魔物
この地に生まれた以上、このままでは穏やかには暮らしていられないことを知った。
穏やかに暮らせれば一番だったが、前世の記憶があるとはいえ、まだ十歳。
危機迫る状況を変えられるほどの力はない。
その状況すらわからないことが多すぎる。
だけど弱音を言っている場合ではない。
早く力をつけて、この帝国をどうにかしなければ、俺たちに明るい未来はない。
まずは剣術と魔術だ。父や兄たちのように強くなければならない。
バテルは独自に修行をすることにした。
この日は、気分転換に新鮮な空気でも吸おうと近くの森に修行に来ていた。
森というと十歳の子供が一人で行くには危険かもしれない。
ただ、この世界にはいわゆる魔法である魔術やそのエネルギー源となる魔力が存在するが、魔物はいない。
確かに、狼や熊などの野生動物は出るかもしれないが、不思議とこの森にはいないらしい。
ディエルナの近くとあって、盗賊も現れない。
多少危なっかしいが、たまにはいいだろう。
そんな軽い気持ちで来ていたのが命取りとなった。
「ふん、ふん」
無心で剣を振っていると森の奥から唸り声のような音が聞こえた。
「なんだ?」
剣を振るのをやめ、耳を凝らす。
唸り声はどんどん大きくなり、地響きもしてきた。
なにかがこっちに向かっている。
この世界は魔法の存在するファンタジーな世界だが魔物はいない。
熊か狼か。
森の奥をじっと見つめる。
「やばい。嘘だろ。あれはなんだ!」
大きな人影が見えた。
こっちに走ってきている。
あれは人間ではない。
人の形をしているが、遠目に見てもわかるほどの巨体で、異様なほどに筋肉が盛り上がり、体表は緑色だ。
狂ったように叫びながらこっちに向かってきている。
この世界にはいないはずの空想上の怪物、人型の魔物だ。
「グオオオオオオオオ!!!」
「逃げないと」
そう思った時にはもう遅い。
身長が三メートルはあろうかという化け物から逃げきれるはずもない。
バテルと魔物の距離はどんどん縮まっていく。
「イチかバチかやるしかないか」
バテルは、剣を捨てる。
あの魔物相手に子供が剣で斬りかかったところで倒せるわけはない。
右腕を構え、ほとんど使ったことのない魔術での迎撃を試みる。
「炎よ!」
魔法陣が展開され、魔力が充填されていく。
そして臨界点に達し、火球が発射される。
小さな火球はまっすぐ魔物に飛翔し、直撃する。
「やったか……な訳がないよな」
魔法でも魔物を倒せると思ったわけじゃない。
目くらましだ。
「グガアアアア」
火球に驚いた魔物の隙をついてバテルは走りだす。
だが、無情にも魔物の手はバテルを捕えた。
「しまっ。うわああ」
右腕を魔物に捕まれたバテルはそのまま棒切れのように振り回され、木に叩きつけられる。
「ぐはあ」
内臓にダメージがあったのか。口からとめどもなく、血を吐き出す。
全身に力が入らない。
腕は引きちぎられてしまったようだ。
(これじゃあ、まともに剣を振るえない。ああ、関係ないか。もう死ぬんだから)
もはや痛みも恐怖も感じない。
(何もしないまま俺は死ぬのか。父上や兄上たちのこともわからないまま。何も守れずに死ぬ。イオ、ディアナ姉さん。ごめん)
ただ悔しさだけがこみあげてくる。
「大丈夫か。坊主」
バテルと人型の魔物以外誰もいないはずの森で、どこからともなく声が聞こえてくる。
小鳥のさえずりのような耳心地の良い声だ。
(誰だ? 俺は幻聴でも聞いているのか)
バテルはまだかろうじて動く眼球を動かす。
「ここじゃよ。ここ」
「あ……」
ちらりと見ると真横に少女が立っていた。
(女の子? こんな小さい子がなんでこんなところに?)
死を前にしてバテルは不思議と冷静だった。
窮地に現れた少女をじっくりと観察する。
小麦色の肌に尖った耳、おでこには二つの角のようなでっぱり。
鮮やかな光沢を放つ銀色の長髪は金色の髪飾りでまとめられている。
服は、横に深いスリットの入ったチャイナドレスのような白に金銀の刺繍の入った仕立ての良いものだ。
(きれいな子だ。ちょっと人間離れしてて、神秘的な感じがする。おでこに角もあるし、人間じゃないのか?)
この世界には人間以外にも多種多様な種族が住んでいる。
例えばバテルの従者であるイオは牛獣人と呼ばれる種族だ。
しかし、少女のような種族は、ここら辺では見たことがない。
それに見た目は幼くとも、バテルには年下には思えなかった。
妖精のような美しさと余裕のあるどっしりとした威厳がそう感じさせるのだろう。
実際、年上であっても長命の種族であれば、少しも不思議はない。
前世の記憶では不自然に見えることでも、この世界では常識として横たわっている。
「何やら森が騒がしいと来てみれば、ひどいやられようじゃな。今、治してやろう」
少女が、バテルの体に手を当てると、バテルは暖かな光に包まれた。
(神聖魔術。ダメだ。そんなことをしてたら。化け物が目の前にいるんだぞ)
「あっ」
バテルが、少女に逃げろと声をあげるよりも前に、体から痛みが消え去った。
体が完全に回復している。
傷はすべて塞がり、擦り傷一つなくなっている。
それどころか引きちぎられた腕まで、まるでさっきまでの惨状が夢であったかのように、完全に元通りになっている。
「こんなにも早く治るなんて、高位神官の神聖魔術でも無理なはず」
「神聖魔術? ああ。おぬしらで言うところの治癒魔術じゃな。なに、わしほどの使い手であれば造作もない。少しそこで寝ておれ。坊主」
少女はバテルの頭をなで、微笑を浮かべる。
怪物を相手に微塵の恐怖も動揺すら見られない。
「さて怪物、よくもわしの森を荒らしてくれたな」
「グオオオオオ!」
怪物に言葉など通じるはずもない。
狂騒状態の人型の魔物は小さな少女に容赦なく襲い掛かる。
そこから何が起こったのかバテルは理解するまでに時間がかかった。
少女が少し手を振ると人型魔物の片腕が消し飛んだのである。
「グガアアアア!」
人型の魔物は絶叫する。
「骨のある相手かと思ったが、他愛ない。久しぶりの戦闘じゃったのに準備運動にもならんわい」
「グオア!」
人型の魔物はまだあきらめていない。
なんと知能を持たない怪物のくせに魔法陣を展開している。
「あいつ、魔術が使えるのか」
貪欲に魔力を吸い込んだ魔法陣が、禍々しい光線を吐き出す。
少女に直撃したかに思えたが、少女は魔力の結界に守られており、傷一つついていない。
「ほう。魔術か。これはなかなか面白い。じゃが」
少女は結界を解除し、右手から魔力を凝縮した光弾を発射する。
光弾は、人型の魔物の光線をはじき返し、そのままもう片方の腕を吹き飛ばした。
「グ……ガガガ……」
「哀れな奴め」
少女はぬるりと距離を詰め、憐憫のまなざしをもはや立っているだけの魔物に向ける。
そして、魔物の胸に手を添える。
「はあっ!」
少女が力を籠めると魔物の肉体は爆裂四散した。
無数の肉塊に成り果てた魔物が辺りに散らばる。
「……」
バテルはその光景をただ圧倒されるがままに呆然と眺めているしかなかった。
「大事ないか。小僧?」
「ああ、ありがとう。おかげさまで生きているよ」
バテルは、腰が砕けたようになっていたが、少女に引っ張り上げてもらい立ち上がる。