わたくしには役不足ですわ。
西の王国、ローウェスで開かれた王太子の誕生日パーティーは例年よりも国外からの出席者が多かった。
それもそのはず、と王太子――ルノーは納得し微笑を浮かべていた。自身が通う学園では完璧な王太子と名高いルノーは今晩も最高品質・最新の衣装を身にまとっている。端麗な顔に浮かべた表情はどんなものであっても心奪われてしまう女性が多いだろう。今年成人を迎えるルノーは学園を卒業すれば結婚し、政務に携わる機会もぐっと増える。これらの国外からの出席者はみな自分に期待している者だろうと信じて疑わなかった。
そんなルノーのそばに控えるのはコルデリア・フォン・シシリウス侯爵令嬢だ。この国でトップレベルに高貴な姫君であり、そしてルノーの意中の人である。学園の生徒会で共に仕事をこなすなかで、彼女ならば王妃としてふさわしいとルノーは判断していた。多くの令嬢に慕われており、社交界をまとめ上げる手腕もある。そしてなにより美しい。
だから、とルノーはコルデリアを連れホールを横断した。
ファーストダンスを踊るのは主役のルノーだ。だが彼はそのダンスが始まる前に、なすべきことがあった。
美しい王太子と令嬢の前に立つのは一人の女性だ。本来は、ルノーがファーストダンスを踊るべき相手――婚約者だった。それが、ルノーはエスコートからすっぽかしている。これはもう彼女に付き合うつもりはないという強固な意志表明であり、パフォーマンスだった。
「エルティエ・サタナトゥス」
名前を呼んで初めて、彼女、エルティエはルノーに視線を向けた。
エルティエは決して絶世の美女というわけではない。だが、化粧をしてオーダーメイドのドレスを身にまとい、そしてなにより仕草の一つ一つが洗練されているエルティエに圧倒されない者はいないだろう。幼いころから小言を言われ続けたルノーもいまだエルティエを前にすると萎縮してしまいそうになる。
それも、今晩で終わりだ。
「――君との婚約は破棄する」
その言葉はホールによく響いた。
エルティエは片眉をあげて反応する。それに畳みかけるようにルノーは言葉をつづけた。
「君はこれまで未来の王太子妃としての責務を果たしてはこなかった。令嬢たちと交流することもなく、公爵領で成した業績もなかったと聞く。その上学園にも通わず身勝手に留学などしていたな。そのような者はわが妃としてふさわしくない」
そしてコルデリアの手を取った。彼女に頷かれれば勇気もわいてくる。これが、エルティエとの決別の第一歩だ。
「私はエルティエ・サタナトゥス公爵令嬢との婚約を破棄し、コルデリア・フォン・シシリウス侯爵令嬢と婚約することを宣言する!」
高らかに宣言したルノーに一気にざわめきが広がった。学園に通っていた若い子女からは納得の声が大きいが、それ以外は戸惑っていることがわかる。
エルティエはじっとルノーを見つめた後、すっと手を挙げた。それだけでホールは水を打ったように静まり返る。
「よくってよ、ルノー。ええ、あなたの婚約者の座はわたくしには役不足だと思っていましたの」
エルティエは手を下ろし持っていた扇をぱっと開いた。その扇も、そしてドレスも、どれもこの王国ではめったに見ない奇特なものだ。エルティエに似合っていないわけではないがルノーにとっては目障りなものだ。まるで留学先に染まりきっているようではないかと思う。
だが役不足、と自ら認めたことにルノーは溜飲を下げた。そうだ、エルティエはふさわしくないのだ。自分のような優れた者の横にはより優れていて、なおかつ従順な女が必要だからだ。
「あなたがそのように言うのならわたくしもやぶさかでないわ。ええ、婚約は破棄いたしましょう」
「ふ、はは、いいのだね!もう取り消せはしないぞ」
「それはこちらの台詞ですわ。だいたい、婚約者の責務を果たしていなかったのはルノー、あなたでしょう?わたくしを迎えに来ず、エスコートもせず……このタイミングで言ったのだって陛下に認めてもらえず、けれどわたくしとファーストダンスを踊りたくなかったからではなくって?相変わらず身勝手で短慮だこと」
「なっ!」
失笑するエルティエにルノーはいきり立った。しかしその感情をぶつける間もなく、エルティエはルノーの後ろにいた国王を一瞥して告げた。
「これでよいでしょう?陛下。さあ、わたくしとルノーの婚約破棄を認めてくださる?」
「エルティエ!陛下に対してなんと不遜な!」
「ルノー、黙りなさい」
一国の王、父に向けてなんという言い草かと再度沸騰したルノーを押さえつけたのはほかでもない国王だった。なんと言われたのか理解できずに戸惑うルノーをよそに、国王はエルティエに頭を垂れる。
「へ、陛下……?!」
「承知した。わが息子、ルノーとエルティエ・ルグルス皇女殿下との婚約は破棄とする」
「ふふ、よくってよ。ではこれでわたくしはもう自由というわけね」
「さよう。契約はなくなったのですから」
「け、契約……?」
うろたえるルノーをよそにエルティエは満面の笑みを浮かべて隣にいるサタナトゥス公爵を振り返った。「もうエスコートはよくってよ、お父様」エルティエが言ったとおりに、彼女の前には多数の男性がすでに集まっている。
「なぜ、なぜだ……!」
その誰もがこの国の外から来た賓客の男たちのはずだ。エルティエがその中から決められていたように一人を選ぶと、音楽が流れ始める。ルノーが踊るはずだったファーストダンスを、エルティエと見知らぬ男が踊っている。自分が知らないところで、何が起きているのか。コルデリアを見ても彼女も困惑しきった表情を向けるだけだった。
「ち、父上……これはいったい……エルティエは……」
「それはこちらの台詞だ、ルノーよ。いや……皇女殿下は最初からこのつもりだったのかもしれぬな」
「どういうことです?!そもそも、エルティエはルグルス皇家の血を引いていても、皇女ではないはず……」
「先ほどまでは、な。……この茶番までもが皇女殿下の手のひらの上ということであれば、わが国存亡の機と言っても過言ではないな」
エルティエは楽しそうにダンスを踊っている。ルノーはそこで初めて気が付いた。エルティエと、ダンスを踊ったことがない事実に。
ルノーの生まれたときからの婚約者がエルティエだった。ルグルス皇帝の姉がサタナトゥス公爵に嫁ぎ、生まれたのがエルティエだ。あくまで王国貴族のはずなのに、なぜ皇女などと――。
すっかり主役を持っていかれたパーティーの間中、ルノーは呆然とエルティエを眺めることしかできなかった。
現ルグルス皇帝が帝位につけたのは他でもないエルティエの母のおかげである。
そのことは嫌というほど皇帝自身からも聞かされていた。皇帝と言ってもエルティエにとっては「親戚のおじさん」で、母にベタ甘な印象が大部分を占めている。立派なシスコンと言っても差支えないだろう。
皇帝や、ほかの貴族たちはエルティエの母に帝国に残ってもらいたかったはずだ。だが、並み居る異母兄弟を蹴散らし弟を帝位につけるという大仕事を終えたエルティエの母は、もともと病弱であったこともあり早々に引退することを望んだ。未婚であったことを利用し、ローウェスの田舎貴族と結婚し趣味に没頭したのだ。
その趣味というのが薔薇の栽培である。サタナトゥス公爵領には薔薇の栽培に適した広い土壌があったことが結婚の最大の理由で、若きサタナトゥス公爵と気が合ったのが次の理由、とは本人の言だ。
ルグルス皇帝と縁続きになったサタナトゥス公爵が大きな力を得ることを恐れた王家は、王族の子とサタナトゥス公爵の子の婚約を強いて皇家の血を取り入れようとした。エルティエの母は火種を持ち込みたかったわけではなかったのでそれに同意し、結ばれたのがエルティエとルノーの婚約だ。
だが、これにはいくつか条件があった。
「ルノーにわたくしとの結婚の利点を説いてはならぬこと。ふふ、これが一番大きかったわね」
エルティエはダンスをしながらほくそ笑む。彼女の手を取るリウァロは目をすがめて応えた。
「エルティエ様自身のことを見てもらいたいという理由でしたか?」
「そうよ。でもね、政略結婚をするとして、その理由を教えてもらえなかったら反発するのが当たり前でしょう?」
くるり、と優雅にターンを決めてエルティエはリウァロに寄り添った。「そうでしょうね」とリウァロは頷く。
「わたくしも情けをかけて差し上げたのよ。わたくしからは婚約を解消しなかったでしょう」
「それはあなたがわざわざ自分の手を汚す必要がないと感じたからではないですか?」
「どうかしら」
もし、エルティエがもっと早い段階でルノーに婚約の解消を申し出ていたならば――ルノーはこんな愚行をしでかさなかっただろう。円満に婚約を解消し、コルデリアと結ばれていたはずだ。こんなエルティエ目当てで皇国の貴族が山のように集うパーティーで、醜態をさらすことはなかった。
幼いころ何度も顔を合わせたものの、エルティエにとってルノーは粗ばかりの少年だった。うるさく言ったせいで嫌われたという自覚はあるが、エルティエは自分が悪いとは思わない。元皇女である母からハイレベルな教育を受けていたエルティエの理想は高すぎて、ローウェスの田舎王族ごときでは満足できなかったのだ。
それに、ルノーがエルティエをないがしろにしたのは事実だ。これまでに何度かあったパーティーでも、ダンスを踊れる年齢になってからはエスコートされた記憶はない。最近は誕生日の贈り物はおろかメッセージカードの一つもよこされなかったし、親に強いられた交流以外は一切ルノー自身の意志で絶っていたのだろう。その上学園では人目もはばからずシシリウス侯爵令嬢と明らかに一線を越えた言動をしていたというのだから同情の余地はない。
一方エルティエは、アリバイ作りがほとんどの理由とはいえ、ルノーに季節の折のメッセージカードや誕生日プレゼントを贈ってはいた。今日だって探せばエルティエからのプレゼントがどこかに紛れているはずだ。ローウェスの教育レベルに満足ができる気がしなくて早々に留学する道を選んだが、それも将来の王妃としての皇国貴族との顔つなぎと考えれば問題ない。とはいえ、国内の貴族との交流を一切しなかったのは意図的だ。
皇国では親しい相手に婚約者とうまくいっていないことを話はしたものの、それだけである。エルティエのことを少し調べれば、ローウェスの王太子との婚約がなくなった段階で皇女の地位を取り戻すことはわかったはず。姉をたいそう慕っていた皇帝が、彼女が亡くなってからはことさらエルティエを寵愛していたのは傍目から見てもわかりやすかったので、つながりを持っていて損はないと判断した者が多かったのだろう。
その中の一人がリウァロだ。留学していた当時は同じ学院に通ってはいたものの、男爵家の次男でしかなかったリウァロはそれでも優秀すぎるほどに優秀だった。背が高く、体格もしっかりしている彼は細身の貴公子であるルノーとは一見正反対のタイプだ。しかし武よりも文に秀で、高位貴族の会話にも何の遅れもなくついてくる思考回路の速さと教養がある。
エルティエもリウァロを憎からず思ってはいたものの、男爵子息の彼との結婚は頷けなかった。自分には役不足だと指摘し、別れたのだったが――。
「それにしてもあなたがストウィン侯爵の養子になっているなんてね」
「ええ、あなたの隣に立っても不足のない地位だと思いまして」
「ふふ、悪くないわ」
現ルグルス皇帝の皇后はすでに亡くなっており、子はいない。皇妃の娘が二人いるが、いずれもエルティエには遠く及ばないお姫様たちだ。早くからルノーとの婚約解消を見据えていたエルティエが選ぶべきは皇帝の隣に立つ男で、だからこそ男爵家のリウァロでは力不足だった。
だが彼は情勢を読み、高位貴族の養子となることで正当な地位を得た。ストウィン侯爵というのがまたいい、とエルティエは口角を上げる。皇后、皇妃たちとは近すぎず、どちらかというと中立派の貴族。けれど学院でエルティエが論じた国策に使うにはこの先もちょうどいいポジションにいた。
ダンスが終わり、三曲連続で踊ったエルティエの手を取ってリウァロは壁際に寄った。それでもホール中の注目は二人に集っている。特に皇国貴族からはエルティエがリウァロを選ぶのかどうか、という緊張が走っていた。
「いかがでしょう?エルティエ・ルグルス皇女殿下。あなたにふさわしい男であると、どうかおっしゃってください」
胸の高鳴りを感じる。
エルティエは夢見る乙女ではない。だが、話していて楽しいリウァロのことはずっと好いていた。一度はふさわしくないと理性で切り捨てた彼が、こうして死に物狂いで這い上がり、地位を手にし、優雅な仕草で自分の手を取って求婚してくる。
そんなシチュエーションで、まるでルノーへの当てつけのようだと感じたとしても、頷かずにいられるだろうか。
ここまではしなくてよかったのだ、という気持ちを上回って、彼の独占欲と必死さに心が満たされる。
「よくってよ、わたくしのリウァロ。わたくしの隣に立つ栄誉を与えましょう」
エルティエの一言でわっとホールが沸く。
この日の主役が誰かなんてことは、言わずとも明らかだった。
婚約解消ではなく破棄、となったことでローウェス王家はエルティエに多大な慰謝料を払うことになった。具体的に言えばサタナトゥス公爵領丸ごとだ。エルティエは母の作った薔薇園と、ついでに父をローウェスにくれてやるつもりはみじんもなかった。だからこそルノーとコルデリアをけしかけ、多くの皇国貴族を招き、取り消すこともごまかすこともできない大ごとにしてやったのだ。
「これでローウェスでやることはおしまいね。お父様、どう?後悔していらっしゃる?」
サタナトゥス公爵領の屋敷でエルティエは荷造りを終えて父を振り返った。まさか父も、ルグルス皇女を嫁にもらうことがまわりまわって王国から公爵領を切り取られることにつながるとは思わなかっただろう。
サタナトゥス公爵はおもむろに首を横に振って、エルティエの手を取る。のんびりとした性格の父が怒るところをエルティエは見たことが一度もない。今回の騒動だってほぼ傍観者の立場で眺めていただけで、エルティエに婚約破棄を突きつけるルノーに激高するどころか口を出しもしなかった。それはそれでどうかと思うが、そういう人なのだ。だから母も父を選んだのだろう。
「いいや、エディリアと共に暮らせたことが僕の幸せだったからね。それにかわいいエルティエは大切にされるところに行くべきさ。まあ、皇帝になったら大切にされるとかそういう次元じゃないかもしれないけど」
「ふふ、安心してくださいな、お父様。わたくしにはお父様がいますもの」
「そうだねえ。何があっても僕はエルティエの味方だから、いつでも帰っておいでね。リウァロ君と喧嘩したときとか」
「考えておきますわ」
エルティエは母譲りの瞳を細めて笑う。
もし母が健康であったなら、皇帝になっていたのは母だっただろう。そうはならなかったが、母は代わりに皇帝への道をエルティエに遺しておいてくれた。
――エルティエにとってこの世で最も満足のいく役を。
意図的な誤用が何か所かあります。
7/25追記 誤字指摘がありましたが、「存亡の機」は本来の言い方であり、「存亡の危機」のほうがいわゆる誤字です。
ただし、平成28年度の文化庁「国語に関する世論調査」においては「存亡の機」を使う人が6.6%、「存亡の危機」を使う人が83.6%となっており、「存亡の危機」が一般的な単語となっています。
本作品ではあえて「存亡の機」を使用しています。