素人の批評に足らないもの
インターネットが普及したことで、世間には多くの批評が溢れる事になりました。文による批評だけでなく、単に点数をつける行為だって僕は充分に批評であると考えています。それはその作品の、社会における価値を決定づけている。
ですが、そうして批評が行われているにも拘らず、『批評とは何か』という事をあまり真剣に考えている人がいないようにも思うのです。
さて。
ならば、少しは考えてみましょうか。果たして批評とは何でしょうか?
いえ、これでは、あまりに漠然とした問いかけかもしれませんね。僕だってこんな質問をされたら困ってしまう。では、こう質問し直してみましょう。
『批評とは何に分類すべきものなのか?』
これでも漠然としていると思う人もいるかもしれませんが、これなら少なくとも考える手掛かりは見えます。“分類”を考えるのなら、取り敢えず、批評とは“文章”ではあるでしょう。さっき、『点数をつける行為も批評』と書いたばかりじゃないか、とツッコミを入れられそうですが、点数をつけるのだって一つの文章と定義してしまえば、矛盾はありません。
無理があると思いますか? 僕はそうは思いません。だって、仮に日本語ではなくても、点数をつけるってことは、『この作品は○点だ』と書いているのと同じじゃないですか。なら、それはある意味では文章です。
まぁ、異論はあるかもしれませんが、ここでは一応、この結論を正しいとして話を進めてみましょう。
一口に“文章”と言っても、様々な種類の文章があります。僕はそれを大きく三つに分類してみる事にしました。
自然科学、社会科学、人文科学。
軽く説明すると、自然科学は文字通り自然についての文章です。物理学や化学、生物学、地球を論じたり、宇宙を論じたり、或いは人間を論じたり。
次の社会科学もそのまま社会を扱ったものです。政治についてだとか、民俗についてだとか、或いは人間についてだとか。
最後に残った人文科学は、一個人の主観からなるものですね。エッセイ、文学なんかがもちろん代表例。それと、意外に思われるかもしれませんが、理数系である数学は、厳密に言えばこの人文科学に属しています。
数学ってのは、実は人間が勝手に想像しているだけの世界なんです。つまり、数学というのは単なる決め事の上に成り立っているものに過ぎない。もし人間が別の決め方をすれば別のものになる。そういうものなんですね(詳しく知りたい人は、非ユークリッド幾何あたりの話を読んでみてください)。だから、数学は人文科学。広義には哲学に属すると思ってくれて構わないはずです。
これらを言い換えると、
『自然が決定している領域を扱うのが、自然科学
社会が決定している領域を扱うのが、社会科学。
個人が決定している領域を扱うのが、人文科学』
と、なるでしょう。
もっとも、極論を言ってしまうのなら、全ての文章は人文科学に過ぎません。だって全部、人間が書いているのだから、主観を排除する事はできない。
ただし、これ、逆も言えます。個人だろうが何だろうが、それらは全て自然が生みだし決定しているものだ。だから、全ては自然科学だ。更にこんな事も言えます。それらを認めているのは社会なのだから、全ては社会科学だ。
つまりは、どう解釈するかでどうとでも言えてしまえるのですね。こういった分類は、だから飽くまで便宜上のものに過ぎません。そう、今僕が勝手に決定(定義)しているだけ(提案していると言い換えても同じです)。
そしてだからこそ、どう分類すれば良いのか分からない… 或いは、全ての分類に当て嵌まる分野もあるのですが。
もしかしたら、既に分かっている人もいるかもしれませんが(先に、少しだけヒントを出しておきました)、人間自身を扱う人間科学は自然科学にも社会科学にも、そして人文科学にも跨っているでしょう。
これは、社会を構成し自然を考え、己を考えているのが、他ならない人間自身だからです(もちろん、つぶさに探せば、他にもどう分類すべきか曖昧なものは出てくると思いますが)。
さて、さて。
ここまでを論じたところで、そもそもの問いに戻りましょうか。
『批評とは何に分類すべきものなのか?』
でしたね。
先の三つのうちで考えるのなら、一見すると、批評は“人文科学”になりそうな気がします。ですが、ちょっと待ってくださいね。本当にそうでしょうか?
批評というのは、「その作品の価値(性質)はこうだぞ」と世に向かって訴えているのです。ならば、基準は飽くまで世の中に合わせなくてはならないのじゃありませんか?
「自分の基準でこうだから価値があるんだ(或いは、ないんだ)」
これでは認められないでしょう。それではただの個人の感想です。
「お前にとってはそうかもしれないけど、他の人にとってみれば違うんだよ」
と、そう言われてお終いです。
もし、それが世の中、つまり、社会において価値があると言うのなら、社会科学的な領域の話をしなくてはなりません。
例えば、手法が斬新なら、「今までの社会にはこういう手法はなかった。新しい」として、高く評価するべきだと主張する事はできそうです。
同様に、「差別は止めろ」と訴えたり、「環境保全をしよう」と訴えたり、「こんな考え方や知識があるぞ」と訴えたりして、実際に世の中に良い影響を与えているような、そういった作品に対して、高く評価すべきだと主張する事もできそうです。
つまり、批評の場合は(個人ではなく)社会にとって、その作品にどんな価値があるのか?を論じなければならない。
ここまで書けばもう分かると思いますが、批評とはどうやら、かなり“社会科学”の領域に足を踏み入れたものであるようです。もし疑われるのであれば、書店で売られている批評を読んでみてください。社会的背景について書いた上で、作品について書いている場合がとても多いですから。
さて。
日本の文学者である村上春樹が、ノーベル文学賞の候補となりながらも、受賞を逃しています。その理由の一つとして村上春樹作品には“社会批判性が欠如している”といった点があるのだそうです。
村上春樹作品の特徴は無関心だと言われているのですが、ノーベル文学賞では実は社会批判性が重視されているからですね(と言うよりも、世界の文学評価で一般的に重視されているのですが)。
もっとも、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件以降は、村上春樹はこのスタイルを変化させてきていて、積極的に社会に関わろうとしているのですが……。
これを見ても分かると思いますが、“社会科学的要素”は小説を評価する際に、重視されます。
そんなのは関係ないって思いますか?
仮に社会に対して悪影響を与えるようなものだって、面白ければ良い。そして自分が面白ければ、それがそのまま社会の価値観になるべきだ。だから、社会何て考えずにその作品を勝手に自分の基準で評価してやる…
もしも、あなたがそんな主張をするのなら、僕はこう返します。
「ならばあなたは、どれだけ社会が悪くなっていても、構わないのですか?」
と。
社会科学的思考で重要なのは、機能面に注目する事です。つまり、それが人間社会にとって役に立つのか、立たないのか。そういった点に注目しなくてはならない。
社会の中で“批評”という機能を役立たせたいと思っているのなら、個人的な面白さだけを基準にして作品を評価しちゃ駄目なのですね。
だからこそ、ネット上の批評を読むと、僕はよく不安になるんです。
批評の観点に、“社会”が足りない。
……もっとも、どんな作品が社会に良い影響を与えるのかっていうのは、とても難しい問題で、はっきり言って答えなんかないとは思います。が、それでも僕は敢えてこう言います。
「それでも、社会に良い影響を与えようと足掻く事には価値がある」
もし、小説の中の、明確に社会に価値を与える要素を上げるのなら、僕は“知識を伝える事”だと思っています。
だから僕は、よく小説の中に知識の説明を書いたりするのですが。
それは小説の役割じゃないって反論されそうですが、そんな固定概念に縛られる必要性はないと思います。
小説ってのは、もっと自由なものです。学習の喜びを得られる小説があったって良いじゃないか!
さて。
そろそろ、終わりにしたいと思います。
もしも、あなたがこれから先、何かしら作品を批評しようと思うのであれば、どうかその基準の一つに“社会”を加えてはいただけないでしょうか。
どうか、よろしくお願いします。