第一章 鳥籠 3
3
やさしい暁光が、偽りの楽園を照らす。
スラムの荒野に残った、ただ一画だけの普通の街並み。こここそが、特権階級の住む《パラダイス》と呼ばれる土地だ。
「坊ちゃん、おはようございます」
その邸宅は、パラダイスのなかでも、より一層、立派なものだった。
鷹森家の豪邸。
特権階級といっても、この鷹森家以外の住人は、パラダイスを出さえすれば、富豪とはいえない。真の富豪と認められるのは、この家だけだろう。
ゆるぎないジャパンマネーを背景に、北米市場を独占している。『カタモリ』の名は、ここだけでなく、かろうじてスラムから逃れたシカゴ、ロサンゼルス、そして北米最大のマーケットであるカナダなどでは「ゆりかごから墓場まで」を提供する巨大企業として、子供でも知っている。
「おはよう」
世界的巨大企業のオーナーである、館の主を継ぐ者――鷹森由志は、使用人にそう挨拶を返すと、邸宅の階段を降りてきた。
広い家?
由志にとっては、自分を閉じ込める狭い籠のなかでしかない。
「おはよう、由志さん」
一階の食堂に入ると、すでに母と姉の二人が席についていた。
母の声を聞くと、由志も着席した。
「おはようございます、おかあさん」
そして、つけたすように。
「ねえさんも」
姉からの返事はない。
おくれて食堂に、主の鷹森健三が姿をあらわした。
「みんな、おはよう」
「おはよう、あなた」
「おはようございます、おとうさん」
「おはよう、パパ」
由志は、いつもこの朝の食卓に虚しさを感じていた。
表面は穏やかだが、内心では由志のことを厄介者だと思っている母――静香。
由志のことを、ただの跡取りという「モノ」としか考えていない父――健三。
あからさまに敵意をむき出しにしてくる姉――沙莉。
みな、由志とは血のつながりはない。
由志は養子だ。幼いころ、鷹森家にやって来た。まだ日本にいたころの話だ。身寄りのなかった由志を、健三の独断で引き取ったのだ。
そのときからずっと、家族ごっこが続いている。
「あなた、仕事のほうはどうなの?」
「順調だよ」
そんな白々しい会話が、空気のように流れてゆく。母にとって、そんなことは興味のないことだし、父にしても、まともに答える真心はない。
由志とほかの家族との関係だけではなかった。父と母、姉と両親との関係も冷えきっていた。
その原因が、自分がこの家にやって来たからだということはわかっている。
だから、いつも孤独だ。
アメリカに渡ってきたのは、7年前。
この落ちぶれた国のなかでは、さらに孤独感はつのっていった。
どこに自分の居場所はあるのだろう?
日本にも、このアメリカにも……いや、世界のどこにも、自分のいるべき場所は存在しないのかもしれない。
まるで檻のなかだ。
ここが……この家のなかが、というだけではない。広がる世界すべてが、自分を隔離する巨大な籠なのだ。
「由志さん、勉強のほうはどう?」
「はい、大丈夫です」
由志は、声だけは円満な家族としての演技を続けた。しかし、このまま籠のなかで朽ち果ててゆくつもりはなかった。
いつかは、ここを……世界を――。
* * *
「いい気にならないでね、由志」
登校時――。
高級車の後部座席で、冷たい声が響いた。
「本当なら、あなたなんて身寄りのない、ただの庶民なんだから。それをパパに拾われただけ。わかってる?」
悪意に満ちた言葉が、由志に降りかかる。
姉の嫌味は、高校につくまで続く。いつものことだ。それを無言で聞き流すことが由志の日課となっていた。
「なにか言ったらどうなの、みなしご由志」
「……」
沙莉は、勝ち誇った顔で由志をみつめた。
こんな性格させなければ、とても美しい姉だった。外見だけなら清楚を絵に描いたような美貌だ。
お嬢さま、という印象を強くあたえている白い肌。
それとは対照的な、長く艶やかな黒髪。
鮮やかな紅色の薄い唇は、どこまでも可憐で、一流の書道家がつくりだす墨色のような澄んだ瞳は、人の心を深く惹きつけてはなさない。
ほどよく細い輪郭に、それらが完璧に配置されていた。
「到着しました」
運転手の声で、由志は救われた。
すぐにドアが開けられて、さきに由志は車外へ出た。そのまま後ろをかえりみずに、校内へ向かった。
パラダイス唯一の学校。
名目上は、日本人学校となっている。
だがそれは、現在のここの「王」が『タカモリ』だからそうなっているだけで、日本人の生徒しかいないというわけではない。
タカモリで働く日本人が多いこともたしかだが、よく観察するまでもなく、先住のアメリカ人の姿も簡単にみつけることができる。
使用言語は、日本語と英語が教科によって使い分けられている。たとえば、数学は英語が主体で、社会や理科系の授業は日本語の割合が多い。
そのような形態になったのは7年前に鷹森家が渡ってきてからなのだが、もともとここにいた子供たちに不都合はそれほどなかった。
昨今では、プライドの高いフランス人でも日本語を話すことができる。世界の共通語はやはり英語といえるだろうが、日本語ができるとできないとでは、ビジネス上においては明暗を大きく分けることになる。
スラムの住人ならともかく、ここ《パラダイス》の人間にとって、日本人との交流は大歓迎なのだ。
タカモリが「王」と崇められるのも仕方なかった。
その王を継ぐ息子――王子たる少年は、無言で歩を進めていく。
日本でいうところの、小・中・高・大学が併設されている一貫校だ。ただし、そう聞くと広大な敷地に、巨大な校舎を連想するかもしれないが、実際には《パラダイス》と同様、ささやかなものだった。
由志は、ハイスクールの3年。
沙莉も同じだ。
2人の年齢は、いっしょだった。
誕生日も、2ヵ月ほどしかちがわない。
その2人が、姉と弟――。
「わたしについてこないでね」
「……」
「仲間だと思われたら、迷惑だから」
歪んだ性格を隠そうともせずに、沙莉は言った。血のつながりがないとはいえ、弟のことを下等なものとしか考えていない。
高飛車な後ろ姿を、由志はただ見送った。
「おはよう、ユウ!」
そんな肩を、だれかが叩いた。
クラスメイトのレイチェルだった。
白人特有の大人びた雰囲気のある、かわいらしい少女だ。
「おはよう」
さえない表情で、由志は言葉を返した。
彼女の魂胆はわかっている。自分に取り入って、父親を売り込もうとしているのだ。彼女の父は、貿易商をやっている。世界的にみれば塵と同じだが、ここではそれなりに財力のある人物だ。タカモリの御曹子と付き合いでもすれば、父親を仕事に使ってくれるとでも思っているのだろう。
「いつもながら、元気がないわね! さ、はりきって教室に急ぎましょう」
憎めないのは、この明るさだった。
取り入ろうとしていることも、あからさまにこそしていないが、べつに隠そうともしていない。
周囲を歩く生徒たちから、またやってるよ――と、軽蔑にも似た囁きがもれていた。
だれもが、タカモリ家とお近づきになりたいのが本音だ。だが、それを実践するだけの厚かましさに、みな欠けているだけなのだ。
由志の人を寄せつけない雰囲気も、それを邪魔していた。
「それでね、彼女ったら――」
教室に入るまでの短い道のり、由志はレイチェルへの対応をおざなりにこなしながら、歩を進めた。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、聞いてる」
彼女の席は、由志のとなりだ。いや、本来なら席の場所は自由なのだが、日本人学校になったからなのか、はたまた国籍人種をこえた人間の縄張り本能からなのか、いつのまにか席が決まっていった。
だから自席についてからも、彼女のおしゃべりは止まらない。
「そうだ、これ知ってる? 《ミンク》が、またやられたって!」
一段と瞳を輝かせて、レイチェルが声をあげた。やはり教室中を見渡しても、ほかに由志と会話をしようという者はいない。
「もう! ちょっとは驚いてよ!」
由志の反応があまりにも鈍かったので、レイチェルはたまらずに抗議したようだ。
「へえ」
いい加減な返事も仕方のないことだった。そもそも《ミンク》のヤツらとは、昨日会っている。
「例の男ですって! 顔を隠してるから、だれだか見当もつかないみたいなんだけど」
「……」
「きっと、すっごくカッコイイ男性なのよ! まちがいないわ」
「だれに聞いたの? 昨日のことなのに、よく知ってるね」
正直、彼女の情報の早さには、たびたび驚かされることがある。
「え? これ昨日の話なの?」
「え……いや、知らないけど……」
由志は、ごまかすように言葉を濁した。
「わたしの情報網を甘くみてもらっちゃ困るわね!」
レイチェルは、そう言って胸を張った。
「あ、信じてないでしょ」
「いや……そういうわけじゃ」
やはり由志の対応は、適当だ。
そこに、べつの声が割って入った。
「おい! そんなヤツと話してないで、こいよ、レイチェル!」
敵意をむき出しにしている。
「ダン! なんなの、これから授業なのよ!? どうしたっていうの!? だいたい、あなたはここを退学になったんじゃない!」
「うっせえな! こいよ、レイチェル!」
強引に、男はレイチェルの腕をとった。
「なにすんのよ!」
「おまえが、ほかの男に興味をもってるって聞いてな! こんなイエローがいいのかよ」
「やめてよ! 彼に失礼でしょ!?」
会話の内容からすれば、この男はレイチェルのボーイフレンドで、由志との仲に嫉妬して、退学になった学校にまで押しかけてきたというところだろう。
由志も知っている男だった。
以前はここに通っていたのだろうが、そのころのことは知らない。学校では見たこともなかった。ちがうクラスだったか、もとから不登校ぎみだったのか。とくに白人の生徒は、ここが日本人学校ということになってから、肩身が狭くなっている。歓迎する者も多いが、反感をもってやめていく者も、また多い。
だが、由志は彼を知っている。
一番最近では、昨日会っている。
由志は、レイチェルの情報源の謎を解明した。
ダンという男は《ダウの子供たち》の副リーダーだった。いや、その呼び名は、まわりの人間がつけたもの……彼ら流に呼べば、《ミンク》。
過去にはこの学校の生徒だったわけだから、パラダイスの住人のはずだ。まさか彼らの1人がここの人間だったとは、自らを棚に上げても、意外なことだった。
「なんか文句あるか、おう!?」
副リーダーは、すごんでみせた。白人にしては、ずいぶんといかつい顔をしている。
もちろん「副リーダー」というのは、由志の勝手な想像だ。彼らのセリフを鵜呑みにするのなら、リーダーはレッグガードを操縦していた人物のはず。地上で強奪作業をしていた少年たちのなかでは、この男がリーダーシップをとっていた。呼び名はどうかわからないが、ナンバー2の位置にいるのは、まちがいないだろう。
「べつに」
由志は、視線をそらして冷たく応えた。思わず凝視してしまったことが、副リーダーの神経を逆撫でしたようだ。
「ちょっと、警備員を呼ぶわよ!」
レイチェルが、厳しく叫んだ。
どうやらその様子をみるかぎり、彼女にとっては、ただのボーイフレンドの1人にすぎないようだ。レイチェルの気を惹くために自身の素性を隠して、ミンクの情報をおもしろおかしく伝えているのだろう。
「ち、しかたねえな。帰りにむかえにくるからな、待ってろよ!」
副リーダーは、逃げるように出ていった。
「ごめんね、ユウ……」
由志は、レイチェルの謝罪の言葉を耳に入れながら、あることに考えがいっていた。
ヤツが情報源なのならば、逆に彼女へ嘘の情報を流せば、それがヤツのもとまでたどりつくはずだ。そうすれば、彼らの行動をコントロールすることも可能になる。
どうせ、彼女も自分を利用するつもりなのだ。こちらも利用させてもらうことにしよう。
「どうしたの、ユウ?」
「あ、いや……気にしてないから、いいよ」
いつもより愛想よく、由志は言葉を返していた。