暗い暗い森の中で
いつまで私はここに居るの?
このボロを身にまとって、ひたすら意地悪な伯母の宿屋で床を磨く日々。
病気の母の為に毎日毎日、冷たい水で床を。
母にはもう何年も会って無い。でも伯母は母の為に働けと言う。
私はそれを信じるしかない。
私が毎日働けば母は助かる。そう信じる。
でも私の人生は?
せめて一目でも母に会う事が叶えば、決心がつくのに。
母のために、この身が骨と皮だけになろうとも働くのに。
私の人生は一体、何で出来ているの?
汚いボロと冷たい水、そして雑巾?
幼い頃、私にも夢があった。
華やかな舞台で歌い、踊り、人々を魅了したい、そんな夢が。
でもそれは所詮夢。
私のような者には到底敵わない、儚い夢。
神様は言った。
お前には汚い床を、延々と磨き続ける人生がお似合いだと。
母のために、ひたすら母のために。
でも私は汚い床を磨き続けて、醜い心に染まってしまった。
私はいつまでここに居るの?
いつまでここで磨き続ければいいの?
自由になりたい。
こんな奴隷では無く、普通の、ごく普通の人生を歩みたい。
ふと床から目を逸らせば、同じ年頃の娘がドレスを身に着けてる。
祭りに行くために、綺麗なドレスに身を包んでいる。
私には似合わない。私の心は汚れてしまったから。
汚い床を冷たい水で磨き続けて、冷え切ってしまったから。
どうか私の心を温めて。
どうか母に会わせて。
本当に私の心が汚れ切ってしまう前に。
伯母が私の名を叫ぶ。
クラリス、何を怠けていると。
私は床へと張り付きひたすら磨く
でも意地悪な伯母は私の髪を引っ張り、憎しみに満ちた顔を向けてくる。
やめて、私の自慢の髪よ。
母から貰った綺麗な赤髪。
触らないでと振り払いたいけれど、そんな事をすれば私は路頭に迷う。
ここで食べさせて貰える一切れとパンが私の命。
それさえ無くせば生きていけなくなる。
そして何より、母が死んでしまう。
私が働かなければ、母が病に殺されてしまう。
伯母は叫ぶ、私に何の関係の無い怒りをぶつけてくる。
今夜は祭り、この街で大きな祭りがある。
その舞台に立つ権利が得られなかったと、伯母は喚き散らす。
権利が得られなかったのは私のせいだと。
伯母の嫌がらせはまだ続く。
冷たい水を、わざわざ森の井戸から汲んでこいと。
街にも井戸がある、そこでいいじゃないか。
でも伯母に口答えはご法度。
また私の体に傷が増える。痛いのはもう嫌だ。
私は森へと向かう。
バケツを持つ手に、もう感覚は無い。
冷たい水で床を磨く毎日。もう冷たい以外の感覚は無い。
母に褒めてもらった綺麗な指も、今ではひび割れ膨れ上がった。
まるで歴戦の騎士。いや、手の感覚が無くなっては騎士など出来ない。
私の手はただの雑巾と同じ。床を拭くだけの、どんどん汚くなっていく布切れ。
最後には捨てられる。
もう床より私が汚くなれば捨てられる。
いっそ、このまま逃げてしまおうか。
でも逃げれば母が死ぬ。病に苦しみぬいて死んでしまう。
汚れが心に染みてくる。
きっと母は既に死んでいる。
何年も会えないのはそういう事。
伯母はいいように私を使っている。雑巾として。
もうじき夜。祭りが始まる。
私は森へと入り、井戸へと向かう。
ここで私は死んだ事にする。井戸に落ちて死んだ事に。
靴を脱いで片方をバケツに入れて井戸へ落とす。
もう片方は地面へ。
これでいい。これだけでいい。私が戻ってこないと怒った伯母は探しに来る。
そして井戸の中からバケツを引き上げると、そこには私の靴。
伯母はきっと私の死体なんて探さない。
私は死んだと思い込む。伯母は雑巾が一枚無くなったからと言って探さない。
森の中を素足で走り、街とは反対側へ。
どんどん日が落ちてくる。暗い暗い森の影が私へと襲い掛かってくる。
足元が良く見えず、何かに躓いて転んでしまった。
暗い森の中で、起き上がろうとするけれど、目の前はすでに漆黒の闇。
でも何も怖くない。
伯母の元で死ぬまで働かされるよりは、獣のご飯になった方がいい。
私の体を食べて、その獣が飢えを凌げばいい。
そちらの方が余程有意義だ。汚い床を磨き続けるよりは。
頭上から、低い声が聞こえてくる。
漆黒の森に、わずかに入ってくる月の光。
その光で私が躓いた物が露わになる。
大きな、とても大きな狼。
その狼は寝転がっていて、私はその足のつま先に躓いてしまった。
狼は私の存在に気付き、目を向けてくる。
ここで何をしている、大きな狼は人の言葉を話した。
大きな狼は魔人だと、そこで初めて気が付いた。
この世界の最初の支配者。人間の敵。
私は大きな狼へと、素直に答えた。
伯母から逃げたい、だから死んだ事にして、この森を抜けて別の街へ行くと。
でも狼はその大口を開いて高らかに笑う。
餌が自分からやってきてくれたと、愉快そうに。
その伯母とやらには感謝しなければ、そんな風に言いながら。
狼は大きな口を開けて、大きな人のような手で私を鷲掴みにする。
もう片方の手にはとても大きな剣。
私はゆっくり、狼の口元へと運ばれていく。
でも途中で狼は止まった。
そして不思議そうに私を見つめる。
何故、そんな安らかそうに、幸せそうな顔をしているんだと、狼は私に尋ねてくる。
ちっとも幸せなんかじゃない。私は決して、そんな顔をしていない。
雑巾として扱われ、最後は魔人に食べられる、そんな人生が幸せな筈が無い。
私は狼へと懇願する。
食べるなら、この身を全て貴方の物にしてくれと。
私の体も心も全て捧げる。だからどうか、残さず全て平らげてくれと。
狼は毒気を抜かれたように呆然とし、そのまま私を地面へと降ろした。
そして胡坐をかき、大きく溜息を。
お前みたいな骨と皮だけの人間を食べても、身になる筈がない。
狼はそう言いながら、傍の木から果実を摘まむと私に放ってくる。
私は思わずそれを必死に掴み、貪ってしまう。
乾いたパンしか食べれなかった。あとは冷たい水を飲んでお腹を膨らませてきた。
果実は甘かった。甘い物を口にしたのが久しぶりで、私はそれこそ獣のように貪った。
美味しい、本当に美味しい。
そんな私を見て、狼は愉快で哀れな奴だと笑った。
食べる価値すら無い、私にはそう聞こえて、思わず涙が出てきた。
私には何の価値も無い、ただの雑巾としての人生。
ひたすら汚れをふき取る為の布切れ。
違う、それは違う。
私は思わず狼へと叫んだ。私の人生は雑巾なんかじゃないと。
母のためだった。病気の母のために必死に働いた。
でも伯母は母に会わせてくれない。もう何年も。
心の中で何度も自問自答を繰り返した。
母は既に死んでいて、私はいいように使われているだけではないかと。
それは汚い床を磨く度に私の心を浸食し、ついには願っていた。
母は……既に死んでいてほしい……そんな風に。
狼へと私は訴えた。狼には何の関係も無い話。
私は伯母と同じだ。あの人が祭りの舞台に立てない事など私の知った事では無い。
それと同じだ。私は狼に愚痴を聞かせ、楽になろうとしていた。
でも狼は黙って聞いてくれた。そして一言、こう言った。
お前の言う通りだ。母は既に死んでいると。
お前は良いように使われただけだと。
それを聞いて私は悲しくて泣いてしまった。
母の事が大好きだった筈なのに、いつしか死んでいてほしいと願ってしまった。
こんな醜い心は要らない。このまま死んで母の元に行って謝りたい。
すると狼は続けてこう言った。
お前の生き方が気に食わない。そんな風に。
そんなの私だって同じだ。こんな人生、気に入る筈が無い。
狼は私を抱えて膝の上に乗せると、その毛皮で私を包んでくれる。
暖かい、とても暖かい。この感覚は……久しぶりだ。
そのまま狼は語ってくれた。
自分にはかつて国があった事、心から信頼する主人、仲間が居た事。
でも人間によって国は滅ぼされ、主人も仲間も散り散りになってしまった。
狼はイルベルサという国の、ザナリアという名前の戦士。
私も自分の名前を狼へと伝えた。クラリスという名前を。
ザナリアは人間にしてはいい名前だと言いながら褒めてくれた。
この名前を付けてくれたのは母だ。それを思い出して、私はまた泣いてしまった。
私に名前をくれた母。そんな母を私は見捨てたのだ。どうか死んでいてほしいと願ってしまったのだ。
でもザナリアは私を慰めてくれる。
お前の母は、決してお前を奴隷にしたかったわけじゃない。
きっと、こう思った筈だ、さっさと逃げ出して新しい人生を歩めと。
そんなザナリアと私の耳に、にぎやかな音が聞こえてくる。
街の祭りの音だ。今日は一番大きな祭りの日。海の神を称える日。
ザナリアは海の神とはあいつの事か、と鼻で笑った。
もしかして神様と知り合いなのだろうか。
ザナリアは語る。人間が神と称えている多くは魔人だと。
強大な魔人に立ち向かえない弱い人間は、神と称え助けを乞うんだと。
そして続けてザナリアはこう言った。
「俺も神と言われてみるか。お前の街の奴ら全員に、俺を神だと言わせて見せよう」




