくてはいけない存在なんだ。
彼らは、僕ら人間社会の、主体的な影響によって形作られ、そして、人間社会の外にも影響を与え得る、新しい存在。
“何か”
彼の気配が近付いて来る。
声がした。
「利他行動というモノでも、本質的に、その欲求は主観的な領域から発生するものです。つまり、助けたい、という“欲望”が働くから助けるのであって、それ以外ではない。それが感情の機能によるものであるのなら、尚更でしょう」
それは人の声とほとんど見分けがつかないくらいの美しい音声だった。それは、ある意味では人間存在のレプリカとして作られている。だから、理想を突き詰めれば、こうなって行くのかもしれない。
それは、丸みの帯びた、人間にとって好ましいようなデザインをしていた。その動きを、僕らは心地よく感じてしまう。何故なら、人間にとって都合の良いように、それらは元から作られているからだ。その場所に現われたその存在。それ。それは、つまりは、ロボットだった。或いは、ロボット的な存在と形容すべきものだった。
「だから、実際、人間は、自分達が好ましく感じられる存在をより優先させて愛護しようとする傾向を持ちます。それは、すなわち、エゴイズムです。犬や、猫や、イルカや、鯨。その反対に、幾ら生態系にとって必要だからといって、好ましく感じられない存在には、愛情が働かず、だから、保護の動きも生じ難い。ゴキブリ、ハエ、人間が嫌悪を感じる生物達。その発想は、生態系を主体として環境問題を考えるのとは違います。それは、主観的な視点から見たものに過ぎません。人間にとって好ましく感じられる生物を優先的に保護しようとするのなら、それはむしろ環境問題を悪化させる危険すらあります。つまり、動物愛護を訴える事と、環境問題を改善する事は全く別の事柄なのです」
僕にはロボットの言う事が理解できた。
数が多くなった生物を殺す事を、助け合いであり、共存であると捉えなければいけない生態系の概念と、生物を殺す事に猛反発をする動物愛護団体とでは、明かに差異がある。
残酷な事がしたくないのは、飽くまで人間。それは、主観的な事柄に過ぎない。人間の“外”には、その正当性は存在しない。それを自然界ですら通用する、客観性を帯びた正しい事であるとするのは、傲慢な考え方と言うしかないんだ。
幾ら、僕らがをそれを“嫌”でも。
よく、人間は、環境問題を主観から考えてしまいがちだ。例えば、騒音問題なども環境問題の一つに挙げる場合がある。しかし、簡単に分かる事だけど、それは生態系を扱った問題と同列の事柄じゃない。自分を中心に据える観方ならば、騒音だって、確かに人間にとっての“環境”であるけど。
ライオンとシマウマは、ロボットの説明を黙って聴いていた。そして、僕がそれで思考を巡らせている事も観察しているようだった。その、僕の中の迷いを加速させるかのように、彼らは口を開く。
“例えば、だ”
「我々がシマウマを殺して食べても、」
「わたし達がライオンから殺されて食べられても、」
交互に、輪唱のようにして、彼らは喋っていった。
「それが如何に、残酷な殺し方であったとしても、」
「それが如何に、苦しい殺され方であったとしても、」
人間は、
「非難をしない」
シマウマが言う。
――それは、何故なのか?
「自分達がそれを行う場合は、非難をするのに。それは、やっぱり、自分達を特別な存在と考えて、傲慢になっているからじゃないのかしら?」
ライオンが重ねる。
「人間は神じゃない。だから、自らの判断をそんなに信用するな。主観的な判断で生態系を捉えるのなら、全ての生物を無意識の内に擬人化させてしまい、その上で下位の存在としてそれらを見、そして、主観的な判断で扱ってしまおうとする。感情の機能によって」
ロボットが、それに続けて言った。
「例えば、ワタシ達のような存在。ワタシ達は無機質で作られた、プログラムによって反応しているだけの存在で、痛みを感じる機能がある訳でもなければ、本当に苦悩している訳でもない。のに、人間はワタシ達を乱暴に扱う事に抵抗を感じ、故意に破壊してしまったのなら、罪悪感を感じます。つまり、人に愛される外見を持ち、見せ掛けだけでも、感情に見えるものを持っていれば、それで人間は、実際に人に相対するような反応を見せてしまうのです。その対象を擬人化する。コンピューターで作られた偽りの存在の反応に一喜一憂する。人間にはそういった性質があるのです。そして、その性質によって生物も捉え、その感じるままに、環境問題も扱ってしまおうとする。しかし、それは間違った事なのです」
僕は彼らの主張を黙って受け止めていた。
感情の機能があるから、僕は、ゴキブリを殺す事に罪悪感を覚える。もしそれが、人間の性質上、罪悪感を覚え易いような生物、犬や猫なんかであったのならそれは尚更で、その所為で、生態系を基準にするのなら何でもないような事でも、僕らはそれを拒絶してしまう。
――でも、
と、僕は思う。
ならば、そういった感情を覚える事は、僕らにとって不必要なのだろうか?
“いや、そうじゃない”
ロボットが言った。
「そうですね。そういった利他行動を起こすような心理は、あなた達が住み良い社会を形成する上で重要です。それで個人の心が安らぐ事もあれば、それで社会が平和になるという事もあるでしょう。例え、主観的な正しさでも、不幸な動物を放っておくような社会よりも、それを救おうとする社会の方がより好ましい。だから、生態系の都合ではなく、飽くまで人間の都合ですが、それは望むべきなのでしょう。もちろん、それが偽りの集団心理になってしまう場合だってあるし、それは欲望であるのだから、傲慢な視点のままなら、動物を愛玩道具として扱ってしまうような歪んだ問題を発生させてしまう可能性もありますが」
僕はロボットの言葉に頷いた。
その通りだ。それは主観的なものに過ぎない。でも、それでも、やっぱりそういった心の動きは必要なんだ。ならば、一体僕らはどうすれば良いのだろうか?
僕は言った。
「主観的な判断と、客観的な判断。何を基準にするかによって、重要な事は変わってくる。人間の感情の機能を重要視するべき場面もあれば、飽くまで客観的に考えるべき場面もある。ならば、僕らは、その二つを見分けて、巧く使いこなさなくてはならないはずだ」
ロボットは静かに頷く。
「そうでしょうね」
でも、その為には、自分を否定する必要がある。主観論による判断ミスを起こさないようにする為には、その自分の世界を疑い、否定する必要がある。
――僕らに、それができるだろうか?
僕は悩んだ。
……僕らに。
シマウマが言う。
「それはわたし達には分からない事だわ。もちろん、あなた達にだって分からないのでしょうけどね。でも、そうね。それでも、可能性がない訳じゃないのじゃない? それだけは言えると思うわよ。どうせなら、足掻けるだけ足掻いてみれば?」
足掻く。
その言葉を聞いた瞬間、サバンナの景色は消えていた。ライオンも、シマウマも、水田も、ロボットも。全ては消えていた。呆気なく。
そしてそこに現われたのは、暗闇だった。
――人間に、それを理解させる。
それは、この世界から抜け出し、外へ僕が向わなくちゃいけない事を意味していた。
足掻く。
僕に、それができるだろうか?
その道が、果てしない隘路である事を、僕は自覚していた。




