第二章 飛翔 3
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レイチェルを楽園の中心地まで送ったあと、由志はブルックリンの廃工場に行った。
ミンクの秘密基地があの倉庫なのと同じように、由志とネルの秘密基地がここになる。
なかに入ると、由志はネルをさがした。
そういえば、このところ姿を見ていなかった。無線でしか会話をしていない。
「ネル! ネル!」
「ここだよ」
ネル自作のレッグガードが格納されている場所から、さらに奥に入った部屋。そこから声が返ってきた。
「入るよ!」
「あ、ダメ! ここには、いろいろ動かせないものがあるから!」
これまで由志が入ったことのない部屋だから、なにが置いてあるのかもわからない。ネルがそう言うのだから、精密な部品でもあるのかもしれない。
「わかった。ガードの操作感を確かめたいから、乗っていいか?」
「うん。だけど、まだ調整がすんでないから、あまり激しく動かさないでよ」
「ああ」
由志は、ガードに乗り込んだ。結局、この日もネルとは顔を合わせなかった。
* * *
「もう少しだ……」
それには、もう少しで作業が終わる、というほかに、もう1つの意味があった。
「ゴホッ!」
咳き込んだ。このところ止まらない。無線での会話では、我慢するのに苦労している。
口にあてた手のなかに、濃い血液がベッタリと……。
「時間がない」
もともと、20歳まで生きられないと医者には告げられていた。天才の頭脳とひきかえに、神は薄命を要求した。
むしろ、ここまで生きられたことを感謝するべきなのかもしれない……。
* * *
由志が家にもどったころ、激しい雨が降ってきた。午後7時を過ぎ、外は暗い。雷光が、一瞬だけ世界を白く染める。
今夜、両親はいなかった。たしかパーティがあるとかで、帰りは遅くなるのだ。
玄関から階段の上を眺めたら、沙莉が見下ろしていた。稲光に照らされて、狂気に満ちた笑みがはっきりと見えた。
「使用人も帰らせたから、いまは2人っきりよ」
住み込みのはずだが、沙莉は言った。階段を降りる足どりは、蝶のように軽かった。
「決着をつけましょう」
その両手には、それぞれ短剣が握られていた。父のコレクションだ。
左手の短剣を宙に放った。
弧を描いて、床に突き刺さる。
「とりなさい」
どうやら、本気らしい。
由志は、その短剣を引き抜いた。
「わたしのものにならないのなら、殺してあげる」
迅速の踏み込みで、刃が突き出された。
心のどこかで、あのレッグガードを操縦していたのは沙莉ではない、と信じられない自分がいた。だが、本当に彼女なのだ。
由志は受け流し、反撃の一振りを放った。
簡単にかわされた。お嬢様の反射神経ではなかった。
「何度も戦ってるから、わかってると思うけど、わたしをなにもできない女だと侮っていると、痛いめをあうわよ」
沙莉の剣を受け止め、由志の剣が受け止められる。刃鳴りが、ほかにだれもいない邸宅に響きわたっていた。
「甘いわね! わたしが女だから手加減してるの?」
沙莉は、余裕をもって立ち回っている。
由志にも余裕はあったが、全力に近かった。この女の底力に恐れを感じた。
「剣よりも、あの武器のほうがよかったかしら?」
キン、キン、キン!
小気味のよい金属音が楽しげに聞こえるが、やっていることは殺し合いだ。
「小さかったころの、空手道場を思い出すわね」
「……」
「あのころから、わたしのほうが強かった。でも、ずっと鍛えてたのね……あなたも、羽ばたきたかったんでしょ? だから、力を手に入れようとしたんでしょ?」
自由になって飛んでゆきたい──由志も抱いたことのある感慨だった。
「あなたとわたしは、同じなのよ」
「……同じ?」
「飛べない鳥よ。翼がないの」
強烈な一撃が振りおろされた。
水平にした刃で受け止める。
「わたしのものになりなさい」
「……」
「それがいやなら……わたしを、あなたのものにしなさい!」
命令に近い語気だった。
上からの力に抗って、沙莉の刃を押し返した。
はじめて攻撃に打って出た。
鋭い一突き。
彼女の背後は壁だ。逃げられない。
美しい顔のすれすれに、刃が突き立った。
雷光が、2人を照らす。
反撃を防ぐために、左手で彼女の右腕を押さえた。
しかし、沙莉の身体から力は抜けていた。
ただ瞳が、由志をとらえている。
──奪いなさい。
そう告げていた。
由志は短剣を引き抜くと、投げ捨てた。
沙莉を抱き寄せて、唇を合わせた。
姉弟というしがらみなど、頭から消えていた。どうせ、血のつながりはないのだ。
2人は、情熱的に愛し合った。
いま思えば、おたがいが惹かれあっていたのかもしれない。鬱積した思いが爆発したようだった。
「もっと……」
気づいたときには、うっすらと明るくなりはじめていた。もう雨もやんでいるだろう。
2人は、ベッドのなかで深い眠りについた。
朝、気配で目覚めた。両親が帰って来たようだ。パーティが長引いて、朝帰りになったのだろうか。めずらしいことだったが、そんなことはいまの由志にはどうでもいいことだった。沙莉にとっても同じだろう。おたがい言葉にこそ出さなかったが、いっしょに家を出ることを考えていた。
部屋に入ってきたようだ。いまここが、だれの部屋なのか、由志は認識していなかった。
「あ、あなたたち……」
母の声がした。驚きに支配されていた。
家のなかは決闘で乱れているし、ベッドのなかでは2人が抱き合っているのだから当然だ。だが、由志に隠すつもりはなかった。
「な、なにしてるの……?」
母の声は、呆然としていた。
由志は上半身を起こし、義母に向いた。
その後ろには、父の姿もあった。
「う……」
沙莉も目覚めたようだ。
「あなたたち……姉弟でしょ!?」
「べつに、血がつながってるわけじゃないでしょ」
反抗的に沙莉は言った。
「わたし、由志と生きていく。パパとママが不満なら家を出るわ」
「バカなこと言わないで!」
ヒステリックに、母は叫んだ。
「わかってない……あなたたちは、なんにも……」
青ざめていた。いまにも倒れてしまいそうなほど、足元もおぼつかなくなっていた。
「なにあわててるの……? 本当の姉弟ってわけじゃないのに」
沙莉は、たいしたことではないと、平静を崩さない。
「まさか……」
由志は、ある可能性に思い至っていた。
父の顔を見た。表情は変わっていない。冷然とした、いつもの顔だ。
「なに? どうしたの?」
沙莉は、夢にも思っていないようだ。
考えてみれば、なぜ自分が選ばれたのか。
父からは、タカモリの理念に合っているという話をされた。テロ犠牲者の遺族である由志が、困難にあっても前向きに進んでいく企業イメージと合致しているのだと。
ちがうのだ。
それは、あくまでも建前だったのだ。
「なにが言いたいの?」
不安を感じたからか、沙莉も上半身をおこした。胸が見えないように、ブランケットを羽織っていた。
「オレの母さんは……」
「え? なんなの?」
義母は、なにも言わない。というより、言えないのだ。
「オレは、あなたの……」
由志は、義母の背後にいる父に言った。
「あなたの本当の……」
「由志、なに言ってるの!?」
この家の──鷹森家の崩壊を予感した。
いや、沙莉と結ばれたその瞬間に、それははじまったのだ。
「離れなさい……」
義母の声が、異世界から侵入してきた囁きのように聞こえた。
「離れなさい! あなたたちは、本当の姉弟なのよ!」
「う、うそ……」
「血のつながった……本当の!」
残酷な現実を、沙莉と由志に突きつけた。
「嘘よ……だって、由志は養子でしょ……」
「この子の母親と……この人は……」
そのさきを、義母は言えなかった。
沙莉は、父の顔を見た。
「嘘って言って……」
父は、顔を横に振った。
「そ、そんな……」
「だから、離れなさい……あなたたちは、愛し合っちゃいけないの……」
「い、いやよ……」
消えいりそうな声を、沙莉は絞り出した。
「そんなの、イヤよ!」
一転して、はり裂けそうな声で。
「あ、あなた……なんとか言ってください」
身にあまる事態と感じたのか、義母は父にすべてを託した。
「見なかったことにする」
父は、毅然と言った。動揺はないし、いたって冷静だ。
「沙莉、おまえは留学しなさい。欧州がいいか? それとも日本にするか? 好きな国を言いなさい。すぐにでも留学を手配する」
「そうよね……由志のほうを選ぶのよね。跡を継ぐんだから」
「沙莉、いいから私の言うことをきくんだ」
「わたしを捨てるのね……」
「ちがう。そういうことじゃない」
「どういうことなのよ! 出てって! みんな出てって!」
ため息が聞こえたあと、父が部屋を出た。次いで、義母が。
由志は、沙莉の眼をみつめた。
あなたも……出ていって──。
そう言われたような気がして、由志もベッドから出た。服を着て、沙莉のもとを離れた。




