『日本はもう助からないのか?』➁
諸君らは、学校教育に疑問を感じた事はないだろうか?
というのも、賢い読者諸君には分かるだろうが「皆が皆、同じことをするべきである。皆と同じように従えばよい」という、旧社会の考え方が令和の社会に置いても、未だに健在なのが、学校等の教現場なのである。
優秀な人間を代わり者扱いにして排除し、本来優秀であったはずの人間が載るはずのレールをずる賢い人間たちが独占する。それは、何も大人の社会から始まり、限定的な場所のみで起きている訳ではない。
学生の時分ですら、スクールカーストというものが、教育の場(主に生徒間の間)に存在し、差別化を常日頃から図っているのだから。教員は、スクールカースト上位の人間を優遇する事により、クラスの平和と安定を保つため、些細な虐めの現場は見て見ぬふりをしている。
要するに、ずる賢い連中が、甘い蜜を吸い続ける構造を維持するために、仲間内の非道な行為を黙認し、自分に従順な人間を優遇し量産する。そして、本来活躍するべきであったはずの有能な人間を排除し日陰に追いやる。これらは、大人の社会から生ずる現象ではなく、幼少期の頃から我々の身の回りで、あたかも当然の様に行われている事であり、皆経験済みだという事が、ここでようやく分かるだろう。
つまり、人間の真の姿とは、荀子の言う通り、性悪なのである。
よって、皆と違う能力や考え方、思考力を持つ人間は、のけ者にされ、虐められ、孤独に耐え続けなくてはならない人生を送る羽目にある。
近年、虐めによる自殺がニュースが数多く取り上げられている。
また、欧米の様に加害者に報復するいじめの被害者も現れている。
これらは、カースト問題などに代表される見えない差別から来る劣等感から生ずるものだと言えよう。
『日本はもう助からないのか?』筆者である私が前回述べたように、日本を救う事は今となっては非常に難しい。
だからこそ、解決策(一種の延命治療)の一つとして、声を大にして言える事は、人々が助け合える環境の構築にある。
イエスの言う『隣人愛』の様なものが、今の日本には必要なのだ。という事である。
次回:『自らが動かなければ報われない社会』