従者の憂鬱
エルトリア帝国の辺境、ダルキア属州の小都市ディエルナ。
人口一万程度の小規模な都市だが、町は強固な城壁で囲まれている。
異民族との争いを繰り広げているダルキア属州は帝国防衛の最前線であるから小さな都市でも大なり小なり軍事拠点としての機能を有している場合が多い。
とはいえ、バテルの暮らすディエルナは帝国本土に比較的近いということもあり、大規模な異民族の侵入はめったにない。
有事の際には、帝都を守る最後の防衛線の一角であるから無駄ともいえないだろう。
そんなディエルナで見張りの兵以外はまだ寝静まった朝。
領主の屋敷で、一人の少女があわただしく準備を始める。
彼女の名はイオ。牛獣人である。
頭の立派な角と黒い耳、それと白い尻尾。そして服の上からでもわかる実り豊かな体もその証拠だ。白いメッシュが入った黒髪が特徴的な、町でも評判の少女である。
彼女の家は、かつては牛獣人部族の長であった。帝国拡大期にクラディウス家と激しく争ったが、ついには屈して、その配下となった。
今では帝国にすっかり同化している。百年以上前から、イオの家はクラディウス家に仕えてきた。
イオもクラディウス家の三男、バテルに従者として仕えている。
最近は、主人であるバテルが、やたらと朝早くに起きるので、従者であるイオはそれよりも早く起きねばならず、忙しい。
(バテル様は自分でやるからいいっていうけど、バテル様のお世話をするのが従者の務め。今日も頑張らないと)
イオはバテルが起きだす前に、いそいそと支度を始める。
バテルと同い年で、前世の記憶も持たない普通の少女だが、よほどバテルよりもしっかりしている。
わがままひとつ言わず、真面目で仕事もそつなくこなす。牛獣人だけあって、人間の大人よりも体力があるし、力も強い。
牛獣人は、戦闘的な種族でクラディウス家とは血を血で洗う闘争を繰り広げた一族の末裔だが、百年以上、忠誠を誓ったクラディウス家とともに歩む中で真面目で穏やかな種族となった。
もっとも牛獣人特有の芯の通った性格は無くしておらず、それが高い忠誠心の源かもしれない。
「う、また胸のあたりがきつくなっちゃったかも」
この前、仕立て直してもらったばかりなのに、とため息を吐く。
「バテル様もちらちら見ているし、やっぱり太ったのかな」
バテルの単なる下心に違いないが、純真でまだ幼いイオは、太ったせいだと嘆いている。
「最後にこれを」
従者の正装たるメイド服に着替えるとカウベル付きのチョーカーを最後につける。
チョーカーの位置を神経質なほどに調整し、小さな鈴を手で揺らして、鏡で自分の姿をじっと見る。
「よし」
ようやく納得がいったイオは、部屋を出て仕事に向かう。
「けほけほ」
イオは、今朝からのどの調子が悪く、体も熱っぽい。
牛獣人であるため体はよほど丈夫な方だが、ここ半年ほど、夜明け前には準備を始めているので無理がたたったのだろう。
それでもバテルのために従者として働くことはイオにとっては喜びだ。
ただ、いつも一緒だったバテルが何も言わずに出て行ってしまうことが、彼女の心に暗い影を落としていた。
(バテル様は、こんなに早く起きて、どこに行っているんだろう? 稽古だというけれど私も連れて行ってくれればいいのに)
イオはただバテルのことが、心配だった。
(いつも帰りが遅いし、帰ってくると疲れ切っていて、倒れるように寝てしまう)
それがもう半年以上だ。
働き者のクラディウス家の人間だといっても多忙が過ぎる。
帰ってきては泥のように眠ってしまうバテルを見て、体を壊すのではないかと気が気ではない。
(父上や母上、ご当主様たちが戦死してからバテル様はすごく頑張ってる。でも、無理しすぎてないかな。せめてどこで何をしているかわかればいいんだけど)
だが、再三再四、尋ねてもはぐらかされるばかりで教えてはくれない。
長年のともに暮らしてきたからイオには、バテルのウソなどすぐにわかる。
絶対にただの稽古ではない。
(いけいない。従者である私が、バテル様を詮索するなんて。でも、もし、もし危ないことに巻き込まれていたら……)
だが、主人が何かおかしなことに巻き込まれていたのならば、それを止めることもまたバテルに仕えるイオの役目。
同じくクラディウス家に仕えていた父にも幼いころから言われていることだ。
(バテル様は優しいから私に迷惑をかけまいとしているのかもしれない)
バテルは帝国貴族には珍しいお人よしだ。
中央貴族と辺境貴族では気風に違いがあり、辺境は中央ほど身分にうるさくないとはいえ、バテルは貴族ということを感じさせないほどに分け隔てない。貴族なのにおせっかいの世話焼きだ。
その性格がたたって厄介ごとに巻き込まれているが、イオに気を使って、言い出せないのかもしれない。
主人が困っているなら助けるのが従者の役目だ。早急に事を解決しなければならない。
(これも従者としての役目。バテル様が何をしているか突き止めないと)
イオは意を決し、バテルの寝室に向かう。
「おはようございます。バテル様」
「ああ、おはよう。イオ。イオはまだ寝ていてもいいんだぞ。準備なら自分でできる」
「いえ、そういうわけにはいきません。私はバテル様の従者ですから」
「わかった。けど無理はするんじゃないぞ。」
なにもおかしいところはない。いつもの優しいバテルだ。
イオは、何度もバテルは自分の不手際に怒って何も言わないのではないかと、考えたが、バテルの態度はいつもと変わらず怒っている様子はない。
むしろ機嫌がいいように思える。そのバテルの今まで見たこともないような機嫌のよさが、さらにイオの心を乱す。
「あ、また、そのチョーカーつけているのか。それは従属の証だろう。つけなくてもいいのに」
「いいえ、これは部族の誇りです。それにバテル様に頂いたものですから」
「それは俺が知らなかったから。まあいい。また今度、別の奴を」
「ありがとうございます。でも、これは外しませんよ」
「相変わらずイオは頑固者だな」
獣人を屈服させた証という歴史的経緯を聞いたバテルは、イオにプレゼントしたことを後悔したが、イオは頑なに外さない。
同い年であるため双子の兄妹のように育てられてきたバテルとイオは、お互いのことを信頼するところ海よりも深い。
イオは立場上常に一歩引いているが、バテルが家族だと思ってくれていることも知っている。
お互い家族が屋敷を離れがちだった分、バテルとイオは本当の兄妹以上の強いつながりがある。
「俺はもう行くよ」
「……なにか食べて行かれますか?」
「いや、いい。夕食だけ頼む」
「せめて、スープだけでも」
「ごめん。急いでいるんだ」
イオは多忙なバテルの体を少しでも休ませようとするが、バテルは聞き入れない。
「今日はどちらに?」
「稽古をした後に町をまわるつもりだよ」
(嘘だ、バテル様はまた嘘を)
それがイオにとって残酷な真実であったとしても、イオはバテルのすべてが知りたい。
バテルの笑顔を見るたびに胸が締めつけられる。
裏も取ってある。
門番に確認したところ、バテルは朝一番で外に行き、帰ってくるのは夕方ごろだという。
「私はお供しなくてもよろしいのですか。けほ」
「大丈夫だ。イオは屋敷で仕事をしていてくれ。それよりも大丈夫か。体調が悪そうだけど」
「けほけほ。申し訳ありません。朝から少し咳が」
「イオが咳? 珍しいな」
生まれてから病気一つしない元気が売りの少女イオが、珍しくせき込み顔色も悪い。
まじめすぎるイオは、体調を押して、朝早くに起きてはバテルを見送り、それから家事などの通常の業務をこなして、遅くまで主人の帰りを待っている。
イオは隠しているつもりだったが、いつも一緒にいるバテルにはすぐに分かった。
「イオ。やっぱり今日は、休んでいてくれ。姉上には俺から伝えとく」
「大丈夫です。私、働けます」
イオは元気よく腕を振って見せるが、咳が止まらない。
「ダメだ!」
バテルが声を荒げるとイオはびくっと体を震わせる。
「……すまん。よし、すぐに帝国一、いや世界一の神聖魔術の使い手を呼んでくるか
らそれまで休んでいてくれ」
(帝国で一番? そんな神官様がこんな辺境にいるわけがない。でも、嘘を言っているようにも見えない。もしかしてバテル様は誰かに洗脳されているんじゃ……。帝都で似た事件があったと聞いたような)
イオはどんどん不安になってくる。
「大丈夫……いえ、わかりました。では、今日はお言葉に甘えて、お休みします。いってらっしゃいませ」
イオは言いたいことを飲み込んでいつも通り、バテルのことを見送った。