89 王子様と意地悪をしましょう
意地悪の内容を聞いたエリーナは、それくらいならと承諾する。エリーナにもクリスが驚く顔が見たいといういたずら心が芽生えたのである。その後、西の国のプリン事情をパティシエと共に聞き、再現してみようと夢を膨らませた。西の国のプリンは材料に特別なものはなかったが、組み合わせが独特だった。
「クリームチーズプリンに、かぼちゃプリンですか……試作のために食べに行ってみますか」
パティシエはカフェ・アークに来てからプリン研究に目覚めたらしく、暇さえあれば各地のプリンを食べ歩いているらしい。西の国はさすがに遠いため、お土産にプリンが頼めないのが残念だ。
「頼んだわよ。これだけ聞いたら食べずにはいられないわ」
シルヴィオの語りは上手く、聞いているだけでよだれが出てくる。西の国のプリンに対する期待値はうなぎのぼりだ。まだ見ぬプリンに想いを寄せ、エリーナとパティシエは強い意思を瞳に燃やして頷きあったのだった。
そして帰りも乗り心地抜群の馬車で送られ、話が弾む。シルヴィオは西の国の食文化や歴史について話し、エリーナは幼少期の思い出を話した。シルヴィオが聞きたがったからだ。彼は屈託なく笑い、微笑ましそうに目じりを下げている。
「ねぇ、エリーナ嬢。クリス殿には婚約者はいないんだよね。恋人もいないの?」
「いないと思いますわ」
クリスが隠しているだけかもしれないが、一切そういう気配を見せていない。
(クリスに恋人ね……そうなったら、クリスに相応しい人か見極めないといけないわね)
だがクリスに恋人が出来たらと想像すると、少し気が重くなる。
(ちょっと寂しいけれど、いつかはそういう日が来るわよね……)
クリスにはクリスの人生がある。常に一緒にいるので忘れがちだが……。少し表情を暗くしたエリーナを見て、シルヴィオは目を細めた。面白そうに彼の口元は弧を描いている。
「そう、お互いいい人が見つかるといいね」
そう微笑むシルヴィオに、エリーナは曖昧に頷くことしかできないのだった。
その後、ローゼンディアナ家に着いた二人はサロンでクリスを待つことにした。いたずらを仕掛けるため、人払いを済ませてある。シルヴィオは扉に背を向けて立っており、その前にエリーナがいた。二人して静かに笑い、シルヴィオが少し身をかがめてエリーナに顔を近づける。
(本当に、いい顔しているわ……)
さすがにこの美形にも見慣れてきて、心臓が早鐘を打つことは少なくなってきた。だが、クリスと同じ金色の目に見つめられ続ければ、さすがに恥ずかしくなってくる。
「ちょっと近すぎませんか」
「これぐらいしないと、キスしているようには見えないでしょ?」
そう人の悪い笑みを浮かべているシルヴィオのいたずらは単純。キスをしているふりをして、驚かせようというものだ。そうこうしているうちに、足音が近づいてきてドアが開く音がした。
「エリーナ。愛しているよ」
そう妖艶な笑みを浮かべ甘い言葉を口にしたシルヴィオに、不覚にも心臓が跳ねた。彼の細い指が顎に添えられ、顔がさらに近づいてくる。
(……え?)
シルヴィオの吐息を感じた瞬間、彼は目の前から消えた。遅れて鈍い音が聞こえ、紅が視界に入りこむ。エリーナの視界は、クリスの大きな背中で遮られた。
「エリーに、何をしたんですか」
絶対零度の怒りに満ちた声が、床に転がっているシルヴィオに投げつけられた。シルヴィオは、二人を見た瞬間駆け寄って来たクリスに、横に引き倒されたのだ。
エリーナからクリスの表情は見えないが、さぞ恐ろしいものに違いない。エリーナはこの部屋だけ真冬になったような心地になり、背中に冷や汗が流れる。
(大変……やってしまったわ)
どう見ても大失態である。クリスの過保護さをからかうつもりだったが、甘く見ていた。
「エリー、さっきのは君の意思? シルヴィオ殿下を選んだの?」
クリスはこちらを見ずに、淡々とそう問いかけてくる。怒りが突き抜けて抑揚がなくなっている。エリーナはサァと血の気が引き、「えっと」と口ごもった。
「選んだわけじゃないんだね」
肩越しに振り返ったクリスの口元は緩やかな弧を描いていた。だが、目が欠片も笑っておらず、血走っている。エリーナはあまりの恐怖に、ただ首を縦に振るしかできなかった。弁明しないと、シルヴィオが危ないのは分かっているのに。
「クリス殿、いきなり失礼じゃないかい?」
立ち上がったシルヴィオが不満気にクリスを睨みつける。
「どちらが。エリーには手を出すなと言ったでしょう。貴方のような人にエリーは渡さない!」
敵対心を隠しもせず、クリスはそう正面からシルヴィオに怒りの言葉を叩きつけた。だがシルヴィオは興の冷めた顔で、その怒りを受け流す。
「僕はエリーナ嬢に何もしていないよ。君へのいたずらさ。びっくりさせようと思ってね」
クリスは本当かとエリーナを振り向き、エリーナは勢いよく首を縦に振った。寸前だったけれど、キスはされていない。苦々しい表情に変え、シルヴィオに顔を戻す。
そして舌打ちをし、
「早く帰ってください」
と顎でドアを指した。怒りを隠そうとしないクリスを見ても、シルヴィオは意に介した様子はなく、むしろ挑戦的に口角を上げがらりと口調を変えた。
「そう言うなよ、クリス。お前にだけ伝えたいことがあるんだ」
そう言って手招きをする。強い有無を言わさない口調からは、上に立つ者の風格を感じさせた。クリスは苦虫を噛み潰したような顔で、シルヴィオに近づいて行く。そして彼はクリスに耳打ちし、エリーナと目が合うとニコリと笑った。
「じゃ、僕は当分大人しくしているから安心してね。エリーナ嬢も巻き込んでごめん」
彼は軽く手を振ってクリスから離れると、部屋から出て行った。勝手に帰るのだろう。
エリーナは慌ててクリスに駆け寄り、先ほどのいたずらを弁明しようと言葉を出しかけた。
「ク……クリス?」
それが止まったのは、クリスの表情が強張っており絶望の色が見えたからだ。
「何を言われたの?」
クリスがここまで取り乱し、表情を変えるなど余程のことだ。エリーナがクリスの腕を掴めば、抱きすくめられた。首元に添わされた指先が冷たい。そしてハッと我に返ったように、エリーナから体を離す。
「ごめん、エリー。しばらく一人にして……」
クリスはエリーナの視線を避けるように顔を背け、サロンを後にした。残されたエリーナは不安そうな顔をしたまま、その背を見送ったのだった……。
クリスは部屋に戻ると、激情のままに拳を横に振り払って壁を殴った。頭が割れるように痛く、シルヴィオの言葉が響き続けている。
彼はクリスの耳元で、
「いつまで偽の仮面を被っているつもりだ、この偽善者が。お前がいつまで家族面でいられるか、見物だな」
と囁いたのだ。それは劇物となって、クリスの心を蝕む。クリスはギリリと奥歯を噛みしめ、空を睨みつけた。
「家族になると、決めたんだ。エリーナの側にいるために……」
苦し気な、思いを吐き出すような声は誰にも届くことはなく、そしてその今にも泣きだしそうな表情も目にするものはいないのだった。




