いじめ、たい
集団心理。
いじめの特徴の第一は、まず何と言っても“集団心理”だ。普通ならば、そんな酷い事を誰かがされていたなら止める。そんな良心的な集団の中でさえ、ある特定の人間に限っては、とても酷い事をされていても、何故かスルーされてしまう。
立ち位置。人間関係の中で、そういう役割を与えられてしまった存在。つまりは、“いじめられっ子”というキャラ付け。
あいつは、いじめられるキャラ。
それで何故か、皆は納得をしてしまう。
スケープゴード説によれば、ストレスのはけ口に利用される立場であるらしい。もっとも、本当は、どうなのかなんて分からないと思う。でも、それがある種のルールのようなものである事は分かる。
空気を読める人間ならば、それを敏感に察して、逆らわないだろう。右へ倣えで、見てて見ぬ振り。
嫌われているだけ?
いや、違うだろう。嫌われ者と、いじめられっ子は違うと思う。侮蔑され、軽蔑され、虐待の対象となり、虐待の対象となる事で、皆に受け入れられている。それが、いじめられっ子なのだと思う。嫌われ者は、単に嫌われているだけじゃないのか。
集団の中での、自分の“位置作り”に失敗をしてしまうと、そうなってしまう。もちろんそれは、個人の性格の問題でもある。いじめられっ子になり易い性格ってのはあるのだろうと思う。人との関係が苦手で、大人しくてあまり怒る事ができず、そして“変わっている”。それだけの条件を満たしているのなら、充分にいじめられっ子の素養があると言える。
攻撃をされて、それでも何も言わずに、困った顔で相手を見返すくらいの事しかしなかったなら、「あれ? こいつは、殴っても別に良い奴なんだな」と、その相手から認識されてしまっても無理はないと思う。そして、それが繰り返されて、いつの間にか個人だけじゃなく、皆の共通認識になれば、はい、“いじめられっ子”のできあがり。
相手に怯える臆病な態度は、心を許していない態度でもある訳だから、その点に苛立ちを覚えるという事も加わるのかもしれない。その“情けなさ”は、そのまま軽蔑の材料になるという要因もある。
或いは、そういったような自然の経緯から、いつの間にかタカが外れて、“いじめ”に発展してしまう場合もあるかもしれない。“馬鹿にして良い相手”がいるというのは、それなりに都合が良いのじゃないかとも思うし。そうなったら、なかなか止められない。
……でも、そうじゃない場合もあるんだ。ある種の人間達は、そもそも初めから“犠牲者”を探している。そういった人間達は、まるでスポーツを楽しむように、快感を得る為に、いじめを行う。その為に、その対象になるだろう相手を探している。そいつらは、だから“いじめられっ子の素養”がある相手を見つけると、積極的にいじめられっ子の立場になるように追い込む(これは、スケープゴード説とも微妙に異なる)。
そして、それに成功したなら、馬鹿にして良い相手… いや、“虐待して良い相手”として、いじめを行い始めるんだ。
“へのへのもへじ”の落書き。清潔で綺麗な壁に描かれたそれは、そこだけ強烈な違和感を放ち、冷酷に世界を見ているような気がした。
校舎裏。
あいつらがいる。僕を囲んでいる。あいつらは僕を殴ったり蹴ったりしていた。虐待を許された存在である僕を。
笑っているのが三人。反対に、狂ったような形相なのが一人。
どちらも僕には異常に思えた。
痛みの感覚は、殴られたり蹴られたりする内に、徐々に麻痺して来た。ただ、現実に対する閉塞感だけを強く感じる。理不尽な立場。劣等感。みじめな気持。少しずつ無気力が僕を支配し、なんだか、これが僕の正しい立ち位置のような気すらしてくる。
死のうか。
そう思う。時々、“自ら死ぬなんて逃げだ”とか言う人がいる。でも、その人は、そもそもを勘違いしている。本当の希死念慮というものは、自然に湧き上がって来るんだ。逃げたいから死ぬとか、そういう理屈じゃなくて、どうしようもなく湧き上がって来るんだ。もちろん、現状を打開する手段が何かある事は分かっている。……理性では。でも、その閉塞感の世界では、それにリアリティが伴わない。意欲が削られ、思考が奪われる。
強いストレス。
それはヒトから判断力を奪う。脳が視野狭窄を起こし、その狭く暗い世界の中で、やがて足掻く事すらをも忘れていく。
ヒトの脳にはそういった性質があるらしい。きっと、多くのいじめられっ子が、何の抵抗もできないでいるのは、その脳の仕組みに因るのじゃないかと思う。
チャイムが鳴った。
校舎裏での暴行が終わる。
それで奴らは、倒れている僕を残して教室に戻って行った。あいつらは、普段は真面目な生徒なんだ。成績だって、そんなには悪くない。
つまり、僕をいじめる時だけ、凶悪になり、反社会的行動を執る。
反社会?
否、違うか。この閉鎖的な学校という社会では、僕へのいじめが認められているのだから、それは社会的行動なんだ……。
緩慢な動作で立ち上がると、制服に付いた土埃を掃って僕は教室に戻る。遅れる訳にはいかない。先生に怒られてしまう。それに、教室では少なくとも強く殴られるような事はない。ただ、教室に戻れば、一安心… かといえば、それも違う。机や椅子への落書きや、画鋲を貼るなどの悪戯。僕の持ち物への、盗みや破壊といった嫌がらせ。僕が傷つき、悲しそうにしたり涙を流したりすれば、その姿を見て、奴らはまた悦ぶ。
……多分、変態なのだと思う。
僕をいじめているうちの一人は、かつて僕の友達だった。名前はタロウ君という。友達だった頃は、普通に接していたけど、次第に僕のいじめられっ子としての立場が確立して来ると、身を護る為か、それとも本心では僕をいじめたいと思っていたのか、一緒になって彼は僕をいじめるようになっていった。
ただ一人、狂ったような形相で、僕を殴ったり蹴ったりしてくるのは彼だ。他の連中は、楽しそうに笑っているけど。……或いは、あいつらの中で最も正常な精神状態でいるのは、タロウ君なのかもしれない。
快感。
いじめの特徴の一つは、それだろう。誰かをいじめるのは楽しい。だから止められない。いじめられっ子が悪い、という屁理屈。或いは道徳がどうの、倫理がどうの。そういった薄っぺらな議論が度々交わされるけど、“個人”に焦点を当てるのなら、彼らいじめっ子がいじめをやり続ける原因は、極めて単純だと思う。“楽しい”からだ。
では、どうして楽しいのか?
残念ながら、人間には他者をいたぶって快感を得られるという性質がある。その性質が低かったり眠っている場合もあるし、その逆にそんな行為に対して不快感を覚える性質もある。だけど、それがヒトにあるのは間違いない。これは、疑いようのない事実だ。
では、どうしてそんな性質があるのか?
一つは、進化論的な観点から説明が可能かもしれない。遺伝子には、自分と同じ遺伝子を繁殖させようとする性質がある。意思とかではなくて、そう見える性質が。
いじめられっ子には、変人が多い。変人は、異なった遺伝子を持つ可能性が大きい。先の遺伝子の性質を考えるのなら、いじめられっ子が、“排除の対象”になり易いのは、簡単に分かる。
更に、いじめられっ子は、弱者である場合が多い。弱者は劣った遺伝子を持つ事を意味する。これも、同様の理由から、“排除の対象”となる。
これを裏付けるように、いじめられっ子からは、様々な意欲が奪われ、通常の自然界を考えるのなら、生き残りに不利な状態になっていく傾向がある。テストステロンという男性ホルモンは、“敗北”によって分泌量が少なくなるのだそうだ。これは、社会的順位…… 時には、攻撃性と結びつき、そして性欲とも深い関係を持つのだという。なら、当然、いじめられっ子は、子を残す機会が減る。
もちろん、これは一方的な見方だ。視点が、男性主観に偏っているかもしれない。ただし、それでも“いじめ現象”の一面ではある。
それに、生物には… 遺伝子には、“同じでいよう”とする性質と同時に、“変わろうとする”性質もある。その性質が刺激されれば、むしろ“変人”は、積極的に受け入れられるのかもしれない。更に、何が優秀で何が劣等かなんて実は簡単に判断できるものでもない。実際、天才を輩出した家系は、遺伝的には劣等な場合が多いという事実がある。
つまり、遺伝要因だけに、“いじめによる快感”を求める事はできないんだ。環境要因。後天的学習。何を、どんな手続き、文脈でその人が経験し、学習してきたか……。
もちろん、いくら理屈でそう説明できても、“いじめ”に執着する彼らの心は、僕には理解できない。人を虐待しながら、楽しそうに笑う彼らの姿は、僕にはとても醜く、そしておぞましく思える。
タロウ君も。
(分からない)。
どんな気持ちで、彼が僕をいじめているのか……
そんなある日、転校生がやって来た。名前をアキラ君という。アキラ君は、何というか、独特の雰囲気のある男生徒だった。恐らくは美形に入るだろう容姿。清涼感のある雰囲気を持っていて、ミステリアス。
そんな彼は、他の生徒達から特別視され、そして一歩距離を置かれていた。もっとも、蔑視されていた訳じゃない。その逆だ。むしろ近づき難い、崇敬のような感情を彼は抱かれているのだと思う。
僕とは全く違う。
彼はいじめられている僕を見て、何を思っているのだろう? 学校の外……、この教室の人間関係を知らない、別の世界からやって来た彼には、この教室の“いじめ”の文化はどう思えるのだろう?
アキラ君が転校して来た頃、僕はそんな事を考えていた。
彼は空気が読めそうだから、きっと、直ぐに状況を察して、そして、身の安全を確保する為に、僕には近づかないようにするのじゃないか。
そうして、僕はそんな結論に至った。
ところが、しばらくが経ったある日、アキラ君は僕が教室でいじめられているところに、突然、現れたのだった。“いじめられている”と言っても、暴行と呼べるほど酷くはなくて、軽く小突かれたり、馬鹿にされたりする程度だったのだけど。
そして、その時にアキラ君は、驚くべき、こんな発言をしたのだった。
「代わろうか」
にっこりと笑っている。僕には、その言葉の意味が分からなかった。多分、僕をいじめていた連中も、その意味を理解できなかったのじゃないかと思う。不思議そうな表情で、彼を見ていた。
「何?」
と、一人が言う。アキラ君はそれにまたにっこりとほほ笑むと、「だから、彼の代わりを、ボクがやるって言ってるんだよ」と、そう淡々と説明した。
僕らはその言葉にまた固まった。冗談を言っているのかと少し考えたけど、どうも違う気がする。
「校舎裏でも、その彼の事を、殴ったり蹴ったりしていたろう? 転校して来てから、ずっと見ていたけど、どうにも止める気がないみたいだからさ。
そんなに誰かをいじめたいのなら、ボクが代わりになろうと思って」
僕らが何も反応しないでいると、アキラ君はまた言った。
「もう一度言うよ、その彼の代わりに、“ボクをいじめろ”とそう言っているんだ、ボクは」
いじめっ子の内の一人が、それを聞いてキレた。馬鹿にされていると思ったのだろう。アキラ君の髪の毛を掴むと、思い切り引っ張って、無理矢理に彼を屈ませる。
「なんだ、お前は? カッコつけているのか?」
そいつは、いじめっ子達の中で、最も攻撃的な性格をしている。手が早いんだ。その一瞬、僕は迷った。アキラ君はほぼ間違いなく僕を庇おうとしてくれているのだろう。ならば、
――助けないと。
だけで、心の中でそう思っても、身体は竦んで動かなかった。
「アハハハ。良いじゃないか。やれば、できるんだ。そう、そう。その調子で、もっとボクをいじめてくれよ」
アキラ君はそれから笑いながら、そう言った。余裕の態度のように思える。でも、少しも抵抗をしていなかった。
それを聞いて、いよいよ激怒したいじめっ子は、そのまま彼の顔面に向けて、膝蹴りを入れた。僕はそれを見て青くなる。幸い、鼻血は出なかったようだけど、完全にそのいじめっ子はキレているようだった。もし、ここで僕が止めに入ったら、恐らくは僕まで巻き添えになる。
僕の思考は、そこで急速に回転した。
“彼がいけないんだ。連中を挑発するようなやり方で止めに入るから。もっと、考えて行動してくれれば……”
もちろんそれは、単なる言い訳だった。何もしないでいる為の。でも。僕は気が付くと口を動かしていた。
「あの… ここは教室だし、皆が…」
……見ているし。
そう言おうとしたけど、口は上手く動かない。ところが、それを聞くと、アキラ君はこちらに手の平を向けて、僕の言葉を止めるのだった。
「いいから」
そう言った。
多分、笑っているのじゃないかと思う。なんで? 僕は不思議に思う。
それからアキラ君は、髪の毛を掴まれたまま、ゆっくりと身体を真っ直ぐに伸ばした。多分、それで髪の毛は何十本か抜けたと思う。
「これで、いじめられっ子はボクだ。もう、君だって納得したのじゃないか? いいかい? これからは、ボクをいじめるんだよ」
その髪の毛を掴んでいるいじめっ子に、彼はそう言った。薄らと笑っている。その時に、僕は気が付いた。アキラ君の髪の毛を掴んでいるいじめっ子の目が、尋常なものじゃないことに。どうしてなのか、“信じられない”といった表情で、アキラ君を見つめていた。どことなく、恍惚としているような……
……それから、本当に僕の代わりに、アキラ君がいじめられるようになった。僕は嘘のように、もう何もされない。あいつらからは無視されているけど、もちろん、無視くらい別にどうって事ない。
アキラ君には悪いと思う。でも、彼は自ら望んでその位置に付いたんだ。しかも、いじめられているのに、やっぱりまだアキラ君は平気な顔をしている。その異常性には、皆、気が付いているらしくって、誰も彼を助けようとしなかった。いや、そもそも彼は助けを求めているようには、見えなかったのだけど。
更に、おかしい事がある。
僕をいじめていた頃は、あいつらは皆からの目がある教室では、それほど過激な暴力に走る事はなかった。ところが、アキラ君をいじめ出してからは、教室でも激しいいじめをするようになったんだ。
顔面や腹部を殴る。それでアキラ君が蹲ると、それを笑う。地面に倒れて、苦しそうにしているアキラ君の頭を踏みつける。バケツで汚水をかける。牛乳を浴びせる。教科書やノートなどに落書きをする。凄惨過ぎて、見ていられない程だった。
そしてその頃になって、僕はいくら何でもと思って、タロウ君に話しかけたんだ。止めた方が良いと思ったから。
「教室での暴力は止めた方が良いよ。そのうち、教師達の間でも問題になる。最近は、学校もいじめ問題に敏感だし……」
ところが、それを聞くとタロウ君は「煩い!」と、そう怒鳴ったのだ。僕は竦む。怖かったのは事実だけど、彼の怒鳴り声に怯えたのじゃない。僕はタロウ君から、狂気的な何かを感じたんだ。
タロウ君はこう続けた。
「お前なんか、もういじめてやらない。俺は、アキラをいじめたいんだ。浮気をしたら、あいつに怒られるからな……」
何を言っているのだろう?
……やっぱり、目は普通じゃなかった。僕はそれから、何も言えなくなってしまう。それに、きっと何を言っても、彼の耳には届かないだろう。
アキラ君へのいじめは、それからも続いた。案の定、それは教師達の間でも問題になり、職員会議の議題にまでなったそうだ。そして、もちろん、いじめっ子達は厳重注意を受けた。しかし、それでも彼らはいじめを止めなかったのだった。
「いい加減にしないと、そのうち、停学処分になるぞ」
「普通に、傷害罪だから、下手すりゃ警察沙汰だな」
そんな事を皆が言い始める。ただし、言うだけだ。皆は関わるのをできる限り避けようとしているようだった。多分、皆はいじめっ子達と、そしてアキラ君を気味悪がっていたのだと思う。無理もないだろう。彼らは、明らかにおかしい。
「アキラは何処だ?」
ある朝、いじめっ子達は登校してくるなり、皆にそう訊いて回っていた。一応断っておくと、少しだけいつもよりもアキラ君の来る時間が遅かっただけだ。その時に僕は気が付いたのだけど、ここ最近、彼らはとても早く登校して来るようになっていた。
多分、アキラ君をいじめたくて、早く登校して来ているのじゃないだろうか。
「アキラは何処だ?」
まるでゾンビが獲物を探し求めるように、彼らは学校内を彷徨っていた。そして、アキラ君が登校して来ると、まるで禁断症状に陥った薬物依存症の患者達がドラッグを奪い合うように、アキラ君に対して群がり、いじめ始める。いや、いじめというか、これは既に他の何かになっている。彼らは何かの宗教の信者で、アキラ君は御神体か教祖… 彼らに対し、寵愛を与えている。そんな光景にすら思えた。
そして、そんなある日、アキラ君は突然に、登校して来なくなったのだった。
“流石にいじめに耐え切れなくなって、不登校になってしまったのじゃないか”
皆はそんな事を言っていた。ただ、僕にはそうは思えなかったのだけど。
「アキラはどうして、学校に来ないんだ?」
アキラ君が登校しなくなってから、彼らは毎日そう言って、学校を徘徊した。アキラ君と家が近い生徒にくってかかり、時には教師に対しても問い詰める。尋ねられた人達は、一様に皆、困っていた。
正直、彼らは、僕の目には正気であるように思えなかった。そしてその頃僕は、タロウ君の事が心配になり始めていた。このままいったら、彼がどうにかなってしまうのじゃないかと思ったんだ。僕をいじめていたとはいえ、かつて彼は僕の友達だった。少しは心配になる。
“いい気味だ”、と思うのには、何と言うか、常軌を逸し過ぎていたのかもしれない。
タロウ君を見てみる。彼は授業中でもアキラ君の席を常に気にし、気付くと校庭を眺めていた。恐らく、アキラ君が登校して来る姿が見えないかと窺っていたのだろう。他のいじめっ子達を見てみると、やはり同じ様にアキラ君を気にしているようだった。
アキラ君が来なくなってから、一週間程が過ぎた。やはりいじめっ子達はアキラ君を求めていた。僕はどうして彼らいじめっ子達が、アキラ君の家に行かないのかと不思議に思って、教師に尋ねてみた。すると、教師はこんな事を言うのだ。
「いや、俺もそう思ってな、あいつらに言ってみたんだが、なんでもアキラが休んだ初日に行ったらしいんだよ」
え?
と僕は思う。僕は驚いた表情になっていたのだろう。教師は続けた。
「行ってみたが、アキラの住所となっているアパートの部屋には、誰かが住んでいるような痕跡はなかったのだそうだ。そう言われて俺も確認しに行ったんだが、やっぱり誰も住んでいなかった。アパートの管理人に話を聞いてみたから、間違いない。
恐らく、学校の住所録が間違っているのだろうが、何にせよ、アキラが登校して来た時に訊いてみるしかないだろう」
クラス内では誰一人、アキラ君の携帯電話の番号を知っている人はいなかった。そもそも彼は携帯電話を持っていなかったのかもしれない。アパートにも、電話はない事になっていて、誰も彼に連絡を取る事はできなかった。だから、確かに教師の言うように、アキラ君が登校して来てくれるのを待つしかなかったのだ。
しかし、アキラ君が学校に姿を見せる気配は微塵もなかったのだった。それで再び僕へのいじめが始まるかと心配になったけど、それはなさそうだった。きっと、彼らの目にはアキラ君しか映っていないのだろう。
そして、アキラ君が来なくなってから、二週間が経った頃、彼らいじめっ子達は、学校を休んだのだった。
僕は悪い予感を覚える。
僕は学校が終わると、タロウ君の家へと向かってみた。一軒家のその家は、閑散としていて、誰の気配もなかった。チャイムを鳴らしてみても誰も出ない。だけど、いないのかな?と思って耳を澄ましてみると、幽かに物音が聞こえて来た。それは人の声のように思えた。
それで僕は、玄関のドアに手をやってみたんだ。すると、呆気なくキィと開く。ドアが開かれたことで、中の音がより大きく聞こえて来た。何を言っているのかは分からなかったけど、それがタロウ君の声である事だけは分かった。
僕は意を決すると、家の中に上がった。
「タロウ君… いるの?」
そう小さな声で言ってみたけど、何の返事もない。そのまま僕は、音が聞こえて来る方へ向かって進んで行った。二階。恐らくは、彼の部屋だろう場所から、その声は響いて来るようだった。
階段を上がると、直ぐに彼の部屋が見える。ドアは開けっ放しだった。やはり、タロウ君は自分の部屋にいるようだ。
恐る恐る近づくと、部屋の中に誰かがいるのが分かった。タロウ君だ。ブツブツと言いながら、何かをいじっている。そこに至って、ようやくその言葉が明確に聞こえた。
「苦しいか? 苦しいか? アキラ。俺が、俺がいじめてやるぞ… ずっと、ずっと、いじめてやるぞ…」
タロウ君はそう言っていたのだ。
僕は悪寒を感じた。
なんだ、これは?
タロウ君は部屋の隅で、膝を丸くして座り込みながら、何かの糸… 否、髪の毛を持ってそれを弄繰り回していた。そして、それに向けて「アキラ」と呼びかけている。それは、どうやら、その髪の毛を、いじめているつもりのようだった。
髪の毛を…
よく観察すると、タロウ君は傷だらけだった。何があったのか? ……僕は恐怖に震えながらも、こう口を開いた。
「タロウ君… 何をしているの?」
タロウ君は僕を見た。そして、その瞬間、怯えているような激昂しているような異常な形相になってこう叫んだのだ。
「何だお前はー! アキラは。アキラは絶対にやらないぞ! 俺だけが、こいつをいじめるんだ! 俺だけが、俺だけが、こいつをいじめ続けるんだ!」
しかも、そう叫んだ後で、持っていた髪の毛を口に入れてしまった。多分、僕に奪われると思って、そうしたのだろう。そして、ベランダのガラス戸を開けると、外に逃げ出てしまった。
恐怖と驚愕で背筋が凍りつく。そして、その次の瞬間には、僕はその部屋から逃げ出していた。
全速力で家から出て、遠く離れて誰も追って来ないのを確認すると、僕は先の光景を思い出して吐き気を催し、実際、少しばかり吐いてしまった。物凄くおぞましいものを見てしまったような気がする。落ち着くと、僕はようやく先の光景を冷静に分析する事ができた。
あの髪の毛は… アキラ君のもの? 否、違うだろう。多分、アキラ君の家だと思われていたアパートの部屋の何処かに落ちていただけじゃないかと思う。
あれをタロウ君が“アキラ”と呼び、いじめていた点… そして、彼が傷だらけであった点、僕を見るなり奪われる事に怯えた点を考えるのなら、もしかしたら、いじめっ子達はあれを奪い合っていたのじゃないだろうか。あんなものを…
明らかに異常だ。
僕は携帯電話を取り出すと、それから警察にかけようか病院にかけようかと悩んだ挙句、学校に電話をかけた。教師に。
「タロウ君の様子がおかしいんです。正常とは思えない」
それから僕は先に見た光景を、教師に話して聞かせた。普通なら信じてもらえなかったかもしれないが、教師は先日までのいじめっ子達の異常な行動を見ている。直ぐに信じてくれたようだった。
次の日。
タロウ君達が、病院に入れられたという話を聞いた。多分、病名は統合失調症か、何かになるだろうと思う。けど、僕にはその病名が相応しいとは思えなかった。
結局、アキラ君の消息は不明のままだった。実はいじめっ子達に殺されたのじゃないか?という噂もあったけど、僕はなんとなく違うと思っていた。
彼は望んでいじめられた。そして、いじめっ子達をあの状態に追い込んだ… そう思えてならなかったんだ。帰り道。彼らの事を考えながら歩いていると、僕は突然に話しかけられた。
「やぁ、彼らがいなくなって、すっきりしたかい?」
そこにはアキラ君の姿があった。涼しい顔をしている。いじめられている最中、あれだけの暴行を受け続けていたのに、何処にも傷痕がなかった。
「アキラ君…」
僕は驚いてそう声を上げる。僕のその様子を受けて、アキラ君はおかしそうに笑った。
「アハハハ! 何だか、それほどすっきりしたって感じじゃないね! 残念だなぁ。君を救ってやったのに。まぁ、ついで、だけどね」
「いや、そりゃ、助かったけど…」
そう言い淀んでから、僕はこう続けた。
「君は一体、何なんだ? 彼らに何をしたんだ?」
それを聞くとアキラ君は肩を竦める。
「さぁ? どうとも言えないな。でも、ボクは彼らに何もしていないよ。彼らはボクと会う前から、既に病気に罹っていたんだ。そして、勝手に自らその病状を悪化させた。ただ、それだけの話さ」
「病気?」
「そう。今はまだ名前なんてないが、そうだな。“いじめ依存症”とでも名付けるべきかもしれない」
「いじめ依存症……」
「“いじめ”によって得られる快楽に依存して、誰かをいじめないとやっていられない状態になっていたのだな。
しかも、いじめがマンネリ化すると、快感を得られなくなるから、どんどんと過激になっていく。いじめってのは、時が経てば経つほど過激になっていく傾向にあるが、それは刺激が得られなくなるからだと思うよ」
確かに、いじめが時と共に過激になっていくって話はよく聞く。神経が刺激に慣れてしまうからだ、と考えれば、筋が通るような気がする。
でも、だとするのなら…
そこでアキラ君は笑った。
「まさか、彼らに同情をしているのか? 君は優しいね。確かに、だとするのなら、彼らはいじめ依存症という病の犠牲者だという事になる。でも、どうかな? その理屈で言うのなら、自らの行動を完全に律する事のできている人間なんて、この世にはいない。すると、誰にも罪はない事になる。
或いは、それは、真実ではあるのかもしれない。しかし、社会的道具としては、問題のある考え方だね。責任とその追及は、やっぱり人間社会に必要なものだ」
僕はその彼の返答に納得ができなかった。すると、そんな僕の様子を敏感に察したのか、彼はこう続けた。
「もちろん、教訓もある。何か、行動をしている時、本当にそれが正常と言える行動なのか、自分を抑えられているのか、常に自分を疑ってみる……
それは、きっと必要な事なのだろうね。いじめに関していえば、する方をカウンセリングにかける事で、状況が改善するかもしれない」
言い終えるとアキラ君はゆっくりと笑った。僕は何も返さない。彼は、「じゃあね、そろそろボクは行くよ」とそう言うと、その場を去ってしまった。そして、それから彼は二度と姿を見せはしなかったのだった。
彼が何を目的としていたのか、何者なのかは分からず仕舞。
そして僕は。
僕はそれ以来、自分が分からなくなった。自分という人間が何なのか。でも、それは、もしかしたら、単に幻想が晴れたというだけの話なのかもしれない。