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「……少し席をはずしている間に、ずいぶん楽しそうじゃありませんか、あのふたり」
ケラケラ笑いながら踊る晶と、やさしく苦笑するクラウディオ(……という風に、はたからは見えた。彼のしつけのよさと礼儀正しさのおかげだった)を見ながら、桐生園子は言った。
妃穂は機嫌の悪さを露骨にあらわして言う。
「なに。晶、あんなやさおとこがいいの」
ちろり、と横目で園子が妃穂を見た。
「やきもちで目がくらんでいますよ、高橋さん。あれは公正に見てなかなかの上玉だと思います」
「そうかしら」
やはり納得がいかないというように妃穂は眉をひそめたが、そのとき一段と優雅な曲が流れはじめた。二人は揃ってスピーカーのあるほうを見上げる。
「ラスト・ワルツね」
「そうですね」
口調こそ静かではあるものの、園子の瞳は再び獲物を狙うような鋭い輝きを見せはじめていた。
曲がはじまっても、晶とクラウディオとは離れる素振りを見せない。
実際には単に晶はそこまでまわりが見えておらず、クラウディオは晶が暴走しないように制御するので精一杯で、こちらもまわりに目をやる余裕がなかっただけのことなのであるが、傍目には『別れを惜しんでラスト・ワルツを夢中で踊る恋人同士』であるかのように見えた。特に、妃穂と園子には。
「だめーーー」
たまりかねたように大声で言いながら飛び出して、晶のわき腹に前のめりで体当たりしたのは妃穂であった。
えっ、という顔で園子が、自分の右隣とホールにいる妃穂を見比べる。
なにが起きたのかわからない、と言いたげであった。
「ぐはっ」
思い切り、全体重をかけてタックルされて、晶の首から上がブレる。
それには構わず、妃穂が声を裏返らせてまくし立てた。
「いやです、最後はわたくしとです!」
ホールで踊っていたものが足を止めてしまうほどの大声であった。
「ひ……妃穂、さん」
茨木が、止めたそうに手を途中まであげた格好で固まっている。だがもう遅い。
「ちょっと、ずるいわよ、高橋さん!」
ぐはっと、再び晶がうめいた。妃穂の反対側から同じく勢いよく園子がぶつかっていったのだ。
「最後はわたくしと踊るのよ、尾崎さん!」
「だめよわたくしと!」
妃穂が言うのに、園子がふふんと鼻で笑う。
「制服のままで、なに言ってるんです。わたくしは一応ドレスですから」
「関係ないわ。わたくしは晶のルームメイトよ」
「それこそ関係ないわよ」
「どいて下さい」
「いやです」
二人は晶を挟んでバチッと火花を散らした。
「な……」
晶は、今ようやく目が醒めたように小さく頭を振った。きつく目をつむって、開いて。つむって、開いて。
「なに、やってんの、二人とも?」
「だいたいあなたが邪魔なんです!」
妃穂と園子、奇しくも二人の台詞が重なる。
二人とも手を伸ばし、目の前にいるクラウディオを押しやった。晶を奪い返すように両手で抱きしめながら園子が言う。
「家柄がなによ。南シチリアなんて19世紀まではスペイン領だったところじゃありませんか! 桐生家の歴史は8世紀にまで遡れます、サヴォアがなんぼのもんですか!」
妃穂も負けじと息を吸い込む。
「わたくしは高橋家の次期当主となるのです、総資産額ではこちらのほうがはるかに上だわ、あなたなんか晶にふさわしくありません、お下がりなさい!」
「妃穂さん……」
ダンスフロアの外側でそれを見ていた茨木は、ついに両手で顔をおおってうつむいてしまった。
ラスト・ワルツを踊っているものは既に一組もおらず、音楽だけがむなしくホールに鳴っていたが、二人はなおも続けた。今度は晶に向かって言う。
「晶!」
「尾崎さん!」
「は、はい」
「結婚してはいや!」
「はい?」
きょとん、と晶が首を傾げるが二人はかわるがわるに言い続けた。
「そうよ、いつかはいいけど今はいや! それに、あなたが絶対幸せになるってわかってる相手じゃないとわたくし許さないから!」
「大体尾崎さんにはもっと筋骨隆々でたくましいタイプが合うと思います。そんなひょろひょろしたのでは物足りないです!」
「考え直して、晶。ヨーロッパの一般貴族なんてね、税金と城の維持費だけでカツカツなんですから。そんな、苦労するってわかってるようなところだめよ!」
音楽は鳴っているものの、妙にしいんとしてしまったホールで次に口を開いたのは、晶だった。
「……あんたらさあ」
うんざりした口調で言いながら、きつくしがみついているふたりを交互に見る、その視線は冷たい。
「一体、なにを勘違い?」
くっと、肩を震わせて笑い出したのはクラウディオだった。
軽く握った拳を口元へあてがい、くっくっくっくとさもおかしそうに笑う。
いきなり突き飛ばされて、いったんは目をぱちくりさせた彼だったが、晶に通訳してもらわなくても大体の雰囲気で少女達が言っていることに察しがついたらしい。
笑いすぎで目尻に浮かんだ涙を指で拭い取りながら、おかしそうに、そしてどこか嬉しそうに言った。
「ほんと、仲良しだね。聞いてたとおり」
本当は妃穂や晶の部屋で話をしたいところだったが、寮内は全面男子禁制なのでそういうわけにもいかない。
妃穂に園子、晶とクラウディオ、それに茨木の5人は来客用の応接サロンで話をすることにした。
応接サロンは一階の来客用出入り口の脇にあり、一段低く造られているせいで廊下を通るものからよく見える格好になっていた。
そこに、茨木がしずしずとお茶を運んでくる。
「あのねー……」
サロンのソファの背もたれに、晶は片肘を預けて、斜めに腰掛けている。
ドレス姿だというのにその行儀の悪さ。だがそれを咎める者はいない。
妃穂と園子は向かい側のソファに並んで、膝をくっつけて神妙に座っている。
クラウディオはというと時折イタリア語で隣の晶に話しかけては、その答えに背中をまるめて笑ったり、納得したようにうなずいたり。
茨木が各々の前に麦茶のグラスを置き、妃穂の隣に腰をおろしたところで晶が再び口を開いた。
「ふたりとも、あたしがこいつのところに嫁に行くって思ったの?」
妃穂と園子は顔を見合わせた。
「だってそれしか」
「ないかと思って。ねえ」
「頼むよ」
晶は、これ見よがしなため息をついた。
その晶に、クラウディオが言う。
「場の雰囲気から、ひょっとしたらとは思ってたけど……晶、僕が来ること言ってなかったの?」
「そうだっけ」
言ったような気がしたけど、と伝法なしぐさで耳の後ろをかく晶をクラウディオがたしなめる。
「皆さんがこれだけ驚いてるってことは、ちゃんと君が言ってなかったってことなんじゃないの?」
ううー、と晶はうなった。
「それはダメでしょ、晶」
「うーん……」
「それは、誰でもびっくりしちゃうよね」
晶の肩に軽く手を添えて反省を促すクラウディオを見て、3人は納得した。
ああ、これは恋人ではない。
どちらかというと、これは保護者に近い。
「あのねえ、そんなことできるくらいなら、あたしは12の時にこいつに振られてないよ!」
えっ、と妃穂が驚いて口元を手で覆う。かわりに園子がずいと身を乗り出した。
「振られたんですか。なぜ」
「乱暴者だから?」
情け容赦なく言う美少女二人に、晶は本格的にむくれた。
「かもね!」
横を向いて口を尖らせる晶のことを、茨木はじっと観察していたが、やがて少し浅く腰掛け直してクラウディオへと向き直った。
そして彼に直接話しかけた。
茨木の口から出たのは、ゆっくりめの、きれいな発音の英語だった。
「晶はあなたに振られたと言っていますが、それは本当でしょうか?」
妃穂と園子がふたり揃って、あらっという顔をした。相手がイタリア人なら英語で意思の疎通をはかることも可能なのだということに、今気づいたらしい。
果たして、クラウディオも聞き取りやすいゆっくりした英語で茨木に返した。
「残念ながらそれは本当です。はい、僕は晶に告白されて断りました」
「こちらのお二人は、晶が乱暴者だから振られたのではないかと言い、彼女はそれを否定しないのですが、それも本当ですか?」
「それは違います」
クラウディオが、静かな微笑を浮かべて首を横に振った。
「晶がはっきり答えないのは、僕の立場を考え、そしてそれを守ろうとしてくれているからだと思います」
「その立場とは、と伺ってもよろしいでしょうか?」
隣で晶が心配そうにクラウディオを見ていたが、彼は臆せずに先を続けた。
「それは多分、晶に説明してもらったほうがいいでしょう。ねえ晶? あの時、僕はなんて言って断ったんだっけ?」
向き直られて晶は押し黙った。言いたくないのだ。
自分の辛い思い出のためにではなくて相手を守るための沈黙だと、その様子を見ていた茨木は思う。
視線をそらし沈黙する晶に、しかしクラウディオは笑顔で促した。
「教えてあげて。きみを心配している彼女たちに」
「言わなくたっていいのに……」
晶はやはり言いたくないようであった。
だがクラウディオは笑顔のまま、しかしきっぱりと首を横にふる。
「今回のことではずいぶんと騒がせたようだからね。彼女たちへは説明義務があると僕は思うよ」
「……」
「言って」
「あー……」
彼の気持ちが変わらないのを見てとって、晶は片手を首の後ろへ揉むようにあてがう。
しばらく迷った末に、晶は小さな声で言った。
「女は、いやなんだ」
「え?」
「なんですって?」
妃穂と園子が身を乗り出して聞き返した。本当にわからないという顔で。晶は早口のイタリア語でそれを言ったのだった。
「こら。それはズルでしょう」
ごく軽く、晶の頭をやさしく叩いてクラウディオは言った。
「ちゃんと日本語でどうぞ」
「気持ちは嬉しいし、晶のこと、大事な友だちだと思ってるからうちあけるけど、実はぼく、女の子が苦手で」
今度こそ日本語で晶は言った。淀みのない口調は、その時の彼の言葉をずっと忘れていなかったことをあらわしていた。
「だから気持ちには応えられない……って言われたの。12の時、告白したその場で」
妃穂と園子はどちらからともなく互いに顔を見合わせた。
ゲイね。ゲイなのね。
その瞳が雄弁に語っている。
そしてほぼ同時に、示し合わせたようにクラウディオを見た。
聖葉高等部一年生の、美少女筆頭二人組に見つめられて、クラウディオはにこっと微笑み返してみせた。
その笑顔は、それだけの美少女に向けるにしてはあくまで『愛想のよさ』の域を超えない代物だったので、二人はなんとはなし、納得したように彼から視線を外した。
「そりゃあショックだったけど、それでもあたしはやっぱりこいつのことが好きだったし、友達は友達だって思っていたし、そんなことでせっかくの二人の関係をだめにもしたくなかったから……」
晶は少し目を細めた。かすかに笑っているように、茨木には見えた。
「仕方がないから、もう、それ以降ずっと友だち」
そこまで聞いて、妃穂と園子は二人ともほっとした顔を見せた。
それを見咎め、すかさず晶が言う。
「なに? あんたたち、嬉しいの?」
今までとは一転して、険しい口調だった。晶の目の下がかすかに引きつっているのは、寝不足のためと怒りの前兆、両方からである。
「一応あたしにとってみれば初恋だったしさ、けっこうなハートブレイクメモリーなわけなんだけどさ。なに? 嬉しいの?」
「え……」
「ねえ……」
ふたりは気まずそうに再び顔を見合わせる。語尾を濁らせて沈黙するのが、肯定を意味していた。
晶の目がよりいっそう細くなる。今度は過去を懐かしんでではない、怒りのためだ。
「ひどくない?! ひどいよね!!」
雷が落ちる。
晶は妃穂と園子を順々に指差しながら、烈しい声を出した。
「あんたたち二人ともそこに正座して! それから……」
じろりと後ろを向いた。
サロンの段差のところで、低い手すりに半分隠れるようにして顔を覗かせていた同級生、先輩、それに中等部生たちがあわてて顔を引っ込めた。もちろん晶はそれを見逃さずに声を張り上げる。
「そこで覗き見してるの、あんたらも全員正座! こら逃げない!」
びしびしびしっと女の子たちを叱りつける晶を見て、クラウディオは子ども時代を思い出したように半眼になって目を逸らした。そしてそっとイタリア語でつぶやいた。
「晶の雷落とし、健在だな」
気の毒に、と肩をすくめるがその顔はやさしい。
「怖いんだよね、これがまた……」
晶のことが心配で日本までやってきてみたが、無用な心配だった。
彼女はここで、ちゃんとやっている。イタリアにいたときと同じように、うまく。
見に来てよかったと彼は思った。
これで安心して帰ることができる。
クラウディオは、床に並んでちょこんと正座している二人を見た。
妃穂も園子もどこかしらほっとしているような、嬉しそうな表情である。
それを見て、彼は思った。
いざとなったら本当に晶をイタリアに連れて帰ろうと思っていたけど、その必要はなさそうだなと。
昔は本当に女嫌いで、話すのも嫌なくらいだった自分だけれど、晶のおかげで今ではそれがだいぶ軽減された。
昔から気が弱くて女の子に意地悪されていた自分を、何くれとなく庇ってくれて、一緒にいてくれた晶の事が大好きだった。
今も、ずっと。
もしどうしても結婚しなければいけないとしたら晶がいいなと思っていることや、相手が晶ならこれからの人生きっと楽しいだろうと思っていることなどは言わない方がいいな、とクラウディオは叱られている少女たちを微笑ましく見つめながら思った。
でないと、またひと波乱起きそうだから。
西欧でちょっと見場のいい男はたいがいゲイです、と誰かが言っていましたが、イタリアはそのなかでもゲイ率の比較的低い国だそうです。
ですがそこで自分の性癖に気づいたクラウディオは、余計に肩身が狭かったものと思われます。
晶「しかもお姉さん3人いるんだよあいつんち」
妃穂「それは……何というか、お察しするわ」
そんな彼が心を許して話ができる唯一の女の子が、晶でした。そのせいもあって、晶に対しての感情は「どうせ結婚するなら晶がいいな」ではありますが実際には「いとこ」に近い感覚で大切に思っている模様です。
次は、高橋妃穂の犬猿の仲である聖葉高等部でも双璧のお嬢さん、桐生園子をピックアップ。
「もしかして、待ってたの?」
「だって他にもう、ここでしか手に入らないものなんてないし」
『焔』